出典:『文藝春秋』2017年12月号

 北海道東部に暴風雪警報が出されたのは土曜日の早朝のことだった。

 暴風雪や大雪警報はどの冬でも出るし、道産子は吹雪には慣れっこだが、後日振り返ると、2013(平成25)年3月2日のその警報は格別の重みがあった。

 天気は昼まで崩れず、知床から流氷のまち紋別まで網走・北見・紋別地方は青空も見えたし、特に穏やかだった。翌日のひな祭りの買い物でオホーツクの商店街は賑わった。

 紋別市の隣に、オホーツク海とサロマ湖に面した人口9100人ほどの湧別町がある。町内のサロマ湖畔には「テイネイ」という地名の、漁師十数戸が軒を並べた集落が細長く伸びている。テイネイとは「雪解けで水浸しになるような湿地」という意のアイヌ語だと、ゲートボール中の老人が教えてくれた。たとえば集会所が「丁寧会館」という風に、地元では漢字の丁寧を当てている。

 丁寧の漁師だった岡田幹男さんもその朝、家を出た。軽トラックの助手席にはスキーウエアを着込んだ娘の夏音さんが座った。朝9時から土曜の学童保育が始まるので、町なかにある児童センターへ向かった。夏音さんは9歳の小学校3年生、春休みをまたいで、あと1カ月で4年生に上がる時だった。

 幹男さんは1年半前に妻の美恵さんを病気で亡くしたばかりで、夏音さんと2人暮らし。この季節、漁は休みだったが、ひとり親はなにかと忙しい。娘をセンターに送り、とんぼ返りして、家事をこなした。

 オホーツク海は流氷で閉ざされサロマ湖も凍結し、船が出せない。結氷期の漁といえば、スノーモービルを駆ってのサロマ湖のカキ漁で、幹男さんも湖面に張った氷を切り出して、カキを水揚げしていたが、春先は氷が緩んで危なっかしい。

 オホーツクの漁師は流氷が去って海明けし、ホタテの稚貝放流が始まる5月が待ち遠しいのだ。

何でジャンパーだったのか

「昼過ぎ、1時ごろでしたか。もくもくと雪雲が空を覆うと、あっという間に猛吹雪です。2時には何もかも真っ白のブリザードでした。私が平成元年に入隊して以来、あんなひどい吹雪は他にありません」

 隣の遠軽町にある遠軽消防署の食堂で、菊地哲生さんが話した。菊地さんは当時、消防署の湧別出張所隊長で2日朝から24時間の当直に入っていた。立ち往生した車からの119番でパンク寸前。休みと非番の隊員も非常招集し、菊地さんも決死の覚悟で救急車に乗り込んだ。

 日本海にあった低気圧が北海道を通過しながら、みるみるうちに発達し、2日午後にはオホーツク海へと抜け「爆弾低気圧」と化した。

 岡田家の前を通る北海道道656号(湧別停車場サロマ湖線)は道幅広く、牧場と牧場の間を真っ直ぐ町なかへと伸びており、渋滞もないから、車で10分もあれば児童センターに着く。この道は開拓時代から2号線と呼ばれ、サロマ湖と町の中心部を結ぶ基幹道路だった。

 幹男さんが夏音さんを迎えに軽トラで再び家を出たのは、午後2時の少し前だった。すでに吹雪で、2号線も2、3メートル先が見通せない状況に悪化。センターにやっと着いたのは午後3時になるころ。

