その晩はあまりの衝撃でまったく眠れなかった。

 たしかに、この小屋のデポは半分ぐらいの確率で襲われていると覚悟していた。だが本当に襲われているとは思っていなかった。なんだかんだ言って見つかると心のどこかで思っていた。それだけに実際に襲われた現場を目の当たりにして私は想像以上に動揺していた。

英国隊のデポもやられているんじゃないか。

 天井に開けられたあの暴力的な穴を見たとき、私はそこまでやるかと正直唖然とした。飢えて半狂乱になった白熊がキングコングのように両腕をふりおろして天井をぶち壊したその瞬間の映像が頭のなかでフラッシュした。冷静になって考えると、そこまでやったわけではなかったのかもしれない。別に穴を開けようと思って開けたわけではなく、小屋の周りからドッグフードか何かの臭いが漏れてきているのに気付き、入口に行ったがトンネル状の部分がせまくて身体が入らず、周辺を彷徨ううちに天井のうえに乗りあがって、たまたま朽ちかけて弱い部分があってそこが崩落し、ドスンと床に転げ落ちて、イタタタと思って顔を上げると目の前にお宝があってラッキーといった感じで食い漁ったのかもしれない。その可能性が高い気がしてきた。

 でも、デポを襲った白熊がかなり強い執着心をもって小屋の周囲を徘徊していたことはまちがいなかった。それを思うと急に英国隊のデポが心配になってきたのだ。これまで英国隊のデポに関しては9割以上の確率で大丈夫なはずだと楽観的に考えていた。だが、この小屋デポの惨状を目の当たりにし、私のその楽観的観測は大きく揺らいでいた。9割の確率が6割5分ぐらいに下がった。

 もしかしたらあっちもやられているんじゃないだろうか……。

白熊が人間の行動を見抜いていたとしたら……

 寝袋のなかで私は一晩中、不安を鎮めることができなかった。落ち着いて考えれば英国隊のデポが襲撃されている可能性は低い。あのがっちりしたデポが襲われるわけがない。私が運んだデポには干し肉やラードや牛脂、サラミなど白熊の好きそうな臭いを発する食材がふくまれていたので襲撃されるだけの理由があった。しかし英国隊のデポにはそのようなものはなく、アルミ袋で密封された遠征用のフリーズドライ食品やチョコレートバー系の菓子類など白熊が関心を示さなそうな食品がほとんどで、しかもすべて臭いの漏れない樽に密封されていた。たしかにドッグフードの存在がやや気がかりだが、でもそれだって未開封で野生動物が嫌うといわれる黒いビニール袋に何重にも封がされており、用心深く地面の一番下に埋め込まれていた。周囲も要塞のごとく岩で覆い、ちょっとやそっとでは掘りだせないようにしてあった。何より彼らがデポしたのは2013年夏で、私はその2年後の2015年夏に徒歩でデポ地を訪れその無事を確認していた。つまり2年間は無事だった実績があるのだ。あれから1年半がたっているが、2年間大丈夫だったのだから、その後の1年半だって理屈のうえでは大丈夫なはずである。

 ただひとつだけ懸念があった。2015年に徒歩で訪れたとき、私は、極夜の暗黒でもすぐ場所が分かるようにと赤旗をつけた竹竿をデポの岩石の隙間にさしこんでおいたのだ。当時はこれで完璧だとニンマリしたが、今思うとあれは余計な処置だったかもしれない。もし小屋デポを食い荒した白熊がその赤旗を見たらどう思うだろう。連中はすでに人間の構築物のあるところには旨い食い物が隠されているということを学習しているにちがいない。たとえデポから食い物の臭いが漏れていなくても、遠くから赤旗が目にはいれば、あ、あれは人間の残したものではないかと気づき、それがデポ食料を食い漁ったときの良き思い出と接続されるのではないだろうか。

 いずれにしても明日になれば答えは分かる。十中八九大丈夫なはずだが、もしやられていたら一気に追い込まれることになる。なにしろ食料が足りなくなるのだ。

 私は緊張で眠れないまま朝を迎えた。

デポがあるはずの場所に近づき、異様な緊張感に胸が高まる……。

 翌日は気持ちが落ち着かず、いつもより早い午後5時に起床し、8時に出発した。

 丸く黄色い月がえげつないほど美しく光り、皓々と夜空を照らして、極夜とは思えないほど明るかった。

 英国隊のデポは小屋から海岸線を南南東に4キロほど進み、半島の麓の湾をすこし内側に入りこんだところにある。イヌアフィシュアクの半島の先端を回りこんだ後、私と犬は海岸線を右手に見ながら南南東にむけてゆっくり歩いた。

 距離はわずか3、4キロなのでデポのある湾まですぐに着くかと思ったが、なかなか着かなかった。海岸線の向きが内側にかたむくたびに、着いたか……とどきどきしたが、別の小さな入り江だったということがつづいた。

 闇と氷と月光がおりなす眩惑的な世界を2時間ほど進んだ。いよいよ海岸線の向きは急激に内側にカーブし、半島の根元の湾に入りはじめた。海岸の岩場が月の黄色い光に照らされてうっすらと視認できた。あのあたりがデポだったろうか、いや、ちがう。あっちだったろうか……。そろそろデポがあるはずだ。異様な緊張感に胸が高鳴った。デポが見つかれば予定通り旅はつづけられる。だが、万が一なかったときは……。

 どこかに赤旗が立っているはずなので、それを探すべきだと思った。私は目玉が飛び出そうなほどの集中力で海岸に見える顕著な岩のひとつひとつを凝視し、赤旗が立っていないか見ながら湾奥にむかった。

 ついに湾奥に到着した。だが、それでも赤旗はみつからなかった。私は橇と犬をその場にのこし、潮の干満で岸沿いにできた乱氷を越えてデポを探しにむかった。周囲のおおまかな地形は月光によりかなり明瞭に分かった。デポの位置もはっきり記憶しており、私はその場所にむかった。大きな岩が視界に飛びこんでくるたびに、あった、あそこか! と駆け寄ったが、それらはすべてデポを覆った岩山ではなくただの大きな岩だった。

なぜデポが見つからないのか?

