「和牛全共」をご存じだろうか。

「全国和牛能力共進会」の略称だ。各県が独自に改良を進めてきた和牛で競い合う、肉牛の品評会である。5年ごとに開かれることから「和牛の五輪」とも呼ばれる。

 この9月に宮城県仙台市で開かれた第11回の和牛全共には、39道府県から513頭が出品され、福島県は県として史上最高の成績を収めた。

 その原動力になった1頭の種牛がいる。

 名を「高百合(たかゆり)」と言う。

 福島県川内村で、2008年に生まれた。

 その3年後、東京電力福島第一原子力発電所が事故を起こし、同村は深刻な被害を受けた。

 原発から20キロ圏内には、政府が避難指示を出して、立入禁止になった。このため多くの牛が殺処分にされたり、餓死したりした。

 高百合の生まれた集落は、まさに同村の20キロ圏内にあった。

 しかし、高百合はそうした中にあっても生き残り、同県の種牛のエースにまで上り詰めてゆく。その奇跡の物語はあまり知られていない。

番外から選ばれる

 川内村を含む双葉郡は、福島県でも独特の和牛産地だった。主に同郡をエリアとする和牛の専門農協「双葉畜産農協」が中心となり、独自の改良を進めてきたからだ。

 牛の改良は一般に、地元の母牛に優れた種牛の子を生ませるなどして行う。「これだ」というメスが生まれたら、農家は出荷しないで手許に残す。そしてさらに目ぼしい種牛の子を生ませ、目標とする体格や肉質を目指す。

 オスは、ほんの一握りが選抜されて種牛になるほかは、去勢されて肉になる。

 優れた牛のルーツは兵庫、鳥取、岡山などの県だとされている。双葉畜産農協では1960年代から、この3県の種牛を導入し、改良を重ねた。

 同農協が自前の種牛を保有したのは92年までだが、それまでに双葉郡の母牛の集団は、サシがいいと言われるようになっていた。

 そうした血を濃く受け継ぐ母牛に「みつこ」がいた。体がひときわ大きく、優しい性格で、川内村で飼われていた。

 和牛農家には2種類ある。母牛に子を生ませ、10カ月ほど育ててから子牛市場に出す繁殖農家。そして、買った子牛を20カ月ほど太らせ、食肉市場へ出荷する肥育農家だ。

 みつこを飼っていたのは、高齢の繁殖農家だった。だが、後継者がおらず、手放さざるを得なくなった。その時、救いの手を差し延べたのが、隣に住む吉岡清さん(74)とヒデ子さん(69)の夫妻だった。

「みつこをペットのように可愛がっていた人なので、隣で引き取ればいつでも見に来られると思ったのです」と、清さんは話す。

 夫妻が住んでいたのは、阿武隈の山々に深く入り込んだ集落だ。和牛の繁殖が盛んで18軒のうち10軒以上が飼っていた。器用な清さんは、質のいい子牛を生ませる農家として評判になっていた。

 夫妻はみつこに、精液の入手が困難なほど人気があった鹿児島県の種を付けた。この父母のもとで生まれたのが高百合だった。

 そうした動きを見守っていた人がいた。双葉畜産農協の職員だ。みつこは生んだ牛の枝肉(胴体部の肉)の成績が良かったので、次の子牛に注目していた。職員は高百合が生まれると駆けつけて来て、「これはいい種牛になる」と断言した。

 そして同県の種牛を一元管理している県畜産研究所(福島市)に持ちかけ、種牛候補として県に引き取ってもらった。

 候補にはなっても、正式な種牛になるまでの道は遠い。県の種牛は常時10頭前後しかおらず、幾次もの選抜でふるいにかけられる。高百合は肩の形が独特だったので、第1次選抜で落とされる予定になっていた。

 和牛は肉質が勝負だが、それを見るために枝肉にしてしまっては繁殖に使えない。そこで外見から肉質や遺伝能力を類推する方法が確立されている。外見から判断すると、高百合はやや規格外だった。

 ところが、本命の候補牛に遺伝的な問題があるのではないかという声が出た。このため番外の高百合が第1次選抜を突破した。ここで外されていたら、廃用にされて命はなかった。

 高百合は強い運を持っていた。

母牛集団が壊滅

 そんな時に原発事故が襲う。

 11年3月12日、1号機建屋で爆発が起きた。

 吉岡家は、村に隣接する同県田村市の親類宅に身を寄せた。「すぐに帰れる」と思っていた清さんはスリッパのままだった。

 集落はまだ立入禁止になっていなかったので、翌日ガソリンを分けてもらい、車で餌をやりに帰った。家には、みつこら5頭の母牛と、4頭の子牛を残していた。

 その2日後、家族は新潟県へ再避難を決めた。清さんは「牛がいるから行けない」と拒んだ。水は山からの引き水がいつでも飲めるようにしてあったが、餌はなくなっているはずだった。