 北海道のドライバーは冬でも薄着の人が多い。防寒着やダウンを着ると、ハンドルと擦れ合って運転しづらいという。岡田さんもシャツの上にジャンパーという軽装だった。

「幹男はね、よく携帯電話を首から下げて、ジャンパーを着てた。あんな日まで、何でジャンパーだったのか」と村川勝彦さんが言う。

 村川さんは幹男さんの母親静子さんのいとこにあたる畑作農家で、町会議員でもある。丁寧近くの東地区に農場兼自宅を構えている。

 幹男さんは娘をピックアップしてセンターを出た。すぐ雪の吹き溜まりにはまった乗用車に遭遇。タイヤがはね上げる雪を全身にかぶりながら、車を押して脱出を手伝った。

 午後3時半ごろ、村川さんの携帯に幹男さんから着信があった。

「車、雪にはまっちゃったわ」

「今どこだ?」

「2号線だべさ。北谷さんのところの白樺の木が見える」

 北谷牧場は村川さんの妻享子さんの実家で、2号線沿いにある。

「ショベルで引っ張ってくれ」

 村川さんは外に出てみた。風雪は激しさを増して、歩行困難、呼吸困難になるほどだった。農場のショベルカーで救援に向かうどころではなかった。119番したが、消防も手いっぱい。災害対策本部が置かれた町役場にも「助けてくれ」と電話を入れた。石田昭廣町長(当時は副町長)は振り返る。

「2日の夕方には立ち往生の車が次から次と。前が見えなくて除雪車すら出せない状況になりました」

 後に明らかになるのだが、この春の嵐で、計9人もの犠牲者が出ている。北海道新聞によると、全道で929台の車が立ち往生。このうちなんと、850台以上がオホーツク管内に集中していた。

 午後4時半ごろ、村川さんの携帯が不吉に再び鳴った。

「燃料もなくなるしさ、車から出たわ。北谷さんの家に向かってる」

「えっ? 車の中にいた方が安全だろ。ちゃんと着てるのか」

「着てるから大丈夫だって。北谷さんに連絡してくれ」

 そして父娘は消息を絶った。

 

 幹男さんの生まれは1959(昭和34)年。漁師は寡黙というのが普通のイメージだが、幹男さんは人懐っこい性格でオヤジギャグを飛ばす明るい人だった。湧別漁協2階の事務室でも、「寒~いギャグ」を連発し女子職員にも人気があった。

 岡田家には3つ年上の兄英之さんがいる。英之さんも中学校まで船に乗って父親の辰実さんの手伝いをしていたが、隣町の進学校・遠軽高校に進んでからは汽車通学の日々、弟が船に乗るようになった。自然の流れで、辰実さんは長男が東京の私大に行くことを許し、次男を跡継ぎの漁師としたのである。

 幹男さんは堅実な漁師だった。

 オホーツク沿岸がホタテ景気で沸き返り、「ホタテ御殿」と揶揄される豪華な家が新築されても、幹男さんは親が建てた築40年の家を建て替えるわけでなく、高級車を乗り回すでもなく、浜に打ち捨てられた漁具を拾っては修理し大事に使った。

 ケチだったわけではない。パチンコで遊び、漁師仲間で紋別や遠軽へ酒を飲みにも行った。趣味は中学校から打ち込んだ卓球。体育指導員となり、子供の指導にもあたった。

 美恵さんとの結婚は遅く、幹男さんが40歳のころ。まもなく漁協からローンを組んで船を新調した。父の名から一文字もらった小型船「第二十一北辰丸」が進水したのは2001(平成13)年だった。ホタテとカキ漁は順調で、幹男さんはこのころ自信に満ち溢れていた。

 2年後の2003(平成15)年に夏音さんが誕生した。幹男さんは童謡の「サッちゃん」を替え歌にしてよく歌った。子守唄代わりにも、北辰丸の上でも、カラオケのマイクを握っても飽きずに歌った。

 ♪ナッちゃんはね ナツネっていうんだ ほんとはね

 だけど ちっちゃいからじぶんのことナッちゃんって よぶんだよ

 おかしいな ナッちゃん

 父親譲りの明るい子に育った。「大人になったら何になる?」と聞かれて、夏音さんは「漫才師!」と答えたものだった。周囲の人たちは「利発で人を思いやる優しい子。芯が強い子」と口をそろえる。

