東日本大震災の被災地のキャバクラ嬢の話を聞き歩いている。というのも、避難所や仮設住宅を取材していたとき、20代の女性と出会う機会が少なかったからだ。仙台市を除くと、東北沿岸部には大学や専門学校が少ない。そうしたこともあり、その年代の女性の話を聞くには、キャバクラはよい場所だと思っている。 

 震災後、宮城県は仙台市と石巻市、岩手県は盛岡市と一関市。福島県は福島市、郡山市の店に行ったことがある。ちなみに、仙台市国分町では震災後1週間ほどで電気や水道が回復し、営業を再開していた。拙稿では、特定を避けるために、どの地域で聞いた話かは省く。 

母親が「あんた、生きてたの?」

 まず、震災当初の話として、もっとも印象的だった2人の話を紹介する。亜衣(仮名、当時20代前半)は津波発生時、車を運転していた。気がつくと、道路から水がわいてくるように見えた。次の瞬間、津波が窓のあたりに到達していた。

「え? 何これ?」 

 これが津波という考えになるまで時間がかかった。津波で近くの駅まで車が押されていた。続いて引き波となった。すでにエンジンはかからなかった。水深が浅くなったとき、亜衣はヒールを脱ぎ、ドアをあけて、泳いで水がないところまで移動した。 

 その日は職場の同僚の家に泊めてもらった。ただ、自宅は海岸の近くにあるため、両親を心配したものの、携帯電話は通じない。翌日、自宅までたどり着くが、案の定、津波被害にあっていた。2階は無事だったので、探すが誰もいない。亡くなってしまったのかと途方に暮れていたら、母親から声をかけられる。 

「あんた、生きていたの? 死んだのかと思った」 

 そんなにあっけらかんと生存確認をしていたのかと思うと、災害時の心理は通常の心理でははかれないことを実感した。 

 また、加世(仮名、当時20代後半)は地震発生時、内陸部にいたため、津波の被害はない。しかし、実家を含む育った場所は沿岸部だ。実家はどうなったのかを聞くと、津波に飲み込まれたと話していた。 

「そのとき実家にいたのは祖母だけでした。小さい頃から祖母に『大きな地震があったら、津波がくるから逃げなさい』と言われていたんです。私がいたところは津波がくるような場所ではなかったので、身を守っただけです。ただ、祖母は、自分が言っていたように、すぐに逃げて無事でした」 

 祖母は昭和三陸地震津波(1933年3月3日)とチリ地震津波(1960年5月24日)の話をしていたという。二つの津波を経験したことで、反射的に備えができていたのかもしれない。では、友達はどうだったのだろうか。聞くと、加世は一瞬、口ごもった。誰か亡くなったのだろうか。 

「あの、実は……。私、友達がいないんです。小学校のときにいじめられ、中学は不登校でした。高校はみんなが行かないような学校に行きました。だから、同世代の子たちとはほとんどしゃべってないですし、顔は知っていますが、連絡先を交換している人はいません」 

 あれから7年が経ち、2人の顔を見ようと店を探したが、なくなっていた。メールも届かなかった。では、震災7年を前に、今、キャバクラで働いている女性たちは、震災をどう体験し、いまの仕事にたどり着いたのだろうか。

教師になろうと大学に進学したが……

 砂央里(仮名、20)は、震災当時は中1。卒業式が終わった後、海の近くの自宅に戻っていた。そこで経験したことのない地震があり、津波警報が鳴り響いた。そのとき仕事中のはずだった父親が車で帰宅。砂央里のほか、母と祖母を乗せて、内陸部の高い建物に避難した。津波は見えなかったという。その後、複数の友人が亡くなった、と聞く。

 震災を経験したこともあり、砂央里は教師になろうと思い、大学へ行く。しかし、両親は大学進学に反対した。仕送りはなし。奨学金は「自分の借金になるから」ともらってない。当初はアルバイトを何件も掛けもちしたが、体がついていかず、時給のよいキャバクラに行き着いた。

「最初は大変でしたが、もう慣れました。人の話を聞くのは好きですので、この仕事も向いていると思います。大学を卒業したら教師になろうとも思っていた時期もありますが、この仕事一本でやっていこうと思っています」

 生活費も授業料も自分で稼ぎ、支払っている。おそらく両親は夜の仕事をさせるために仕送りなしにしたわけではなく、大学進学を諦めさせるつもりだったのではないか。

「しつけのつもりだったのでしょうかね。でも、結果として夜の道を選んでしまいました」

木のボートで孤立した避難所から脱出

  多英(仮名、19)は震災当時小6。地震が起きて、津波警報が鳴ったために、近くの小学校へ避難した。2階近くまで津波が押し寄せた。津波は「ドブの色」だった。とっさに、「え? まじ? くさっ!」とつぶやいたという。 

 家族で同じ場所に避難できた。孤立すると思いきや、「木のボート」でやってきた男性がおり、その「ボート」に避難者を乗せていた。多英も乗せてもらい、津波被害がない場所まで家族一緒に行き、親類の家で数日間、過ごすことになった。友人や親族で亡くなった人はいない。 

 その後、中学、高校と進学する。高校2年のときだった。授業についていけない中で、あまり学校に行っていない友人からバイトを紹介された。それがキャバクラだった。でも、夜の時間帯であり、高校生ができるバイトではない。 

「一度行って、出勤しなかったんです。すると、友人が『なんで来ないの? 私、行ってるよ』と言われて、また誘われたんですが、最初は行かないでいたんですけど……」 

 学校に行けなくなり、1週間ほど経って、教室に行くと、机と椅子がなかった。むしろ、「なんで来たの?」と言われた。それで吹っ切れて、高校を辞めた。そして、夜の道を選択した。 

「ただ、最初は高校生の年代でもあり、地元ではなく、系列の別の店で働いていました。顔バレを避けるためですね。18歳過ぎてから、地元で働いています。将来、何をしたいのかは、わからないです。わからないから、ここで働いているのかも」 

「東京へ行きたいんです」

 菜美(仮名、20)は震災があったとき中2だった。3年生の卒業式が終わり、一旦自宅に帰り、遊びに出かけようと、外に出た。すると地震が起きた。しばらくすると津波警報が聞こえたという。自宅は高台にあるため、再度自宅に戻った。自分の部屋から津波が見えたという。 

「あれが津波なのか?って感じでした」 

 しばらくすると、同じクラスの子を含めて、同級生が複数人亡くなった話を聞いた。その中には、当時、一番仲の良かった子が含まれていた。 

「終業式に顔を見せなかったので、おかしいなとは思っていたんです。でも、他の人たちは遺体となって発見されたんですが、その子はなかなか発見されなくて……」 

 行方不明の時期が長かった理由がはっきりしたのはしばらくしてからだ。というのも、津波に浸かっていた時間が長かったのか、顔が膨れて、一見して誰かわからない状態だったという。葬儀もなかなかできなかった。 

 震災を経験したことと、今、キャバクラで働いていることは結びついているわけではない。ただ、好きなネイルができる仕事として選んだ。最近では、やりたいことが見つかったという。 

「東京へ行きたいんです。そして、メイドカフェで働きたい。ネイルもできるし、夜、働かなくてもいいですから。やっぱり、夜はきついです」
 

(渋井 哲也)

東北一の歓楽街である仙台の国分町 ©渋井哲也