 だが、清さんが一人だけ親類宅に残るわけにはいかなかった。結局、家族と共に新潟県、埼玉県、栃木県と避難を重ねた。避難先から牛の様子を見に一時帰宅したのは1週間後だった。

 餌は足りなかった。

 避難先と自宅を行き来しているうちに、母牛は次々と死んでいった。夫妻は牛舎の運動場に、重機で穴を掘り、涙ながらに埋めた。

 やがて、母牛はみつこだけになった。そのまま牛舎に留め置いては、みつこの命も先が知れていた。

「自力で生きられるだけ生きて」

 夫妻は3月末、みつこと4頭の子牛を山に放した。子牛は全頭生き延びていた。

 集落では他の農家も牛を放ち、牛は3グループに分かれて野生化した。頭のいいみつこは、最も大きい16頭の集団を率いた。「角で傷つけられた跡がいっぱいありました。闘争しながらボスになっていったんでしょうね」と夫妻は語る。

 4月22日、政府は原発から20キロ圏内を立入禁止にした。そして5月、このエリアの家畜を殺処分にすると決めた。

 みつこに最期の時が訪れた。

 腹を空かせた牛を捕まえるのは簡単だ。草地に囲いをして、餌と水を置けばいい。集まった牛は、獣医が薬で安楽死させ、穴に埋めた。みつこを含めて52頭いた。死体は今もまだ、吉岡家の近くの草地跡に埋められている。

 福島県内で約2万1300頭飼われていた母牛は、こうした殺処分などのために原発事故後、約1万5100頭に減った。一瞬のうちに3割の牛がいなくなったのである。今年度の調査では1万3500頭にまで減少した。原発事故の影響は、回復どころか深刻化しているのが実情だ。

 エリアが政府の避難指示区域と重なる双葉畜産農協では、長い年月をかけて造り上げてきた母牛の集団がほぼ壊滅した。

 そうした一方で、高百合は生き残った。原発から70キロメートル近く離れた県畜産研究所に引き取られていたからだ。餌が不足し、種牛として体を作らなければならない時期にやせ細ったが、双葉の牛としては最後の生き残りのような存在になった。

「高百合に負けられない」

 吉岡夫妻は田村市で借家住まいを始めた。だが、避難生活のストレスのせいだろうか、清さんが脳梗塞で倒れてしまう。

 13年1月のことだ。

「前日までピンピンしていたのに、半身不随になってしまいました。これで終わるのかと思うと、悔しくて悔しくてなりませんでした」

 ところが翌月、入院先の病院に知人から「寝ている場合じゃないぞ」という電話が何本も入った。

 高百合が県の種牛に選ばれたのだ。しかも種付けの試験では、大きさもサシも福島県の歴代の種牛で飛び抜けて数字のいい肉を生み出していた。各県の名だたる種牛にも引けをとらなかった。

「高百合が頑張っているのに負けてたまるか」。清さんは励まされるようにしてリハビリに取り組んだ。

 ベッドにゴムをくくり付けて引っ張る。様々な思いが頭をよぎって眠れない夜には、体を引きずるようにして病院の階段を昇り降りする。

 川内村の自宅は、村の中心部から離れていた。ヒデ子さんは車の免許を持っておらず、清さんが運転できなくなれば帰れない。必死だった。

 清さんは病院が驚くほどの回復ぶりを見せ、3カ月で歩けるようになった。高百合が種牛としてデビューした4月、追い掛けるようにして退院した。

 その姿に励まされた人々がいる。川内村の和牛農家だ。

 村には政府の避難指示区域にならず、牛を殺処分しないで済んだ地区があった。そうした地区でも牛を処分する人は多かったが、35戸あった農家のうち7戸が、石にかじりつくようにして飼い続けていた。

「清さんも高百合も頑張っている。俺も頑張らなければ」。6頭の母牛で繁殖に取り組んでいた遠藤公明(ただあき)さん(69)は、真っ先に高百合の種を付けた。廃業した村の農家から引き取った母牛もいたので、高百合と掛け合わせれば、わずかに残った双葉の牛の血を引き継げるという思いもあった。

 本田富男さん(67)は、7頭の母牛のうち半数に高百合の種を付けている。「水が美味しく、牧草もふんだんに取れる川内村は、和牛の育成に適しています。だから高百合が生まれたのかもしれません。村で牛を飼う素晴らしさに改めて気づかされました」と話す。

