199X年

 日本のプロレス史とテレビ史は“あざなへる縄のごとし”なのだという。

 “あざなう”とは、まじえ合わせる、縄などをよる、なう、あざうという意味の他動詞。広辞苑をひっぱると「吉凶は糾(あざな)へる縄の如し」なんて例文が載っている。

 NHKが開局したのは1953年(昭和28年)2月で、“民放第1号”の日本テレビ放送網の本放送スタートが同年8月。

 力道山と木村政彦のコンビがベン&マイクのシャープ兄弟の世界タッグ王座に挑戦し、日本じゅうにプロレス・ブームが巻き起こったのが1954年(昭和29年)2月だった。“街頭テレビに黒山の人だかり”というフレーズで知られる昭和のまんなかごろのエピソードである。

 キャピトル東急ホテル“真珠の間”の壇上には「全日本プロ・レスリング株式会社創立25周年記念パーティー」と記された大きな看板がかかっていた。

 バンケットルームの後方の壁は“全日本プロレス25年史パネル展”になっていて、老舗団体の四半世紀を彩った名場面の数かずが“半紙サイズ”のパネル写真におさめられていた。

 写真展のすぐよこには、防犯装置もつけず、本物のチャンピオンベルト数本が茶色の事務テーブルの上にちょこんとディスプレーされていた。

 近くからよくながめてみると、どのチャンピオンベルトもかなりボロボロだ。「お手を触れないようお願い致します」なんて貼り紙があると、よけいいじくりまわしてみたくなる。

 三冠ヘビー級王座の3本のベルトは、日本のプロレス史とともに歩んできたアンティーク・アイテム。インターナショナル王座は日本プロレス時代にジャイアント馬場が保持していた力道山の“遺産”で、UN王座のルーツは、1971年(昭和46年)にアントニオ猪木がロサンゼルスから持ち帰ったユナイテッド・ナショナル王座。

 アジア・タッグ王座のあずき色のベルトは、“火の玉小僧”吉村道明がその腰に巻いていた昭和の“出土品”。そんな歴史のかけらが、めぐりめぐって平成の全日本プロレスのリングに居場所をみつけている。

 古ぼけたチャンピオンベルトには、名レスラーたちの汗が染み込んでいる。

「過ぎてみれば、まことに早い日々でございました」

 あいさつのためステージに立った馬場さんは、なんだか照れくさそうだった。

 パーティーの司会・進行をつとめた徳光和夫アナウンサーは、馬場さんとの運命的な出逢いを“ココナッツ・クラッシュ”というジャパングリッシュの単語でまとめた。

 馬場さんと徳光さんが友だちになったころ、馬場さんはアメリカ武者修行から帰国したばかりの次代のスター候補で、徳光さんはかけ出しの局アナだった。

 壇上では全日本プロレスの所属選手たちがお行儀よく横一列に整列していた。まんなかに立っているのは馬場さんで、そのすぐとなりにいるのがすっかりインテリっぽくなったジャンボ鶴田。

 馬場さんとジャンボさんを中心に、向かって右側に日本人選手たち、左側には外国人選手たちが気をつけをしてずらりと並んでいる。

 黒革のテンガロンハットに牛乳ビンの底みたいな度の強そうなメガネをかけたスタン・ハンセンは、やっぱりジャンボさんのおとなり、ガイジン組の行列の先頭のところに立っていた。

 テレビの“受像機”がどれだけ売れたかではなくて、テレビの画像そのものがどれだけたくさんの人びとの目に触れたかが大切だった。

 関東エリア220カ所に設置された街頭テレビは、テレビジョンという新しいメディアを一般大衆に知ってもらうためのハードウェアで、画面に映っているソフトウェアは力道山のプロレスだった。

 テレビとプロレス。プロレスとテレビ。そして、テレビとプロレスと社会の関係は、あれから45年、変わることなくつづいている。

 この国のテレビ史とプロレス史は“あざなへる縄のごとし”バランスでおたがいがおたがいを大切にしてきた。

 全日本プロレスが誕生した1972年(昭和47年)は、沖縄が返還され、連合赤軍の浅間山荘事件が起こり、田中角栄内閣が発足し、上野動物園にパンダがやって来た年だった。馬場さんは34歳で社長になった。

「30周年、50周年と選手、社員が一丸となってすすんでまいります」

 もうすぐ還暦を迎える馬場さんは、21世紀に目を向けはじめた。

※文中敬称略
※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦

『フミ斎藤のプロレス読本』#148 馬場さんワールド編エピソード3は「プロレス史とテレビ史は“あざなへる縄のごとし”」の巻。キャピトル東急ホテルの“真珠の間”の壇上には「全日本プロ・レスリング株式会社創立25周年記念パーティー」と記された大きな看板がかかっていた(写真は全日本プロレス『97世界最強タッグ決定リーグ戦』オフィシャル・プログラムの裏表紙=日本テレビ広告より)