それが彼の「遺言」だった

 夏音さんを産んだころから病気がちとなった美恵さんは2011(平成23)年、帰らぬ人となった。

 幹男さんは漁に出ていて妻の最期に間に合わなかった。サロマ湖の浜の小屋に戻ったところ、夏音さんが駆け込んできて母の死を伝えた。独りで母を看取ったのだった。

 葬儀の席で夏音さんは涙を見せなかった。「あの子、どうして泣かないのかねえ」とヒソヒソ話す声が聞こえてきたという。いよいよ出棺です、という時になって、村川享子さんが夏音さんに声を掛けた。

「お母さんの顔を見るのは、これが最後なんだよ」

 夏音さんは気丈に答えた。

「お母さんの顔は、心の中にちゃんとあるから見なくていい。弱い子になったらだめ、どんなことがあっても、泣くんでないよって、お母さんにそう言われたから」

 父娘は助け合って、かろうじて生き延びた。夏音さんが食事の支度をすることもあったし、幹男さんの身も心も動かない時は一緒にコンビニで弁当を買った。酒で気を紛らわしたい夜は、夏音さんを連れて居酒屋の縄のれんをくぐった。

「酒の量も増えて、漁も休むようになって。美恵ちゃんが亡くなって幹男は本当に落ち込んださ。夏音がいるから持ちこたえたと思う」と、丁寧生まれの幼なじみ、大舘保幸さんが親友の思い出を語った。

 父娘だけの暮らしが始まって半年たったころ、幹男さんは大舘さんに漏らしたことがある。

「俺がいつどうなってもいいように生命保険に入ったんだ」

 同じころ、父娘のことを気にかけて、たびたび岡田家に立ち寄っていた親戚の女性Kさんにも、幹男さんは訴えている。Kさんが岡田家の草むしりをしている時だった。

「もし俺に何かあったら、夏音のこと、よろしく頼みます」

 Kさんは幹男さんの言葉がずっと耳に残っていた。後になって、それが彼の「遺言」だったと思い至る。

 

「えっ、あの岡田さんが」

 3月2日夜、岡田さん父娘が行方不明とテレビニュースが流れ、湧別漁協の森義文参事は絶句した。

 あちこちで雪の深さ数メートルの吹き溜まりが出現していた。オホーツク海からの風をさえぎるものがない2号線は特にひどかった。

 オホーツクの厳しい自然のなかでみんなが助け合って生きてきた。普通の吹雪なら真っ先に駆けつけるのだが、想像を絶するブリザード、行きたくても行けなかったのだ。

「助けられない痛みを、私だけでなく、みんなが感じた夜でした」

 村川勝彦さんは夜通し幹男さんに電話を掛け続けた。「頼む、出てくれ」と願い続けても、呼び出し音がむなしく鳴るだけだった。「最後の電話で、車に戻れと厳しく言うべきでした」。村川さんは今も、悔やんでも悔やみきれない。

 除雪車の先導で捜索隊がようやく軽トラを発見したのは、2日午後9時半ごろ。車内に2人の姿は見えない。2次遭難の恐れも強く、午後11時に捜索は打ち切られた。

 3日の夜明けごろ、風雪はうそのように収まった。消防、警察、町役場による大掛かりな捜索隊が編成された。湧別出張所の菊地隊長も救急車で、除雪車の後をついて2号線を行った。軽トラが雪山に突っ込んだ現場に着いた。

「発見! 1人に意識あり!」

 午前7時ごろ、無線から興奮した警察官の声で「父娘を発見」の報が流れた。「Dハウス」と呼ばれるカマボコ型の農業倉庫の前で、雪に覆われた岡田さん父娘が見つかったのである。Dハウスは軽トラから約300メートルのところにあった。

 菊地隊長が駆けつけると、警察官が夏音さんを抱きかかえていた。救急車に夏音さんを運び込んだ。声をかけたら、夏音さんから小さく返事があった。体温は低下し、両手足が凍傷にかかっているようだった。夏音さんを毛布にくるんで、車のヒーターを最大にした。