花の7区で勝負に出る

 今年の和牛全共に出品した農家も高百合には強い思いを持っていた。

 大会は9つの出品区で争われる。そのうち最も注目が集まるのが第7区だ。同じ種牛から生まれた若い母牛と、肉にする去勢肥育牛を、計7頭セットで出品する。母牛から枝肉まで審査するので「総合評価群」と名付けられており、「花の7区」と呼ばれる。

 福島県は、もちろん高百合の種を付けて勝負した。

 このうち去勢肥育牛を出品した同県南相馬市の門馬敞典(たかのり)さん(74)の一家は、妻のエイ子さん(71)、二女の美貴さん(40)、美貴さんの夫で婿の昌憲さん(38)の4人で和牛を肥育してきた。

 あの日、東日本大震災で同市の沿岸部は津波に呑み込まれ、636人が亡くなった。

 門馬家は山の近くにあったので被害を免れ、消防団に入っていた昌憲さんは翌日から捜索活動に加わった。瓦礫と化した家や車、収容されていない遺体……、これらに混じって、海に流されながらも助かった牛がいた。敞典さんも駆け付けて捕まえ、自宅の牛舎に引き取った。

「10頭以上はいたでしょうか。おびえて興奮していたので、運搬車から降ろす時には重機で引っ張ったほどでした」と敞典さんは振り返る。

 だが原発爆発のために、捜索活動は中止を余儀なくされた。消防団員は次々に避難を始めた。昌憲さんも美貴さんと幼い2人の子を連れて、山形県へ避難した。同県のブランドになっている「尾花沢牛」の生産農家で働きながら、南相馬市に時々帰宅して、牛の世話や出荷をした。

 敞典さんとエイ子さんは避難しなかった。100頭以上の牛がいたからだ。先に避難した農家からは「帰れないから、牛の世話をしてくれ」と頼まれた。

 後に分かるのだが、自宅は原発から30.5キロメートル離れていて、30キロ圏の屋内退避指示エリアをわずかに外れていた。それでも原発事故直後はドライバーが近づくのを嫌がり、飼料が届かなかった。業者に問い合わせると、「倉庫の鍵の開け方を教えるから、必要なだけ持って行ってくれ」と言われた。

同じ集落からセシウム牛

 同年7月、「事件」が起きた。

「おい、大変だぞ。セシウム牛が出た」。午前0時頃、知り合いの農家が昌憲さんに電話を掛けてきた。テレビをつけると、南相馬市から出荷した牛の肉に、基準を超える放射性セシウムが含まれていたと大騒ぎになっていた。すぐに同じ集落の農家だと分かった。

 その農家は、人々が避難するのを横目に、天日乾燥していたワラを、土埃を立てて集める姿が目撃されていた。

 近隣では「放射性物質が飛散しているという噂があるのに、牛に食べさせるのだろうか」と話題になっていた。

「セシウム牛」の衝撃は大きかった。

 福島県産牛は、全頭検査の体制が整うまで1カ月以上、出荷停止になった。

「それまでの食肉市場では、復興支援の意味もあって、キロ当たり100円から200円、他県より高く落札してくれていました。それがいきなり半値に下落したのです。従業員が嫌がるからと受け入れを拒否する市場もありました。今もまだ他県産と比べてキロ当たり100円から200円安く落札されています」と、昌憲さんは肩を落とす。

 門馬家では逆境に抗うようにして、和牛全共への挑戦を決めた。

 出場経験はない。それでも「何かの目標が必要でした」とエイ子さんは語る。

 候補牛は4頭導入し、エイ子さんが飼育の担当になった。

 門馬家では、敞典さん、エイ子さん、そして昌憲さんと美貴さん夫妻の3組が、それぞれ牛舎を管理しており、餌の中身から育て方まで違う。エイ子さんが選ばれたのは、たまたま牛舎が空いていたからだが、実は門馬家で最も高く売れる牛に仕上げるのは、エイ子さんだった。

「緊張しました。毎日ブラシをかけてやりました。ただ、特別なことはしていません」

 高百合の子は、大きくなるのが特徴だ。エイ子さんの牛舎でもぐんぐん成長した。県が毎月行ったエコー検査などで肉質が高いと分かり、和牛全共の第7区に出品する県代表の3頭のうちの1頭に選ばれた。

 3頭の枝肉重量の平均は、他県に大きく差を付けてトップだった。「驚いた」とエイ子さんは笑う。

 サシの入り方や、皮下脂肪などを除いた歩留りも好成績で、「高百合の種を付けた牛は、極めて経済性が高くなると証明されました」と、福島県チームの出品対策委員長を務めた柳沼浩・県畜産課主任主査は語る。

