〈20才になったぼくは仕事を見つけましたか。今ぼくたちの時代は就職氷河期なので、いい仕事についていてほしいです。ところで話は変わりますが、ぼくはまだゲームやまんがを集めてますか。ぼく的には集めててほしいです。ぼくが20才になるころには珍しいゲームなどが売っていると思うんでそこらへんは集めててほしい。また●●●君(※亡くなった同級生)とは友達ですか。友達じゃなくなっていたら、この手紙を読んだあとよりを元してください。 大輔より〉(原文ママ) 

 この作文「二十歳の大輔へ」は、宮城県石巻市立大川小学校の6年生だった今野大輔君(当時12歳)が書いたものだ。だが、大輔君は2011年3月11日に、東日本大震災による津波で亡くなった。今年の誕生日を迎えることができていれば、20歳になり、来年、成人式を迎えるはずだった。

 「自分の中ではずっと小6のままだ」 

 こう話すのは父親の浩行さん(56)。今年の3.11前は特別だったのか、仏壇に日本酒「独眼竜政宗」と、タバコ、ライターを供えた。いつもは大輔君が好きだったお菓子だが、成人を迎えることを意識していた。 

「テレビを見たり、酒を飲んだり、家族連れを見たりして、ふと涙が溢れることがある。体形がそっくりな子どもを見ると思い出すことがある。ただ、気持ちとしては、控訴審の最終陳述でも『いい判決を肴に息子と酒を酌み交わしたい』と言ったが、そんな気分です」 

 大川小の震災時の校舎は、石巻市の中心部から車で約40分のところにある。国道45号から県道を新北上川沿いに走り、20分ほど。「平成の大合併」前は旧河北町の、かつては宿場町だった釜谷地区にある。海岸線からは約4キロに位置し、海は見えない。海抜は約1メートル。 

 震災当時は全児童数108人だったが、児童の70人が死亡。4人は行方不明だ。教職員10人も津波によって亡くなった。震災当日の14時46分、激しい横揺れが起きた。学校では「帰りの会」が行われていたり、下校をしようとしている子どもたちがいた。

大川小では津波の避難訓練をしたことがない

  当時、校長は不在だったために、震災対応は教頭が中心に行なった。先生たちの指示で子どもたちは机の下にもぐった。揺れが収まると校庭に集合することになる。マニュアルでは「震度6弱以上を観測した場合は、原則として保護者引き渡し」となっていた。しかし、周知徹底されず、個人の判断で保護者が迎えに来た子どもたちもいた。欠席した子どももいたために、津波がくるまで学校にいた子どもは78人だった。 

 また、津波警報がラジオで流れていた。市の広報車も「大津波警報」を告げ、「高台へ避難してください」と呼びかけていた。大川小では津波想定の避難訓練をしたことがない。マニュアルでは、津波などで避難している校庭が危険な場合は、【近隣の空き地・公園等】へ二次避難することになっていた。しかし、「空き地や公園等」は具体的にどこを指すのかは明らかではなかった。  

避難まで約50分、話し合いが続いた

 学校は川の堤防よりも低い位置にある。校庭よりも高い場所にあるのは「裏山」か、堤防道路で、新北上大橋のたもとである「三角地帯」と呼ばれる場所だ。ただ、「三角地帯」は堤防と同じ高さで、「安全」とは言い切れない場所でもある。結果的に「三角地帯」に避難することになる。それまで約50分、話し合いが続き、移動中に津波が襲って来た。そのため犠牲者が多かった。

  自然災害のために避けられないことだったのか、教育現場でのミスが招いた人災なのか。石巻市教委も遺族側も調査を行ったが、最終的には文部科学省の主導で「大川小学校事故検証委員会」が設置された。しかし、それまでの調査を超えたものは出てこない。子どもたちに死者・行方不明者が多くなったのは避難が遅れたため、という結論しか出せなかった。 

 遺族のうち、児童23人の19遺族は、安全配慮義務違反を理由に、宮城県と石巻市に対して、23億円の損害賠償を求めて提訴した。仙台地裁(高宮健二裁判長)は、津波が押し寄せることは予測でき、裏山へ避難すべきだったとして、14億円の損害賠償を命じる判決を下した。ただ、マニュアルの不備などの事前対策については指摘されていない。 

