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 「天地明察」で吉川英治文学新人賞・本屋大賞、「マルドゥック・スクランブル」で日本SF大賞を受賞した作家・冲方丁(うぶかた・とう)に新たな経歴が加わった。東日本大震災が起きたその時、福島市の自宅にいた「被災者」という肩書きだ。

 冲方氏は、被災直後に北海道へと避難したものの、福島から離れて約1年経った今も、震災への「怒り」が収まらないという。そして、その「怒り」のために、あえて被災したことについて「書く」ことを止めた冲方氏が、作家ではなく被災者としてのノンフィクション・ストーリーを明かしてくれた。

・東日本大震災 3.11 特集
http://ch.nicovideo.jp/channel/311

(聞き手:大住有)

■被災した直後は、容器が無くゴミ袋に水を入れて運んだ

――東日本大震災が起きた時、福島市の自宅にいたとのことですが、その直後の様子はいかがでしたか?

 電気は来ていたんですよ。でも水が来なくなっちゃって。あと、ガソリン。地域一帯からも2日でほとんどなくなりましたね。それで、次になくなったのが水をいれる容器。ホームセンターとかも潰れて閉鎖しているし。開いているところのポリタンクは全部売れちゃって。

――ガソリンは切れたら困るというのはわかるのですが、容器が無くて困るとは・・・全然想像つかなかったです。

 僕も被災前は想像もつかなかったですね。給水所はあるんですが、汲もうにも容器がないので、結局ゴミ袋に水入れて。給水所が僕の家から5キロぐらい先にあって、40リットルのゴミ袋を9袋くらい車に詰めて持って帰って来ました。で、ガソリンが切れたんですよ。

 最後のガソリンで水を手に入れたけど、この水はいったいどれだけ保つのかと。トイレ1回流すのに8リットルの水が必要だなんて初めて知りましたよ。8リットルも!?って、結構使うなあって思いました。

――水が手に入れられない生活というのは、いかがでしたか?

 室内の乾燥がひどいんですよ。子供の咳が止まらなくなくなってしまって。で、一方外は大雪。避難をする場所には町中の人を暖めるほどの器具はないんですよ。さらに、避難指定場所がただの公園で・・・避難しても病気になりに行くようなものです。夜中の12時に子供抱えて、大雪の中立っているわけにもいかないので、やっぱり家の中にいるしかない。

 家が壊れて避難された方もいらっしゃいますが、ライフラインが途絶えた状況で自宅待機という状況も、ひどかったですね。そうしていると、僕よりも奥さんのほうが早く「ここから移動しよう」と言い出しましたね。

――移動することに迷いはありませんでしたか?

 最初は「すぐに回復するだろう」と思っていたんですよ。そしたら津波に、原発事故。あれで福島県入りするトラックが激減したんで、物資を届けてもらえない。それがどれだけ長期化するかわからない状況だったので、動ける人は動くべきと判断しました。

――移動するのも大変な状況だったと思いますが・・・。

 移動にはタクシーを使うことになりました。あと、情報確認でもタクシー会社は有用でしたね。いろんな情報が集まっているんですよ。地震のときはタクシー会社に電話すると一番状況がわかる。実際に車走らせているから、「どこが走れない」、「どこの町は壊れた」、「どこまで移動すると、どんなものがある」とか知っている。14日あたりですかね、タクシー会社に電話したところ、「後2日で全部動かなくなる、動くなら今しかありませんけど、どうしますか?」って言われて。

 家から出るのにあんな苦痛を覚えたことはないですね。「動いちゃいけないんじゃないか」みたいな気持ちもすごくあるんですよ。大雪の中ひっくり返って動けなくなった車も何台も見ましたし、「やっぱり動くべきじゃない」と言い聞かせる自分もいるんですよね。ただ、よくよく考えていると、そう考えるのは楽になりたいから、思考停止したいからなんです。

 でも、子供がいなかったら多分動いていなかったです。「子供はどうするんだ」っていう気持ちが原動力になりましたね。咳をしているけど、薬も病院もない。多分救急車も来られない・・・というか医者いるのかよ!確認のしようもないわ!って(笑)。

