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 喉頭がんのために亡くなった落語家の立川談志さんの遺族が2011年11月23日夜、記者会見を開いた。葬儀直後に会見に臨んだ談志さんの長男・松岡慎太郎さんと、長女・弓子さん。弓子さんは、談志さんが落語家の命とも言える声帯のがんとの闘病時でも「声のかぎり、落語を愛してました」と明かし、時おり涙を拭いながらその最後の様子を語った。

 以下、全文を書き起こして紹介する。

談志さんの長男・松岡慎太郎さん(以下、慎太郎): 本日は、突然お騒がせして、大変申し訳ございません。只今より談志の記者会見を行いたいと思います。私、談志の長男で「談志役場」という談志の事務所をやっております、松岡慎太郎と申します。本日はよろしくお願いします。

 既に報道にもたくさん出ておりますように、一昨日11月21日14時24分に喉頭がんで談志は死去しました。生前ファンの皆さま、マスコミ関係者の皆さま、本当にたくさんの皆さまにお世話になりまして、場合によってはご迷惑をおかけしたこともあったのですが、家族として、事務所として皆さまにまずはお礼を申し上げたいと思います。本当にありがとうございます。

 簡単になんですけれど、今回、家族葬というか密葬という形で、本日3時に葬儀を終えることができました。あまりこれまで人に話すことはなかったので、簡単なんですが、これまでの病状の経緯などをご報告させて頂きます。その後、質問などがありましたらお聞きしますので、お願いします。

 3年前談志は喉頭がんになりました。その時は1回目というか、発見もすごく早かったので、放射線の治療、レーザーですとか、非常に効果的な治療ができ、声帯にできたがんだったんですけど、すぐ治ったんです。しかし昨年の11月、本人も喉の調子が悪いと言っていて、医師のほうから家族に話がありますということで、喉頭がんの再発ということで事実上の余命宣告を聞きました。

 医師も患者の命を守る、病気を直すという立場から、声帯にがんができる「声門がん」というがんだったのですが、声帯をそっくり一刻も早く転移する前に取って下さいというように言われました。ただ、患者が落語家で、喋る仕事をしています。おそらく主治医も、家族も声帯を取ると言って「わかった」ということは無いだろうと、案の定やっぱり本人も絶対それはプライドが許さないということで、摘出手術は拒否しました。

 そして、父の場合は、とりあえず表面にできたがんを表面だけ取り除くというかたちで、治療としてはあまりベストではないのですけど、それでも自分の声で、少しでも喋れる限り傷口を削って、懸命に声を出して今年の3月まで高座に立ち続けていました。

 ただその後、がんも進行してきまして、呼吸も苦しくなってきて、3月の終わりくらいに、窒息する恐れがあるということで「気管切開」をして、管を(喉元に)通しました。それからは自宅療養というかたちで亡くなるまで8ヶ月、在宅と入院を続けていた。その間、いろいろ危険なことも何度かあったが、一見華奢に見えるのですけど強くて、時には知力、体力、いろんな経験で病気を乗り越えてきた。先月の10月の27日に病状が急変して、心肺停止になりました。それでも心臓はすぐ動き始めまして、意識は戻らなかったんですけど、その3週間後、息を引き取りました。

 在宅中も本人もかなり苦しかったと思います。飲めない、食べられない、喋れない。喋れないというのが何より辛い状況で、それでも在宅中・入院中は一回も「辛い」とか、本来そういうことを言うタイプなのですが、「あと2年だ」「痛いのは嫌だ」と言っていたわりには、一度も「辛い」といったことは言わず、最後まで強く生きていた。最後の最後は家族みんな間に合って、穏やかに死去しました。

 本日3時に葬儀が終わったばかりですので、いろいろ気持ちの整理だとか、これからやらなければならないことがあまり決まっていなくて、決めなればならないこととかたくさんあるのですが、今までの経緯は以上のようになります。

 これ以外で何か質問がございましたら、よろしくお願いします。

■主治医に向かって「喋りたい、喋りたい」

フジテレビ・武藤氏(以下、武藤): 悪いということは聞いていたのですが、今年の3月に舞台を降りたときに、いつになく元気が無かった。談志師匠は、もしかして自分の限りある命はご存知なのかという気もしました。お嬢さんはそういうお父さんをずっと見ていて、どんな思いでいらっしゃいますか?

