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TOCANA

「自殺大国」と揶揄されるほど自死者が多い日本。数年前まで、自死者が毎年3万人を超え、最近でも2万人を越えているにもかかわらず、自死に関する抜本的な議論は少ない。「弱くて人の迷惑を考えない人が自死するんだという偏見がある」と『自死 現場から見える日本の風景』(晶文社)を上梓したノンフィクションライターの瀬川正仁氏は語る。これだけの自死者がいる現状を、多くの人たちはまるで自分にはまったく関係のないことと言いたげだ。

 今回、瀬川氏に前半では自死から見える日本人の自死観、そしてマイノリティの方々の死について、後半では日本人の死生観や精神医療の問題点などについて話を聞いた。


――政府の発表によると、自死者数は、1998年~2011年まで14年連続の3万人超からは脱し、数字だけを見れば減少傾向にあるものの、14年は約2万4000人と相変わらず高止まりを続けています。そんな中、たとえばいじめによる自死など個別の議論はありますが、自死に関するもっと大きな、根本的な議論が少ないように思います。

瀬川正仁氏(以下、瀬川) 大きな問題として、戦後の日本では経済成長がすべてに最優先されてしまい、それを超える思想がなかったからではないかと思いますね。ですから、ひとりの命が失われたとしても、経済成長のためには仕方ないという意識が国民のなかに根付いてしまい、日本人が持っていた命を慈しむという気持ちが薄れてしまっているのではないかと。

――それは具体的にどんな場面で感じますか?

瀬川 いじめによる自死を例にとれば、明らかにいじめが原因の自死であっても、なかったことにされてしまうケースが多いです。それは学校の力だけではできません。面倒なことに関わりたくない、と口をつぐむクラスメイトや保護者などがいるからです。

――そういったことを肌感覚として感じ、今回自死についての本を書いたのでしょうか?

瀬川 そうですね。先ほどの例でいえば、クラスメイトがいじめによって命を落としたという大事件に無関心でいられる背景には、自死に対する差別と偏見があるのでは、と思いました。その最たるものが、「自死する人は弱かった、人の迷惑を考えられない自分勝手な人だった。だから自分とは関係ない」という意識が心のどこかにある気がします。

 実は、私自身中央線沿線に住んでいるのですが、人身事故が多いと以前から感じていました。事故が起こると、電車が不通になりますから、忙しい時はどういうルートで行けば約束の時間に目的地へ到着できるかとやきもきしたり、また仕事帰りであれば正直、疲れているから早く帰りたいのに迷惑だなと思ったりしたこともありました。自死するのは特別な人、という思いが自分の心のなかにもあったのだと思います。

 しかし、ふとある時に「この瞬間に人生を終えた人がいる。どうしてこんな死に方をしなければいけなかったのか」という考えが頭をよぎったんです。それがひとつのキッカケです。

瀬川  また、これまで国内外の社会的マイノリティと呼ばれる方々を多く取材してきました。マイノリティの社会では、死が間近にあり、抑圧された生を生きている人たちがたくさんいて、統計に表れるような自死ではないけれども、それに近い死を多く目にしました。たとえば無謀な運転を繰り返した結果亡くなる「事故死」であったり、あるいはアルコールや薬物の依存症で亡くなる「病死」であったり、「自死」には分類されないけれども、明らかに生きる気力を失った結果の死、「緩慢な自死」としか表現できないようなグレーゾーンの自死行為です。

 あまりニュースになりませんが、日本に来たインドシナ難民はかなりの数の人が自死しています。

 マイノリティの社会を取材していると、そういった自死やグレーゾーンの自死行為にたくさん出会い、自死は社会のあり方と深く関わっていると、考えるようになりました。

――ところで、私もここまで今回のタイトルに倣い「自殺」ではなく「自死」という言葉を使ってきましたが、あらためて「自死」という言葉を使っている理由とはなんでしょうか?

瀬川 自死という言葉は馴染みが薄いかもしれません。いまだに私自身、自らの命を絶つ行為を表すのに、どのような言葉を使うのが適切なのかは悩ましいところです。

 ただ、自殺という言葉は歴史的に偏見を背負っている言葉でありますし、賛否両論ありますが、自殺よりは自死のほうが幾分柔らかい言葉なので遺族のショックも少ない。一番は自殺という言葉についている垢や偏見のようなものを取り除きたいと思ったからです。

 また、遺族たちの要望により、島根県や鳥取県、宮城県では公文書の表記を「自死」に変えた自治体もあります。
(取材=本多カツヒロ)

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