西郷と大久保をとりまく薩摩藩の内部事情

薩摩西郷隆盛大久保利通といえば、二人して討幕に奔走し、明治政府立を成し遂げた立役者です。二人は、生まれた時からも近く、幼馴染であり二の親友でした。共に幕末の動乱を切り抜けた二人はしかし、最後には別々のを歩むことになります。二人がを違える事になったのは、いつだったのでしょうか。今回は二人の友情と決別に迫ります。

半ばにして袂を分かった西郷大久保について話すためには、薩摩の内部事情を少し説明しなくてはなりません。

幕末の四賢侯・島津斉彬

下級武士に生まれた西郷が11代島津斉彬(しまづなりあきら)によって見出され、そのために斉彬を崇拝していたことは有名です。

画像:島津斉彬 Wikipedia

島津斉彬は当時にはしい開明的な思考を持ち、幕末の四賢侯に数えられるほどの名君でした。大砲を製造する反射炉を作り、薩摩切子を特産として開発し、蒸気船まで完成。斉彬は西洋に負けない産業し、数々の功績を上げました。

しかし、そういった先進技術の開発にはお金がつきもの。斉彬が技術革新のために多くの投資をする姿勢を危うく思った、斉彬の実・10代の斉が、長い間の座を譲らなかったため、斉彬は43歳にしてようやくになります。

このとき、督相続を巡って大きなお家騒動が起きていました。斉彬には、違いの・久がいたのです。久を産んだ母親のお由羅は、側室の身でありながら斉に久にするよう迫っていました。

結果的に久の意見は退けられ、斉彬がになったものの、今度は斉彬の嫡子が次々に亡くなるという不幸に見舞われました。世間ではこれはお由羅の呪いだと言われ、西郷もそう信じてお由羅と子息の久を憎みました。

そうしているうちに斉彬は亡くなり、嫡子が世して居ないために久の幼い子息がとなると、今度は久()として権ふるうようになります。

超保守派!島津久光

は斉彬とは逆で、非常に保守的な思考を持っていました。しかもその保守っぷりが尋常ではありません。久明治の世になっても絶対にチョンマゲを落とさず、それどころか江戸時代の参勤交代と変わらない大行列東京にやって来て人々を驚かせた、がつくほどの保守でした。

画像:島津久光 Wikipedia

せっかく斉彬がを注いだ技術工場もこの久によってほぼ全てが閉鎖し、西郷は失意のうちに安政の大の余波で遠になります。

西郷が島流しの間に、大久保は久光に急接近

その間に久に取り入ったのは、なんと西郷の親友の大久保でした。大久保は久の権当てに接近したのです。久が好きなを一生懸命習い覚え、大久保は久の機嫌取りに必死だったといいます。

一度の遠先、奄美大島から帰ってきた西郷は、親友の大久保が久のお気に入りになっている事に驚きます。しかし斉彬だった西郷はどうしても久が好きになれずついて、徳之永良部へ二度の遠になってしまいました。

もはや大久保との友情もそれまでかに思えましたが、その際に西郷を救ったのは他でもない大久保、その人でした。彼はにいる西郷が次に戻った時に浦島太郎のような思いをせずに済むよう、に向けて頻繁に手紙を書き、本の情勢を伝えました。さらには久西郷の必要性を説き、ついにから呼び戻すことに成功します。

互いに確執のある斉彬と久の二人でしたが、そのはやはり深いものだったのです。(後編へ続く)

【参考文献】

画像:近代日本人の肖像西郷隆盛大久保利通

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