談志さんの長女・弓子さん(以下、弓子): 3月の気管切開の手術と同時に、胃瘻(いろう)といいまして栄養を入れる管を入れました。穴を開けた時点で、ほとんど声は出なくなっていました。それでも隙間から漏れる声で、「私の名前は立川談志」、口の動きで聞き取れました。しばらくは、私を介してですが、主治医に向かって、「どうしてこうなったんだ」「喋りたい、喋りたい」と。もちろん喋ることが大好きですから、辛かったと思います。

 それからは常に筆談でした。後半は筆談のほうの字も読めなくなって、それでも8ヶ月間毎日、人生において最初で最後だと思うのですが、父とべったり過ごせました。父は辛かったと思いますけど、そのおかげで、父のイメージと違った、こんなにジェントルマンだったんだ、こんなに優しい人だったんだと(いう一面も見ることができ)、そういう時間を持てたのはすごく良かったんだと思います。

武藤: 最後に書かれた筆談の言葉は何ですか?

弓子: もともとお喋りな人ですから、筆談の紙も全部とってありますけれども、すごい量になっています。最後、何て書いたんだろう。ごめんなさい、あまりにも時間が長かったので、色んなエピソードがありすぎて、すぐには出ないです。

 遺言では無いですが、「葬儀もしないでくれ」、「お経もいらない」、「骨は海にまいてくれ」と、戒名もずっと昔から自分で付けていました。密葬するにあたって、少しでも父の意思に添えるように、正直マスコミから逃げるようなかたちで、最後は「ザッツ・ア・プレンティ」の音楽で見送れましたし、紋付袴を着せて、扇子を持ち、すごく似合って、格好良かったです。

■戒名は「立川雲黒斎(うんこくさい)家元勝手居士」

武藤: お付けになった戒名は?

慎太郎: 本人が付けた戒名なので、正式なものかどうかわからないのですが「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」です。

武藤: 去年、お医者様から余命が・・・とおっしゃいましたが、その時はどれくらいと聞いたのですか?

弓子: 2、3ヶ月かもしれないので、ぜひお家に連れて帰ってあげたらどうですかと言われました。本当に病院が嫌いで、「家に帰りたい」と帰りたがっていたものですから。ただ、看護師さんのやることを私たちがすべて覚えて、できないことには連れて帰れないものですから、私たち練習しまして、丸5ヶ月一緒にお家で過ごしました。結構大変でした。

武藤: 奥様には最後まで頭が上がらなかった師匠だと思いますが、奥様のご様子はいかがですか。

弓子: すごく母が頑張りまして、何でも父のことが一番で。娘から見ていても、すごく幸せな夫婦だったと思います。あんなふうに、もともと他人同士が思いやり合いあえるのかというくらいに素晴らしかったと思います。だから私たちも頑張りました。

武藤: 改めて、落語家・立川談志をどういう思いで見つめていらっしゃいますか?

弓子: 落語家・立川談志はすごく格好いいんですけど、最後の8ヶ月の印象のほうとても今は強いので、本当に最高に優しいお父さんでした。

■「強さと優しさの両方があった」

スポニチ・イトウ氏(以下、イトウ): 今日葬儀を終えられたということですが、棺の中にはどのようなものをお入れになったのでしょうか。あと、遺言や遺書はあったのでしょうか?

慎太郎: 棺の中には特にお花以外は、トレードマークにしていたバンダナというか、ヘアバンドというか。あと、ぬいぐるみとかも可愛がっていたので、そういったものもお供に入れました。遺言とか遺書は一切無いです。

ドワンゴ・七尾功氏(以下、七尾): この度は本当に残念に思います。質問を2つさせて下さい。先ほど、優しい父親だったという話がありましたけれども、破天荒な天才ぶりを発揮されて、国民に広く愛された談志師匠なんですけれども、ご家族にとってはどんな父親だったでしょうか?

慎太郎: 皆さまがイメージされている立川談志とほぼ同じです。

七尾: 今年の3月まで活動されていたわけですが、談志師匠が高座に向ける思いというものはどういったものがあったでしょうか?

慎太郎: 亡くなるぎりぎりまで、かなり強い意欲は持っていたと思います。ただ、自分がほとんどベッドから起き上がれない状態でしたので、行けないという自分の現実もわかっていたでしょう。でも、弟子の会とかがあると、行ってやりたい、行っても喋れないんですけど、着物来て(舞台に)上がるだけは行ってやるという、そういう強さと優しさの両方があったと思います。

■家族をなるべく悲しませない「見事な死にざま」

ワイドスクランブル・オザワ氏(以下、オザワ): さきほど弓子さんは、人生で最初で最後かと思うほどべったりといらっしゃったとおっしゃっていました。慎太郎さんは皆さんがイメージしているとおりの立川談志でしたとおっしゃいましたが、こんなにジェントルマンかと思ったとおっしゃったということは、弓子さんにとって、父親としての談志師匠は違う存在、イメージだったということですか?

