3月1日の最高裁判決に注目が集まっている──。2007年、愛知県大府市で徘徊中の認知症男性(91、当時)が列車にはねられ死亡した事故をめぐり、JR東海が遺族に約720万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が下されるのだ。

 事故当日、男性がガラス戸を開け自宅を出たのは夕刻。妻(85、当時)がまどろんだ一瞬の間の出来事だったという。タイミングが悪く、介護を手伝うために近くに引っ越していた長男の妻も、家事のため男性から目を離してしまっていた。

「男性はお気に入りのニューヨーク・ヤンキースの野球帽を被って外に出たそうです。帽子と着衣には、いざという時に備えて家族が連絡先を書いた名札を縫い付けていたが、事故は防げなかった。

 男性は最寄り駅の無人改札を通り抜け、JR東海道本線に乗って一駅先に移動、下車したホームの端にあるフェンス扉を開けて線路に降り、後ろから来た列車にひかれました。JR東海は事故で発生した上下20本、約2時間の遅延に対する振替輸送費や人件費など720万円の賠償を求めて提訴した」(全国紙司法記者)

 1審判決では鉄道会社側の主張がほぼ認められた。裁判所は「徘徊は予見できた」として妻に「目を離した過失」があり、長男についても事実上の監督者として「徘徊を防ぐ適切な対策を怠った」と認定。

 2審では「フェンス扉が施錠されていれば事故は防げた」などとして賠償額は半分になったものの、裁判所が妻の責任を認めた点は変わらなかった。認知症高齢者の行動体系を研究する高知大医学部精神科の上村直人・講師はこういう。

「ちょっと目を離したことを過失と認定するのは、裁判所として『家族は24時間休まず監視するか、患者を精神病院に入院させろ』といっているようなものです。そんな判決を出されたら、認知症患者を抱える家族は途方に暮れてしまう」

 2月3日の最終弁論を前に93歳になった妻に代わり、長男が「認知症の人たちの実像や社会の流れをご理解いただきたい」と悲痛なコメントを発表している。

 一方で、鉄道会社側としても損害が発生しているのは事実だし、賠償請求しない場合の基準をつくろうにも、何をもって線引きするかの判断は困難だ(JR東海は「係争中の案件なのでコメントは控える」とした)。

 2025年には高齢者の5人に1人が認知症になると推計されている。こうした賠償リスクは誰もが抱えうるものになるのだ。

 賠償リスクは列車事故だけではない。とくに地方在住者の場合に最も身近な危険とされるのが車の運転だ。昨年10月、宮崎市で軽乗用車が暴走し、歩行者ら男女7人が死傷する事故が起きたが、運転していた73歳男性は事故の2日前まで認知症治療で入院していた。

 そうした大惨事に発展しないまでも、危うい事態は日常的に起きる。ある警察関係者はこんな事例を挙げて説明する。

「70代男性が、加速しなければいけない高速道路の進入路で突然ブレーキを踏んでしまい、後続車から追突される事故が起きました。本人の命に別状はなかったが、車はバンパーがぐしゃぐしゃ。警察からの連絡で駆けつけた家族が、男性にブレーキを踏んだ理由を聞いてもはっきり答えられない。一歩間違えばもっと大きな事故になっていたという事例は少なくない」

 認知症患者が「火事」を引き起こすケースも多い。以下は本誌の取材で明らかになった、中部地方で50代の息子夫婦と同居する80代女性Aさんのケース。

 1階がAさんの居室となっている2世帯住宅で、息子はキッチンを2階に移すリフォームをするなど、火の元に注意を払っていた。ところが、お盆に菩提寺の住職がやってきて仏壇に線香を上げ、ろうそくを残していった。それにAさんが勝手に火をつけて倒してしまい、息子が気づいたときには隣家も燃える大火事に。

「この家族は結局、先代から住み慣れた街を離れざるを得なかった」(事情を知る消防隊員)

 2013年には大阪府で82歳の認知症男性が妻の留守中に火事を起こし、延焼した隣家の住人が妻を相手取って200万円の損害賠償を求める裁判も起きた(昨年9月に和解が成立)。リスクは他にもある。70代女性のBさんは家族が知らぬ間に1人で買い物に出てしまい、警察沙汰になった。

「スーパーで店内カゴだけでなく自前のバッグいっぱいに商品を詰め込むまではよかったが、レジに差し出したのは店内カゴだけ。自前のバッグをそのまま持ち帰ろうとして万引き犯扱いとなった。警察官から家族も呼び出され、始末書を書いてようやく解放された」(前出の警察関係者)

 いずれのケースも、家族は決して認知症患者を放置していたわけではない。それでも家族の責任が問われるリスクがあるのだ。そうしたリスクをゼロにしようとするなら、それこそ「ボケたらロープで縛りつけておけ」という話になってしまう。

※週刊ポスト2016年2月26日号

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