■壊れた車を直しながら、なんとか走り続けている状態

――福島を離れた後も落ち着かない日々を送ったと思いますが・・・。

 国も東電も口が裂けても言えないし、言ってはならないと思うんですけど、そろそろ誰か「ぶっちゃけ国に補償はできない」と宣言すべきですよね。

 国民1人1人のレベルで、補償待ちの人が多すぎます。福島市にある僕の家の近所に限って言えば、仮設住宅に住んでいる人たちからしてみると、「いつ戻れるの?」「いつ仕事に復帰できるの?」ってずっと待っているんですよ。誰かが「ダメです、戻れません!」と言わないといけないんじゃないかなって思います。「国の力を持ってしても、2年以内に除染とか不可能です」「被災前の財産をそっくりそのまま補償することは不可能だ」とか。

 同じ福島市でも嫁さんの実家の庭の側溝なんて「オイオイオイオイ」っていうくらい超ホットスポット(笑)。でもその近くなのに、10メートルくらい離れたり、家の中だったりするといきなり下がるんですよ。そんなバラバラでどうにもしようがないだろっていう。例えば、学校の通学路を軒並み全部調べて「ここは近づいちゃいけない」という場所を全部ピックアップする作業がどれだけ大変か。

 何か、もう壊れながら車を走らせているようなもんですよね。壊れた車を直しながらなんとか走り続けさせているような。もう覚悟を決めるしかないんですよね。「これは落ち着かない」「これは解決しない」と。

■震災への怒りは収まらず・・・被災を「書く」日はまだ遠い

――落ち着いて当時を振り返ることができる日は、まだまだ遠いということですね。

 福島の放射能被害はまだまだ続いているんで、落ち着いて何か思い返すという気持ちにはなれないですね。「SFマガジン」(早川書房)には寄稿(※)しましたけど、当時を振り返って書いている間は他の仕事が全部ストップしちゃって。被災した恐怖というか「怒り」みたいなものを、活字にぶつけて癒そうとしちゃうんですよ。まだそんな状況が続いていて。

(※)2011年7月号「3・11後のSF的想像力 10万年後のSF」では、被災時の状況から避難先への移動を生々しく振り返っている

――1年近く経った今でも、怒りはまだずっと続いていると。

 続いていますね。だからまだ書くべきじゃないなと。いい加減、国や東電だけでなく、「被災した事実」とも「和解すること」を考えて、建設にならなきゃいけないわけですけど、まだまだ怒りが強くて。下手をすると、全然関係ない人の怒りとか恐怖の感情をも刺激しちゃうんです。

 だからなるべく震災について「書く」ことは止めているんですね。「喋る」ことはOKなんですけど。まあ後は、ぶっちゃけ「書く」と、自分の中での怒りが非常に強いので他の仕事が全部止まってしまってしまうので大変なことになる。

――震災のことを書くことは止めているとのことですが、作品の執筆についてはいつ頃から再開しましたか?

 避難先の北海道への移動中かな、(3月)17日くらいにはもう書き始めていましたね。タクシーでやっと新潟に出た時に電話が繋がって、最初にしたのが締め切りの確認でしたね。「光圀伝」(作品名)と「アノニマス」(作品名)、その他は新聞社の寄稿とかコラムが多かったのですが、「こんなんで原稿を書けなくなるのかと思うと許せない」と、ものすごく怒り狂っていたので。

 「光圀伝」の宮本武蔵が出てくるシーンは、震災から10日も経ってないですね。パソコンと3、4冊くらいの資料と、机と椅子しか無いという感じでしたけど、そんな中で書いていました。

――当初予定していたストーリーから、ズレるということはありましたか?

 そこまで考えていられなかったですね。そういう細かいことはすっ飛ばして、とにかく形にする。ぶっちゃけ「今後どれだけ自分の家計に打撃がくるかわからないから今から稼ぐ!」っていう意味合いもありました。「もし生活の拠点を北海道に長期的に作らなきゃいけない場合いくらかかるんだ?」とか(笑)。現実的に考えて仕事しなきゃいけなかったんですね。

 でもまあ、そこも人のタイプだなとは思うんですよ。原発のニュースが気になって書けないという人もいれば、ニュースを見て「思いついた」と言って原稿を書き直したという人もいますしね。それは非日常に対する各自の対応の仕方で、良い悪いではないですね。