弓子: 3月に声を失ったということは、あのお喋りで毒舌の父が一言も口をきけなくなるということは、それはそれは切なくて、いじらしく・・・。ただ声を失わなければ、味わなかった思いはもちろんすごくたくさんあったと思います。それ以前の父は本当に破天荒で、私たちの子供のころからテレビで言っていることと家で言っていることは全く同じですし、家族に対して愛情が深い人でしたけど、全く外と家の乖離(かいり)はありませんでした。

 ただ、声も失い、自分で自分のことがどんどんできなくなったときに、そういう方が今多いと思いますけど、在宅介護、要介護度5になりまして、そうなったときに、なってみないと分からない思いは双方にあったと思います。

オザワ: それは双方にあったという意味合いでいえば、師匠自身が言葉にならないながらも変化というか、変わったというのは、どういうときに具体的に感じましたか?

弓子: 自分で戒名もそうですけど、勝手な人だったのが、結局我慢をせざるをえないわけじゃないですか。吸引もされなければいけないし。してもらわなければいけないことがたくさん発生するわけですから、そうなったときに「お願い」という言葉に、姿とか。しゃべれたら、たぶんなかった・・・。

 ものも食べれなくなりましたけれども、あまりものを食べたいとかは言わず、やっぱり「しゃべりたい」というほうが多かったです。

オザワ: 慎太郎さんもそういう姿をご覧になっていて、小さいころからのお父さん、亡くなる直前の姿をご覧になっていて・・・。

慎太郎: やっぱり喋れなくなってからの父とそれまでの父は、全く変わりましたね。いま姉が言ったとおりで。

弓子: ただ、元の部分はすごく強い人で。ある意味、なかなか死ななかったんだよね・・・。

慎太郎: 力強く生きましたね。

弓子: (慎太郎さんに向かって)強さも本当に見せつけられたね。

オザワ: もう一つだけ、繰り返しになるかもしれませんが、我々にとっては本当に突飛なイメージの談志師匠なのですが、父親として、ご家族にとってはどういう存在だったでしょう?

慎太郎: 今思いますと、すごく家族孝行の父だったと思いますね。意外に思われるかもしれませんが、すごく家族孝行でしたね。

 私自身は去年、医師のほうから病状を知らされてから、気持ちの整理をする時間がありましたし、一緒にいる時間も十分に与えてくれて、本当に少しずつ少しずつ、家族が悲しまないように、人生なりゆきなのかもしれないですけど、なるべく悲しまずにというか・・・悲しいんですけれど、突然死なれるようなことは家族に与えなかったということは、すごい死にざまといいますか、それは見事だったと思います。それをしてくれたということが、家族にとっては本当にすごい父親だったなと思いますね。

弓子: 本人は「ふとした病いで死にたい」と言っていましたから、あの頑張りはきっと私たちのために頑張ってくれたんじゃないかなと思います。

■喋れなくなったことを受け入れるのに時間がかかった

日本テレビ・ニシムラ氏(以下、ニシムラ): さきほど余命の宣告で「2、3ヵ月かもしれない」と先生からおっしゃられたということでしたが、談志さんご本人もこの余命の日数をお聞きになったんでしょうか?

弓子: そこが微妙なところで、あえて隠しもしてなかったんですが、本人が正直、どう思っていたのか・・・。

慎太郎: 本人は知ってない・・・。

弓子: そのときは知ってない。(慎太郎さんに向かって)だけど、もちろん病名も知ってたよね?

慎太郎: あまり聞いてなかったかもしれない。

弓子: 言っても本人が認めないというようにも受け取れましたし。どっちだったんだろうね・・・。あまり言わなかったね。「もうすぐなんだから」とかいうことは。本当に病気になってからあまり泣きごとは言いませんでしたね。

ニシムラ: ただ、ご自身が再発したということは自覚されていたんですか?

弓子: ・・・と、思います。

ニシムラ: もう一度治って声帯をとらずにすんだと思っていた師匠が、もしかしたらということで、それでも声帯を守るということをお取りになった。2回目の病気が分かってからの覚悟のようなものだとか、ちょっと変わったなという感じはありましたか?

弓子: 徐々にですね。最初、気道確保のために、空気を吸うための穴をあけたときに、喋れなくなるとは、はっきり主治医のほうから言われてなかったので、しばらくはそれを受け入れるのに時間がかかったみたいです。

ニシムラ: 手術が終わってから、声がほぼ出ない?

弓子: そうですね。そのときの筆談の第一声が「しゃべれるのか」「声は出るのか」と聞かれました。

ニシムラ: なんとお答えになったんですか?