「一審で勝訴はしたが、遺族側の主張が認められたわけではなく、納得していない。しかし、子どもを亡くし、裁判も時間がかかったので、ダメージは大きい。納得して終わりにしたかった。我々から控訴は考えていなかった」 

唯一生存した教諭は、裁判を通じて証言をしなかった

 結局、判決を不服として県と市が控訴した。「これ以上争いたくない」と思っていた遺族側だが、県と市が控訴したことに加え、判決が直前の避難行動のみを問題にしていたこともあり、判決不服で控訴した。控訴審(小川浩裁判長)は今年1月23日、結審した。唯一生存した教諭は、裁判を通じて証言をしなかった。また、新しい事実が出てきたわけではない。しかし、浩行さんは、判決に期待している。判決は4月26日――。 

「控訴審では、事前の備えの部分を強調した。証人尋問で市教委は、定例校長会議や教頭会を通じて指示したり、また研修もしていたと言い、各学校の現場の問題、と主張していた。自分たちには責任はないと、現場に責任を押し付けようとしていた。これは個々の現場の問題ではなく、組織の問題だと思っている。校長の危機管理意識とか能力の問題があるのなら、それを管理するのが市教委。教育行政の問題ではないか」 

 控訴審が結審したとき、一部の報道では、「和解選ばず」「和解応じず」「和解拒む」などの見出しが躍り、遺族側が和解を拒否したとも取れるような内容の報道が流れていた。しかし、遺族側に和解内容が提示されたことはない。 

「結審の日、裁判長から『和解についての意見を聞かせて欲しい』と言われ、遺族側と県・市側に分かれて、『われわれは判決をいただきたい』と言っただけ。和解内容は提示されていない。県・市側も積極的に和解案を出すということをしたことはない」  

 亀山紘市長は2017年12月4日の定例記者会見で「裁判所から提案があれば真摯に検討したい」と、高裁側からの和解提案を待つとしたものの、市から和解案を出すことはないとしていた。しかし、市側の代理人が結審後に「和解を望んでいたが、残念だ」と記者に答えたこと、亀山市長が「和解に至らなかったことは大変残念」とコメントを出したことも見出しに影響したのだろうか。 

「俺が的確な指示を出していなかったからだ」

 一方、浩行さんの父・浩さん(当時77歳)、母・かつ子さん(当時70歳)、長女・麻里さん(当時18歳)、次女・理加さん(当時16歳)も津波に飲まれ、亡くなった。発見時の様子からは、避難の準備をしていたことが推測されている。 

 自宅は大川小よりは上流に位置していた。堤防があったために、自宅からは川は見えない。当時の自宅は、現在の改修された堤防道路にかかっている場所にある。震災後は仮設住宅に住んでいたが、内陸部に引っ越した。 

「家族が逃げ遅れたのは、大輔が帰ってくるかどうかを考えていたのかもしれない。それは事前に俺が的確な指示を出していなかったからだ。日頃から、例えば『大輔がいなくても、待たないで避難を』と言っていればよかった。そういう話し合いをしておくべきだった。学校では校長が日頃から防災の体制を取っていなかったが、それは家庭も同じだった。大輔以外の家族が死んだのは自分のせい。直後から『死にたい』と思ってるのは今でも変わらない」 

「自分の家系は自分で終わり」

 震災後、もう一回、子育てをしたいと子づくりをしたが、恵まれなかった。昨年6月には心臓の手術をした。11時間にわたる大手術だった。7年間で人生が大きく変わった。 

「変化が大きすぎて、ついていけないときがある。子どもがいる人といない人の差もある。自分の家系は自分で終わり。裁判で勝ったら、原告団長という自分の役目も終わりかな。裁判が終わったら、また考え方が変わるかもしれないけれど……」 

 大川小の閉校式も2月24日に行われた。閉校時の在校生は29人。4月から二俣小学校に統合される。前身の釜谷小(1873年に開校)からすると、145年の歴史に幕を閉じた。浩行さんは式に出席しなかった。 

「子どもが一人でも生きていれば行ったかもしれないが、いまは(学校に)恨みしかない。ただ、学校は閉校しても、校舎は震災遺構として残る。子どもたちはもう通わないが、防災を学ぶ場として意味がある。それに、大輔が最後を迎えた場所だから……」

写真=渋井哲也

(渋井 哲也)

今年は、仏壇には、日本酒とタバコ、ライターをお供えした