日本はいつになったら「一人前の国」になれるのか。批評家の宇野常寛氏は、「父」として成熟することより、オタクのまま成熟するほうが現実的だと論じる。たとえば世界を席巻している米国のIT企業も「オタク」の一種だ。米国のギークに対して、東京のオタクに足りないものは何か。新著『母性のディストピア』(集英社)の刊行にあわせて、ロングインタビューをお届けする――。(後編、全3回)

■何のために「一人前の国」を目指すのか

――安倍晋三首相は、かつて日本国憲法を「みっともない」と表現しました。自衛隊の明記など改憲に意欲をみせているのも、「一人前の国にしたい」という成熟へのこだわりを感じます。一方で、宇野さんは『母性のディストピア』で、宮崎駿、富野由悠季、押井守、庵野秀明という作家のアニメ作品を取り上げながら、彼らが虚構のなかで成熟を目指し、それに失敗した過程を論じました。彼らが失敗した「政治と文学」という枠組みにかえて、宇野さんは「市場とゲーム」というモデルを提示しています。どういうことでしょうか。

安倍首相や、彼に自己同一化しちゃっている人たちを見ると、日本が軍事力を行使し得る「一人前の国」になることと、自分が「一人前の大人」になることをイコールで結んでしまっているわけですよね。申し訳ないけれど、僕には彼らの「成熟」像がものすごく古く見える。

いま世界中でグローバル化へのアレルギー反応が起きています。そこで「国家と都市」という枠組みで考えてみてほしいんです。国家はバラバラなものをひとつに統合していくものですから、定義的に閉じるものだと思います。対して都市は、もともとハブ的な存在で、定義的に開かれているもの、人を自由にしていくものだと思うんですよね。

そう考えると、グローバル化というのは、実は国境が無くなるということじゃなくて、グローバル都市がどんどんネットワークを作っている、と考えられます。ニューヨークと東京とロンドンとソウルとシンガポールとサンフランシスコが、国家を無視して結びつくようになっているわけです。

■国家として閉じるより、都市として開いていく

いま福岡がやっていることも、要は日本という国家が閉じるなら、自分たち都市が勝手にアジアに開きますよ、ということですよ。だから僕はグローバル化の主役は都市になるし、21世紀は国家よりも都市のほうが重要になってくると思っています。

だから今の時代、国家は多様なプレイヤーの利害調整のプラットフォームにならざるを得ない。いまの世の中で、千万単位の人口を抱えると、多様な人々の利害調整で手一杯だと思うんですよ。でも都市はそうではない。規模的にもっと自由に身動きが取れるし、それぞれの物語を語り、価値観を打ち出すことができる。国家を選ぶことのコストはものすごく高いんだけれど、都市を選ぶことのコストは低いので、都市は自由に自分たちの物語を語ることが許されているんですよね。

21世紀は家族より大きくて国家より小さな「中間のもの」としての都市や、企業のような団体が重要になっていく。そしてこの変化によって人間の成熟像も変化すると僕は思っているんです。

詳しいことは本を読んでほしいんですが、時間的な永続を担う国家から、新陳代謝が大事で、どことつながっているかが重要、つまり空間的な永続を担う都市のほうが社会像として重要になってきたとき、もっと大きな話をすると、世界と個人との関係が国民国家と市民、つまり「政治と文学」の関係から、グローバルな市場とそのプレイヤー、つまり「市場とゲーム」に置き換わったとき、僕は「父」として成熟することよりも、広い意味での「きょうだい」としてつながりをもつほうが、成熟のモデルとしていまの時代に相応しいんじゃないか、と思っているんです。「政治と文学」は家族的なコミュニティが前提ですが、「市場とゲーム」では友愛的なコミュニティの可能性を考えることができる。6部ではそんな成熟の可能性を考えています。

■いまの時代の「サブカルチャー」とはなにか

――宇野さんは「結びにかえて」で、「私たちはあくまで『……ではない』という言葉ではなく『……である」という言葉で対峙しようと考えている」と書いています。その具体例として、2015年に東京五輪についてのさまざまなアイデアを提案した「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」を挙げています。宇野さんの仕事としては、今後どういうところを見据えているんでしょうか。

ここから先は虚構を経由した人間だからこそ持てる視点、それこそ「ゴジラの命題」を受け止めた人間だからこそ持てる視点を使って、現実の世の中にコミットしていく。そういうことを考えていますね。アニメーションやゲームについて批評するというのもひとつの選択肢だと思いますが、あまりそうするつもりはない。むしろいまの時代における「80年代や90年代のアニメ」とは一体なにか。それにコミットしていくことのほうが、戦後サブカルチャーの継承者として正しいと思っているんです。それが僕にとって、(チームラボの)猪子寿之や(メディアアーティストの)落合陽一の仕事なんですよね。

――批評家としてはどうでしょうか。

批評という言葉にぼくはまったく思い入れがなくて……。ただ、語り口は変えていきたいですね。あまり切断的な物言いをしたくないな、とは考えています。AとBという対立するものを持ってきて、その間を往復する。もしくは衝突させる。しかし、この数年、そういうやり方が今の時代には有効ではないと考えるようになっているんです。切断的な言説であることによって得られる豊かさもあると思うけれど、失ったものも非常に大きいと思う。少なくとも僕は、これから自分が世の中にコミットしていくうえでは、接続的な言葉を語っていきたいと考えています。