弓子: ・・・なんて言ったんだろうな。その手術の直後は、本当に答えられなかったです。

ニシムラ: 答えられないということで、状況をお察しになったということでしょうか?

弓子: そうだと思います。

■「喋れなくなった談志をさらしたくなかった」

ニシムラ: もう一つだけ。この闘病中にどなたかに、この状態、状況をお伝えになったんでしょうか? それとも全く誰にも全くお伝えにならずに闘病されていたんでしょうか?

慎太郎: 家族だけで。さきほど申しましたが、かなり病気も、がんもそうなんですけど、肉体的にも気力も落ちていたので、あまりいろいろな方にご心配かけますし、本人も少しでも穏やかな環境で過ごしてもらいたかったので、家族だけで身を守っていこうと決めました。ですので、一門の人間にも伝えませんでした。

弓子: 声を失った、喋れなくなった立川談志を、私たち家族はあまりさらしたくなかったです。

ニシムラ: お弟子さんもお見舞いにはほとんど皆さん(来られなかったのですか?)

弓子: お弟子さんとは夏ぐらいに一度、一席を設けて、会っていただきました。そのときはすでにだいぶ、一人で歩けませんし、そのような状況のときに、それを機にさらに具合が悪くなったので、お弟子さんと会ってもらったのは、その時が最後です。

慎太郎: 病状は伝えてなかった・・・なんとなくがんというのは一門には伝えてなく、本人とだけ一門と会わせたということです。

ニシムラ: そのときの師匠の様子はどうだったんですか?

慎太郎: すごい楽しみにというか、弟子に会うというので、自分の辛い状況のなかでも頑張って、行きつけの店に行って・・・。

弓子: 病院に寄って、熱が39度くらいあったのを、熱を下げる注射をしてもらい、この管を交換して、本当に担がれるような形で行きました。だけど、お弟子さんの前では、びっくりするくらい一生懸命、少しでもしっかりして・・・。

ニシムラ: でも、喋れなかったんですよね?

弓子: 喋れません。

■「声のかぎり、落語を愛してました」

時事通信・ナカムラ氏(以下、ナカムラ): この度はお悔やみ申し上げます。ご家族としては、余命は2、3カ月かもしれないということはご本人に言ってないけれども、ご本人が察知したかもしれないという感じなんでしょうか?

慎太郎: 察知はしてなかったと思いますね。

ナカムラ: お話はされてない?

慎太郎弓子: してないです。

ナカムラ: 再発ということが分かって、それはご本人も分かって、その後、高座をつとめられたときの談志さんの覚悟というか、それまでと違うような様子はあったんでしょうか。

慎太郎: そうですね。かなり強い意欲を持っていたと思います。ほんと声はもうかすれて、たぶんあのときの高座をご覧になった方だと分かると思うんですけど・・・。

弓子: もう出ない声で、最後になった「芝浜」なんかは・・・。

ナカムラ: 去年の暮れの、読売ホールのものですね?

弓子: あれはもう、普通の人だったら、たぶんありえないと思います。本当に声のかぎり、落語をやっぱり愛してましたし、(落語を)したかったんだと思います。

ナカムラ: それ以降は3月までの間はどれくらい高座をつとめられたんでしょうか?

慎太郎: 去年の12月の読売ホールがあって、3月までに3回ぐらいですかね。すみません、ちょっと・・・。そのくらいだったと思います。

■「ザッツ・ア・プレンティ(これで満足)」

週刊女性・カナマル氏(以下、カナマル): 談志さんが生前すごく好きだった場所だったり、ご家族で食事に行かれたりして思い出の店とかはあったんでしょうか?

弓子: 家で食べるのが好きな人でした。

カナマル: 好物とかはあったんですか?

慎太郎: その時代、時代でかなり変わりましたね。

カナマル: 最近だと?

慎太郎: だんだん言わなくなりましたね。牛乳とヨーグルトとバナナで「これはチンパンジー食だ、俺は」と言って、食べてました。別にそれは嫌がって食べていたわけではなくて。

弓子: 食欲がすでになくなってきてたんですね。気管切開をする頃には。今度、気管切開をした後に、家でステーキを焼きまして「俺も食べる」というので、本当に小さく切ったら、それがノドにひっかかり、そのときも死にそうになりました(笑)。

 あんまり外食とかに家族で行ったりとかは・・・おうちで食べるのが好きな人で。去年のクリスマスに家族で洋食屋さんに行ったのが最後ですね。

武藤: デキシーランドジャズを流されたというのは、曲目は?

弓子: 「ザッツ・ア・プレンティ」です。

慎太郎: 「これで満足」という意味の「ザッツ・ア・プレンティ」。

(了)

(文・亀松太郎、丹羽一臣、写真・石津大助)

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