 もう1台の救急車には、幹男さんが横たわっていた。発見時すでに凍死。後に夏音さんが親戚の人たちに語ったところでは、軽トラを降りてまもなく風雪に巻かれて道に迷ったらしい。「お父さん、変なところに行かないで」。不安でいっぱいの夏音さんが声をかけたが、もう車に戻ることもできなくなっていた。

 ようやくたどり着いたのがDハウスだった。中には乾燥した牧草が積んである。牧草の間に潜り込めば温かい。だが、閂(かんぬき)の角材が強い風圧でしなって、きつくはまっている。

 幹男さんは閂を外そうと、必死に体当たりもした。刻一刻と体力を消耗し、そして動けなくなった。夏音さんを横にして、自身のジャンパーを脱いで掛けてあげた。幹男さんはシャツ1枚となり、夏音さんを上から抱くようにして目を閉じた。幹男さんのお腹のあたりで携帯が何度も何度も鳴ったが、夏音さんは手がかじかんで電話がとれなかった。

 ♪ナッちゃんはね

 永遠の眠りに落ちる前に幹男さんが口ずさんだ。退院後の夏音さんに取材した新聞記者によると、ナッちゃんはね、ナッちゃんはね、と2回繰り返して父の声が消えた。

日本一寒い町

 北海道・洞爺湖を抱く町に岡田英之さんを訪ねた。英之さんは弟に家のこと親のことは任せて、大学を卒業しても帰らなかった。今も洞爺湖町の職員として働いている。「漁師になる気はなかった」と英之さん。

 父親の辰実さんは1928(昭和3)年に、北海道釧路国支庁淕別(りくんべつ)村(現在の十勝管内陸別町)で生まれた。四方を山に囲まれたところだ。辰実さんは長じて父親の三郎さん、つまり英之さんと幹男さんの祖父と山に入り、造材の仕事をしていた。

 陸別町は林業と酪農で栄え、今は「日本一寒い町」がキャッチフレーズの小さな町である。町の祖と慕われる、徳島藩の蘭方医だった関寛斎翁が満72歳にして開拓の鍬を入れたところで、司馬遼太郎の『胡蝶の夢』にも描かれている。

「父は木を切っている時に大怪我をし、林業に見切りをつけました。先に丁寧に入植していた伯父を頼って湧別に来たようです」。英之さんは懸命に記憶を呼び戻そうとしてくれたが、「祖父の三郎さん? 一緒に丁寧に来たのかな、うーん」。

 湧別町内の記録誌には、辰実さんが戦後の1948(昭和23)年に陸別町から丁寧に移住し漁業に従事とある。林業から漁業へ、慣れない土地と仕事で辰実さんが入植して辛酸をなめたのは、想像に難くない。

 村川さんは辰実さんの家がまだ茅葺きだったころを覚えている。「辰実さんはビュウビュウ風が吹き込む家で辛抱していたっけなあ」。

 カレイやチカ漁だけでは食っていけないので、母静子さんが家の裏庭で養豚を始めた。「我が家は養豚農家なのか漁業者なのか、分からないほどだった。子供のころは豚が40頭もいたし」と英之さん。

 そのころ、辰実さんは息子たちのために上手に凧を作ってくれた。幹男さんと2人、凍結したサロマ湖上を走って凧を上げた。オホーツクの風を受けて凧はどこまでも高く上がり、兄弟は惚れ惚れと見上げた。

 大規模なホタテ養殖がスタートしたのは昭和40年代。辰実さんも波に乗って養殖を手掛けた。湧別漁協ではサロマ湖で稚貝を育成し、5月になったら外海に放流する。毎年これを繰り返し、3年前に放流したものから順に水揚げしていく。

 ホタテは大当たりした。「ぼくはホタテのお陰で大学に行けたようなもの」と英之さんが真顔で言う。

 近年は海外でのホタテ人気がブームに拍車をかけている。中国向けは中華食材の干し貝柱、EU(欧州連合)向けには「玉冷」と呼ばれる冷凍の貝柱が人気を呼んでいる。中東からの引き合いも増えている。

