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明治維新の立役者「薩摩藩」。名君・第11代藩主・島津斉彬(しまづ なりあきら)の活躍によって、幕末の主役に躍り出ます。彼は、西郷隆盛や大久保利通を育てた上に、あの篤姫の養父でもありました。

この斉彬を幼いころから高く評価し、ドイツ人医師のシーボルトにも合わせたのが、第8代藩主であり曾祖父の島津重豪(しげひで)です。彼こそ、薩摩藩が天文学的な借金を抱える原因を作った張本人。しかし、調所笑左衛門(ずしょ しょうざえもん)というデキる右腕を登用し、最終的にしれっと帳消しにしてしまったのでした。

■明治維新への下地を作った藩主

「薩摩に暗君なし」という言葉があります。びっくりするような変わり者ぞろいの将軍家とは一線を画すレベルの藩主が、実権を握り続けてきたのです。

そのなかでも重豪は、抜きんでて野心に溢れていました。当時、ときの権力者は田沼意次。開放的で改革に積極的な風潮に乗って、重豪は藩の改革へ踏み出しました。戦のない江戸時代、武士は官僚や役人のような立場に変化していきました。薩摩藩の人口のおよそ4分の1が武士です (ちなみに、全国の武士のおよそ1割が薩摩藩士でした)。彼らは、城下町に収容しきれないという名目で、麓と呼ばれるミニ城下町に置かれていました。もとは外敵から守るための軍事的存在でしたが、重豪は役人として扱い、行政的存在へと変えていったのです。

それと同時に、「薩摩の方言や服装は野蛮だ。上方の風俗を見習うべし」と言って、見ためやなまりの矯正をし、さらには上方から遊女を積極的に薩摩へ呼びました。こうして、どこへ出しても恥ずかしくない知識や教養を身につけさせたのです。教育についても、学問所である藩校・演武館、造士館など次々と造り、書籍や機械など海外の文物をどんどん買い集めました。

さらには徳川11代将軍家斉(いえなり)に重豪の娘を嫁がせます。そのほかにも多くの子供や孫を、有力大名の養子や妻の座へ送り込んでいったのです。努力の甲斐あって、外様大名だった島津家は強い権力を手に入れることに成功したのでした。

彼のすごいところは、すぐに役に立つことではなく、後に大きな意味を持つような手を展開していったことです。水戸藩と交渉して、「大日本史」に一説としてという注釈付きではあるものの、先祖が源頼朝の庶子と書いてもらうような藩主はほかにいません。

しかし規格外のすごさはプラスの面だけではありませんでした。

■借金まみれの藩を救った茶坊主

薩摩藩の借金は重症でした。その額500万両、今でいう1兆2500億円ほどです。これは、江戸への参勤交代に加えて、重豪が教育へお金をつぎ込み、どんどん増えていった結果でした。さらに泣きっ面にハチとばかりに、桜島も噴火します。絵にかいたような借金地獄でした。

悩んだ重豪はダメもとで、茶坊主である調所笑左衛門を大抜擢。下した命令は、「借用証文を取りかえせ、そして50万両を備蓄金として蓄えよ」という無茶ぶりでした。

笑左衛門はまず、薩摩藩の得意分野、中国からの輸入品目を増やします。すると砂糖の生産に目をつけていた孫兵衛と出会い、彼が薩摩の砂糖が有望と触れこんで、新たな融資団を集めました。こうして基盤が整い、前代未聞の財政改革が始まりました。

まず藩とは別に、新たな会社「島津家」を設立します。専売とした砂糖を、物流の合理化、高品質化を図り、より高く売れるように工夫しました。砂糖以外にも工夫を重ね、大阪市場では薩摩藩の品物は極上品として高く取引されるようになったのです。

肝心の借金は、「250年かけて返済する、ただし利子はナシ」と宣言。少しずつ返済し続けるのがミソでした。とんでもない好条件で商売を続け、破綻は回避。その結果、返済しつつ100万両以上の備蓄金までできたのです。笑左衛門の備蓄金は、のちに斉彬が明治維新への準備として、反射炉の建設や軍艦の製造などに使いました。重豪の意識改革と笑左衛門のお金がなければ、明治維新は成し遂げられなかったかもしれません。

ちなみにこの借金、約束を守って返済を続けたそうですが、明治維新・廃藩置県となり、島津藩が消滅してからは払っていません。実質的に踏み倒したのでした。

■まとめ

 ・薩摩藩は、現在の1兆円クラスと、トップクラスの借金を背負った藩だった
 ・借りたお金は「250年ローン・無利子」と宣言。商売を続けて蓄えを増やした
 ・明治時代の「廃藩置県」を機に返済はストップ。事実上「ふみ倒し」たのと同じ

(沼田 有希/ガリレオワークス)

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