すぎる別れ、星野氏を悼む

 やっぱり、覚えていてくれたのか……。星野仙一さんに対して、最後にいだいた大きな感想だった。

 2018年1月4日星野仙一氏が他界した。70歳の別れは過ぎる。野球界にとっての喪失は口にできないほどのものだ。

 星野さんと最後に会話を交わしたのは174月25日東京ドーム。試合前練習中、幸運にもコメントを取ることができた。

 以前、書かせてもらった岡山県野球事情。「岡山といえば星野仙一」ということでチャンスを伺っていたが、その機会が訪れた。この日は親会社の感謝イベントがあるということで来客が多数。球団副会長として多くの対応をしていた際、一人で練習を眺めている時間が少しだけあった。ぶしつけで失礼だと思ったが、名刺を渡してコメントが欲しい趣旨を伝えた。

お前名刺は前にもらっているよ」

 信じられなかった。担当記者と違い、全試合、チーム帯同取材していた訳ではない。縁があって数回、挨拶そしてコメントをいただいたをくらいだった筆者のことを覚えていると言う。

「そんな難しいことはわからんよ……」

 いつもと変わらない憎まれ口を叩きながら、こちらが周囲を気にする程、ってくれた。

「こんなんで記事になるんか……」

 笑いながら去って行った後ろ姿を今でも覚えている。

 忘れられない体験がある。この仕事に就く前の学生時代、野球選手に憧れ続けていた“いちファン”時代のこと。ある試合前、星野監督(当時)にサインをいただいた。オープン戦の地方試合、関係者入り口付近、「か出て来ないか……」と待っていた。すると向こうから星野監督が一人で歩いて来た。こちらも私一人。思い切って持参していた現役時代の野球カードを差し出した。

星野氏に感じた日本球界への底知れない

「なんだぁお前、こんな古いもの持って来て……」

 いきなりのお説教をされた。

「貸せや」

 その後、さらさらとサインをしてくれた。「今はこんな古いものも売っているらしいな。どうせわしのは安かったんやろ」。笑いながら球場内に消えて行った。

 メディア世界に足を踏み入れてすぐ挨拶する機会に恵まれた。イチローメジャー挑戦初年度の01年、フロリダ州ベロビーチでのドジャースキャンプだった。知人のベテラン記者の方が、学生時代から星野さんと旧知の仲ということで紹介していただいた。

「おう、新しい雑誌か。いろいろ大変だと思うけど頑れよ。アメリカだけじゃなく、日本野球を盛り上げてくれよ」

 陽焼けしたな顔で優しくエールをくれた。日本球界への底知れない情のようなものを感じた。

 その後も阪神楽天監督時代など現場で何度となくお見かけしていた。しかしインタビューなど直接、長い時間話を伺う取材機会には恵まれなかった。

「どけや、邪魔や」

 ベンチ裏などでたまに出くわすと、決まってそう言われたのが印に残っている。

 星野仙一という男は、地方在住の“いち野球ファン”の少年にとって、テレビや雑誌から受けたイメージのままだった。

 闘将、鉄拳制裁……。会うといつも緊してしまう男。サインをもらったその後、数日は「おっかなかった……」と周囲に漏らしていた時と変わらない。それはついに今日まで変わることはなかった。

 しかし冒頭の件以降、本当に分かるようになったこともある。優しく、情に深く、気配りの男……。多くの関係者がる、「星野仙一は究極の人たらし」だと。この中には賛否両論が含まれている。批判を持ってこういう人もいる。この年齢になってわかる。ある程度の成功を収めた人には味方のみでなく、多かれ少なかれ敵も生まれて来る。星野さんほどの人ならば、妬みややっかみを持つ人も少なくはないだろう。だが多くの人々のコメントを見ると、やはりそれらを魅が大きく駕していた人物だったのだと思う。

野球恋愛ができて良かった。これからも野球をしていたい」

 こんな素敵な言葉を残して逝ってしまった星野仙一を、決して忘れることはない。合。(山岡則夫 / Norio Yamaoka

山岡則夫 プロフィール
 1972年島根県出身。千葉大学卒業後、アパレル会社勤務などを経て01年にInnings,Co.を設立、雑誌Ballpark Time!を発刊。現在はBallparkレーベルとして様々な書籍、雑誌を企画製作するほか、多くの雑誌やホームページに寄稿している。最新刊は「岩隈久志ピッチングバイブル」、「躍進する広島カープを支える選手たち」(株式会社社)。Ballpark Time!オフシャルページhttp://www.ballparktime.com)にて取材日記を定期的に更新中。

北京五輪では日本代表監督を務めた星野仙一氏【写真:Getty Images】