 漁協の事業なので、売り上げから経費を差し引いた利益を組合員に配当金として分配する仕組み。配当金は年数百万円から1000万円を超えるくらいで推移していたが、幹男さんが亡くなった2013年の配当金は初めて2500万円を超えた。

湧別に残りたい

 父娘発見から2日後、町内の研修センターで営まれた幹男さんの通夜には、500人の町民が参列した。吹雪で足止めされていた英之さんはこの日、弟の遺体とやっと対面。実感が湧かず言葉も涙も出なかった。告別式では幼なじみの大舘さんが弔辞を読み、みんなで骨を拾った。

「なんで車から出たのかな」

「魔が差したんだべな」

 英之さんも2号線の吹雪は何度も経験している。雪山に突っ込んだこともある。幹男さんだって知り尽くしているはずだった。

「まさか、あの幹男が、という思いでいっぱいでした。慎重で、怖がりで、用心深くて、気持ちの優しい幹男が2号線で死んだとは」

 マスコミは幹男さんを英雄のように報じた。1人の漁師の死は日本中の共感を呼んだ。激励の手紙やメール、夏音さん宛のぬいぐるみ、現金が続々と町役場に届けられた。

 英之さんは独身だ。父親ならどうするのか、よく分からない。「父親ならみんな、幹男のように命を捨てて子を守るだろう」とも思う。

 夏音さんの凍傷は幸い軽く、北見市内の病院から20日後に退院できた。英之さんは夏音さんを引き取ろうと決め、「おじさんのところに一緒に行こうか」と姪の気持ちを確認した。ハキハキものを言う夏音さんはその時も、きっぱりと答えた。

「私は湧別に残りたい」

 2号線沿いに住む親戚のKさんが夏音さんを引き取った。「夏音のこと頼みます」と言い遺した幹男さんに、「はい」と答えた自分。「あれは幹男さんの遺言だった。ちゃんと約束を果たそうと思った」とKさんは言う。家庭裁判所は夏音さんの後見人にKさんを選任した。

 今年8月13日、英之さんは湧別町に盆帰りした。中学校2年生になる夏音さんを車に乗せ、町内の墓地にある岡田家の墓に参った。

 ここには祖父三郎さん、祖母イマさん、辰実さん、静子さん、美恵さん、幹男さんが眠っている。三代にわたって北海道の礎となった家族の姿が、確かにそこにある。

「毎年お盆の13日に必ず夏音を連れて来ていますよ。あの子が悲しみをどう乗り越え、どんな生き方をするのか、分からない。でも、墓参りの大切さだけは教えておきたい」

 墓参りの帰り道、英之さんと夏音さんはコンビニで弁当を買い、丁寧の家で『ハリー・ポッター』のDVDを見た。英之さんは途中で寝てしまったが、ハリポタファンの夏音さんは最後まで熱心に見た。

 夏音さんは読書が好き。英之さんは毎年本をお土産にしている。昨年は哲学者池田晶子さんの『14歳の君へ どう考えどう生きるか』と金子みすゞの詩集、今年は上橋菜穂子さんと重松清さんの作品を贈った。

 英之さんは今春、町役場を定年し再任用で勤務を続けている。定年後フリーになったら故郷に帰って暮らすつもりだった。「あにきが帰ってきたら俺がコキ使うよ」と幹男さんが仲間に話すのを聞いて、「それも悪くないな」と思っていた。

 弟はもういなくなったが、2年間の再任用が明けたら丁寧の家に帰ると決めている。60歳を過ぎて漁師は無理だが、岡田家から最も遠いところにいた英之さんが最後の1人として戻るのだ。いや、もう1人、夏音さんがいる。

 早いもので夏音さんは来年、中学校3年生。高校受験が控えている。高校、大学へと進み、社会に羽ばたいても、夏音さんが「ただいま」とドアを開けば「お帰り」と応える。英之さんは命尽きるまで、夏音さんを丁寧の家で待ちたいという。

(奈賀 悟)

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