 門馬家では、高百合の遺伝能力をさらに引き出す肥育方法がないか、研究していくことにしている。

「入賞」をバネに復興を

 原発災害は今も続いている。

 和牛農家は特に深刻な影響を受け、傷口がふさがっていない。

「高百合の活躍を耳にすると、逆に自分が惨めに見えてくる。牛のことはもう思い出したくない」と廃業した農家の1人はため息をつく。

 母牛の集団を失った双葉畜産農協も、遠からず解散すると決めた。

 高百合の活躍を手放しでは喜べない現実がある。

 しかし高百合は、福島の和牛農家の心が折れそうになっていた時、彗星のように現れて、次へ進もうという気持ちにさせた。「高百合がいたから頑張れた」。同県飯舘村から同県相馬市に避難していた繁殖農家、佐藤一郎さん(56)は力を込める。

 佐藤さんは今回の和牛全共に出場した。「飯舘村の復興の狼煙(のろし)が上げられる」と考えたからだ。

 飯舘村は原発から20キロ圏外にある。当初は政府の避難指示区域に入っていなかった。しかし放射線量が高く、11年4月22日から1カ月程度で避難する「計画的避難区域」とされた。

 村には約230戸の和牛農家がいたが、多くは牛を売って避難した。佐藤さんは「こんなことで廃業したくない」と、牛を連れて逃げる道を選んだ。

 避難先を相馬市にしたのは、廃業した農家の豚舎を借りて、牛舎に転用することができたからだ。頼りにしていた和牛農家の先輩もいた。約15頭を連れて村を後にし、自身は相馬市内の仮設住宅へ入った。

 避難後の飼育はなかなか軌道に乗らなかった。豚舎は使い勝手が異なり、牛の飼育には向かなかった。牛にもストレスがかかっていたはずだ。苦労は3年ほど続いた。

 長いトンネルからようやく抜け出せそうになった頃、高百合の評判を聞いた。「この牛が福島を再起させてくれるかもしれない」と直感し、すぐに種を付けた。

 高百合を父に持つ子牛を育てるのは楽しかった。

「どんどん育つ。よく食べるので病気をしない。おとなしくて人懐こい。すりすりと甘えてきて、犬か猫みたいな感じです。特にうちにいるのは仏様みたいです」と佐藤さんは目を細める。

 こうした評価は、どの和牛農家にも共通している。「素材はいい。あとは高百合という名前を売るだけだ。和牛全共のブランド力で発信しよう」と思った。そこで若いメス牛が競う第2区をターゲットにした。

 この区は、母牛として農家が飼い続ける牛の出品区だ。枝肉ではなく、外見の審査になるので、体型が箱型になるよう肉を付けさせた。散歩をさせると効果が上がると聞き、河川敷やダム湖の周辺を、毎日2キロメートルほど一緒に歩いた。

 県代表に選ばれたのは大会の2カ月半ほど前だ。見映えを良くするため、他県の出品者は声だけで牛を左右に曲がらせるよう調教する。だが、その時間はなかった。むしろ高百合の血統に特徴的に現れる「人懐こくて優しい気質」をそのまま見てもらおうと考えた。

 佐藤さんの出品牛は、会場でも落ち着いていた。食欲にも変化がなかった。「行ける」と確信した。結果は「優等賞」。初出場なのに見事に入賞を果たし、「こんな誉れはない」と頬を赤らめる。

 飯舘村は、帰還困難区域の一部地区を除き、今年3月31日に避難指示が解除された。佐藤さんは5月、仮設住宅から自宅へ戻った。

 牛舎は新たに建築中で、来年春には村に牛を戻す考えだ。

 母牛は43頭に増えた。そのうち2頭が高百合を父に持つ。この2頭からどんな子が生まれるだろう。佐藤さんは楽しみにしている。

 飯舘村の住民の帰還率は、まだ1割にも満たない。「和牛農家も3軒が村に戻り、5~6軒が帰還を計画していますが、避難前にははるかに及びません」と村役場の担当者は話す。だが、佐藤さんの入賞は、飯舘村が「牛」を取り戻すための大きな弾みになるはずだ。

 10年、口蹄疫で約7万頭の和牛を殺処分した宮崎県は、12年の和牛全共で総合優勝し、これをバネにして復興を成し遂げた。

 今回の和牛全共は、福島の農家の勇気につながるだろうか。

撮影=筆者

(葉上 太郎)

種牛の高百合が生まれた集落