 そのうち雪の斜面を登り切り、反対側にある凍結した池の見えるところまで来た。そこは2015年に徒歩でこの地に来たときにキャンプをした場所だった。そこからデポのあった方向は明確に記憶していたので、その方角に下ってあらためて探した。だが見つからなかった。旗も見えなかった。さすがに私は、おかしい……と感じはじめた。もしかしたら俺は間違った湾を探しているんじゃないだろうか、とそんなふうに考えはじめた。

 改めて地図を確認して自分がほかの湾にいる可能性を検討した。しかし当然のごとくその可能性はなさそうだった。いや、なさそうだったではなく、なかった、だった。遠くに朧気にうかぶ大きな丘の様子、湾の海岸線の向き、そして背後の池の存在。地形的要素はすべて私が正しい場所を探していることを百パーセント示していた。しかし、だとしたらなぜデポは見つからないのか、不思議だった。仮にデポが襲われているとしても、そこには60リットルもの容積のおおきな青い樽が8つもあったのだから、それらがひとつも見つからないということは考えられない。それらがまったく見つからないということは、やはり記憶違いで場所の特定をあやまっているのではないか。結局、事ここにいたっても、私はデポが破壊されているという事態が本当に起こるなどと信じたくなかったのだ。

 ふたたびうろうろと雪面を海のほうに下りはじめた。そしてついに決定的なものを発見した。

 見覚えのある黒いキャップがついた半透明のポリタンクが目の前に転がっていた。英国隊のデポにあったガソリンのポリタンクだった。それはデポ地を覆う岩の下にがっちりと封印されているはずのものだった。近づき、持ち上げてみると、空っぽだった。空っぽな理由はすぐに分かった。白熊の爪で裂けた跡があったのだ。

「あああ……」

 狼狽え、情けない声が口から漏れた。あたりを見回すと、目の前に10センチから20センチ大の岩が大量にころがった場所があった。その岩の隙間からは夥しい量の黒いビニール袋の切れ端が飛びだしていた。私はその場にうずくまり、また、あああ……と声をあげて、地面の岩をごそごそとどかしはじめた。

「ああ、やられてる……。やられてる……」

 岩をどかしても、出てくるのはちぎれた黒いビニールの切れ端、チョコレートバー系のお菓子の袋だけだった。60リットルの大きな青い樽はすべてどこかに消えていた。英国隊のスポンサーのステッカーが貼ってある樽の黒い蓋がひとつだけ転がっており、それがそこがデポ地の跡地にほかならないことを雄弁に物語っていた。

この旅は呪われている。

 膝をついて天を仰いだ。

「終わった……」

 旅が終わった。完璧に終わった。すべて終わった。

 ここまでやっても駄目なのか、と私は呆然とした。何度も橇を引いてこの地を訪れ、カヤックでセイウチに襲われ、浮き氷に閉じこめられてデポをはこび、おそらく400~500万円に達するであろう資金を注ぎこみ、しかも私は〈非スポンサー主義〉なので旅の資金はすべて自分で稼いだ自己資金であり、その資金を稼いだ時間もふくめて5年間という歳月をかけてこの旅のために準備をしてきた。だが、それでも駄目だった。

 泣きたいと思った。ためしに泣いてみようとしたが、あまりのことに涙も出なかった。水分不足で涙が乾いてしまっていた。

 くそっ、何か食い残しがあるかもしれないと思い、ふたたび地面の岩を掴んでは放り投げ、掘り起こした。岩の隙間から段ボール箱が見つかり、一瞬光明を見た気がした。しかしなかに入っていたのはガソリンだった。次に黒いビニール袋が出てきたが、やはりガソリンだった。辺り一面掘り返してガソリンを20リットルほど確保できたが、食料とドッグフードは完全に食い荒されていた。出てきたのはガソリンばかりだった。

「燃料ばっかりあったって仕方がねえんだよっ!」

 喚きちらしてガソリンのポリタンクを蹴っ飛ばした。この旅は呪われていると思い、またうずくまった。そして天を見あげた。

 天空の闇の中央では丸い月が神々しいほど美しく輝いていた。だが、その美しさは多くの人間の生き血を吸った日本刀のきらめきのような残忍で冷酷な美しさだった。

 月から滲みだしてくる黄色い光を見つめながら、これは極夜の意志なのではないかと思えてきた。

 たしかにデポを襲ったのは白熊だ。しかし実際には極夜の主が白熊にのりうつり、それがデポを壊したわけであり、事実上、デポを破壊したのは極夜そのものなのだ。私にはそう思えた。

 月は極夜の支配者として、あたかも次のような言葉を発するかのごとく皓々と照っていた。

「ウフフ。あなたは極夜を探検するとか言っていたのに、人様のデポなんか当てにして、それで悠々のんびり旅をしようったってそうはいかないわ。そう、デポは全部白熊に命じて私がぶっ壊したのよ。悔しかったらこの極夜世界の腹の底をはいずりまわって生き抜いてみなさい。こんなところでデポを食ってゴロゴロしてたって極夜の闇の最奥には行けないわよ。自力で生きぬいて暗黒の深遠に到達してみなさいよ。それがあなたの言う極夜の探検ってやつなんじゃないの。オホホホホ」

 月はそのように私のことをあざ笑っているかのようだった。

(角幡 唯介)

©角幡唯介