――例えば娯楽的なものを書いている人だと、震災でショックを受けて「こんなものを書いていていいのか」と考えた方もいたみたいですが・・・。

 そうですね、4コマ漫画家さんとかは辛かったと言ってらっしゃいましたね。

 でも僕は、避難してる場所とかで、一番日常が欲しくなるんですよ。避難先の北海道に到着して1日目、とにかくコンビニの漫画が立ち読みしたくてしょうがなくなりましたし。コンビニで立ち読みをするという極めて日常的な行為を、今自分ができることを確認したくて。ずっと「グラップラー刃牙」ばかり読んでいました。「こいつは死にそうにねえな」とか(笑)。「ゴルゴ13」とかも朝から読んでまし、日常が欲しくなるんですよ。

 「避難所で漫画を読むなんて」という話もありましたし、避難所に置かれたテレビで「ドラえもん」を見たら怒る人がいるという話もありましたけど、そんなのやってられるかという感じですね。朝から晩まで震災のニュースを見ていたら気が滅入りますし。

 関西の方とかだと一時期各局で一番多いクレームが「震災のニュースはええから韓流流せ」だったっていう(笑)。それを聞いた瞬間、「あ、まだ関西大丈夫だ」と思いましたね。当時はまだ原発で全国にどれくらい影響が出るのか分からなかったので。インタビューの時に「韓流どうだ」ってクレームが多いことを新聞記者やテレビ局のスタッフから間接的に聞いて、「向こうはどうやらガソリンの心配よりもヨン様の心配をしているらしい。やばい時は関西行こう」という感じですよね(笑)。

■原発・放射能がオープンな存在になって「ようやくここから」

――今まで原発・放射能などは創作作品で頻繁に登場するガジェットだったと思いますが、今回の事故で原発が「生々しい」存在になってしまい、作品で使い難くなったということはあるのでしょうか?

 どうなんでしょう・・・逆に昔のほうが本当に使いにくかったんですよね。「原子力」ってアニメではNGワードのひとつでしたから。なぜなのかさっぱりわからなかったですけど。

 原子力空母とか戦術核兵器とか、テレビでは放映できないから使えなかった。それが今やTSUTAYAでガイガーカウンターを1週間レンタルできるとか、これこそSFだと思いましたよ(笑)。僕も「TSUTAYAで借りた方が安いや」って思ったし。そういったことが日常化して「生々しい」感じにはなってしまいましたけど、「現実にあるでしょ」っていう免罪符ができた分使いやすい。目の前にあればNGもクソもないですよ。今や毎日テレビやラジオでやっていますからね。

――今までより原発・放射能が身近な存在になっているということでしょうか?

 今後は多分あらゆる面で原発や放射能の存在がオープンになると思うんですよ。そしてずっとオープンになり続けていれば、いつか建設的な議論になるわけですよね。今までは議論自体が何やらしてはいけないような空気でしたから、ようやくここからです。

 今までは無免許で車走らせてきたことと一緒なわけですよ。15、6歳くらいのろくに知識も無い子供が「便利だから」「カッコいいから」という理由で車を走らせて、うっかり人を轢き殺してしまったというのが、正直なところだと思います。

 そりゃあやっちゃったものは取り返しがつかないんです。しかも、しばらく僕たちはその人を撥ねた車で生活をしていかなきゃいけないらしいと。しょうがない、やるしかない。ただ、少なくとも忘れちゃいけない。15歳の無免許運転だったとしても、少なくとも5年後には成人するんだから、それまでに自分自身を教育して、倫理を身に着けて、何より技術を身に着けろということです。

――最後に、震災後の1年を振り返って言葉をいただければと思います。

 やっぱ1年じゃあどうにもならないですね。はっはっはっはっ(笑)。

 落ち着かない。解決しない。保障はされない。それがあと20年は続くっていう・・・ようやくそういう覚悟を決められた1年でしたという感じですか。うちの子供はまだ5歳ですけど、子供が無事に成人式を迎えられたら・・・迎えられる頃には多分落ち着いているんじゃないですかね。それくらいの時間感覚で考えていこうと思っています。

(了)

◇関連サイト
・ぶらりずむ黙契録 - 冲方丁 公式ブログ
http://towubukata.blogspot.com/
・東日本大震災 3.11 特集
http://ch.nicovideo.jp/channel/311

(聞き手:大住有、書き起こし:伊川佐保子、湯浅拓)

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