■政治と文学の間には「生活」がある

――宇野さんは批評家であることと編集者であることは「クルマの両輪」だと言っていましたが、今、編集者としてはライフスタイルや生活について取り上げることが増えていますよね。それはなぜでしょうか。

公的なものと私的なものを「政治と文学」という言葉でとらえると、私的なものである「文学」の領域がまず情報テクノロジーで変わってきていると思うんですよね。メディアのあり方、人間の自己評価、ソーシャルなつながりが、情報テクノロジーによって変化した。それを「政治」の変化につなげるためには、ワンクッションが必要だと思います。いわば政治と文学の間には「生活」があると思うんですよね。

この本の「結びに変えて」に書いたことも、2013年に発行した雑誌『PLANETS vol.8』で提案したことと同じなんです。『PLANETS vol.8』では、冒頭で情報社会を特集しつつ、後半は「この日本をどうするべきか」という政治特集になっています。そして中盤に衣食住の記事を挟んでいるんですね。なぜそういう構成にしたかというと、情報社会というテクノロジーから世の中を変えていくには「生活」を挟む必要があるからです。90年代後半から今までの20年に起こったことは「情報テクノロジー×メディア」の変化でした。そして、ここからの20年は「情報テクノロジー×生活」の変化なんですよ。実空間を情報技術が変えていく。編集者としての僕は今そこが一番面白いと思って、そういう企画をたくさん立てているところです。

■日本ではいまだにトヨタが一番大きい会社

――情報技術が世界を変えていくという考え方としては、アメリカのIT業界を中心に広まった「カリフォルニアン・イデオロギー」という思想が支配的です。宇野さんはどう受け止めていますか。

この本では、カリフォルニアン・イデオロギーを不可避なものとして受け止めながら、それを戦後日本の価値観を使ってどうアップデートするかを論じたつもりですね。僕は情報技術ですべての問題が解決するというような楽観主義者の未来予測を信じているわけではありません。でも、今の日本は明らかに産業の転換に失敗している。グローバル市場で時価総額の高い会社は、ほとんどがイノベーティブな情報産業の企業ですよね。日本ではいまだにトヨタが一番大きい会社で、しかも自動車という分野はこの先どんどん面白くなるはずなのに、そこに乗り遅れそうになっている。日本の産業領域はいまだに20世紀的な工業社会にあるわけですよ。

せめて文化領域では、カリフォルニアン・イデオロギーが支配的な世界に一石を投じることができないか、ということを考えている。その手掛かりを戦後サブカルチャーの中に求めたいという気持ちが僕にはある。それは言ってしまえば、どうやったらジョン・ハンケに勝てるのか、という課題です。たとえば「小説トリッパー」(朝日新聞出版)で連載している「汎イメージ論」で僕はいま、チームラボと吉本隆明をうまく組み合わせれば、もしかしたらジョン・ハンケに対抗できるかもしれない、と考えているんです。

■なぜ「ポケモンGO」は世界を変えられたのか

――GoogleからNianticを立ち上げて『Ingress』や『Pokemon GO』を作ったジョン・ハンケの名は本書の中でも象徴的に出てきます。

そう、西海岸のカリフォルニアン・イデオロギー側にはジョン・ハンケという最強のクリエイターがいる。日本の想像力があれに対抗できるようなものをどう考えていくか、ということを最終的な課題として設定していました。これは次作でしっかり書きたいと思っています。

――僕(聞き手・柴那典)は以前『初音ミクはなぜ世界を変えたのか』という本で、ボーカロイドという文化の源流に60年代のヒッピーカルチャーがあるという趣旨のことを書きました。つまり、初音ミクと西海岸のカリフォルニアン・イデオロギーには密接な関係がある。

正しい認識だと思います。むしろ直系ですね。

■オタクとギークの源流は同じ

――ボーカロイドだけでなく、カリフォルニアン・イデオロギーと日本のオタク文化が交わることで面白いものが生まれるというのは、とても希望のある話だと思います。

以前、フィギュアメーカーの「グッドスマイルカンパニー」の安藝貴範社長と対談したときに、東京のオタクカルチャーと西海岸のギークカルチャーを合体させて、新しいジャンルを作ることができないか、ということを話していました。どちらも重要なサブカルチャーだからです。

日本のオタク文化は、カリフォルニアン・イデオロギーの兄弟のようなものなんですね。どちらも「政治の季節からサブカルチャーの季節へ」という世界的なパラダイムシフトの産物だった。西海岸には、例えばエコやドラッグなど、いくつかあったサブカルチャーのひとつがコンピューターカルチャーで、それがカリフォルニアン・イデオロギーに発展していくわけなんですね。一方、同じ時代に東京で起きた大きい流れのひとつがオタク文化だった。源流は同じなんです。そして今、カリフォルニアン・イデオロギーが世界的な潮流になっている中で、東京のオタク文化がどう向き合うかが問われているんだと思います。

僕はこの先、こういう問題意識を共有できる人たちと一緒に戦っていきたいと思っています。オタク文化に限らず、今の日本だからこそ世界に発信できる価値は何かということを問い直す。その一人が猪子寿之であり、落合陽一です。彼らだけでなく、そうした視点を共有できる人たちに並走していきたいと思っています。

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宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家、批評誌〈PLANETS〉編集長。1978年生まれ。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)などがある。京都精華大学ポピュラーカルチャー学部非常勤講師、立教大学兼任講師。

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宇野常寛氏