東日本大震災から7年が過ぎようとしている。この震災の犠牲者1万5千人以上のうち、実に90%以上が「溺死」、つまり津波に呑まれて死亡した。その一方、津波で危うく命を落としかけながら九死に一生を得たケースも少なくない。今回は、彼らの奇跡的生還エピソードや、大震災によって“癒された”という不思議で感動的な5つの体験談を紹介したい。

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■暴走族を解散してボランティアグループに転じた若者たち

 この大震災では、津波の高さや原発事故など“想定外”という言葉が多用されたが、予想に反して人々の優しさに触れたという良い意味での“想定外”を味わった人々もいた。甚大な災害が発生し、多くの人々が被災した時、そこから学べるものがあるとすれば、一つは「助け合いの心」ではないだろうか。暴走族の若者でさえ、心が動かされることもあるようだ。

 大震災から約1カ月後となる2011年4月17日、茨城県大洗町を拠点とする暴走族「全日本狂走連盟愚連隊大洗連合ミスティー」のメンバー9人が水戸警察署を訪れ、グループの解散を報告した。これまでの自分たちの行動を悔い改め、総長の少年(当時16)は、「これまで地域の人に多大な危険と迷惑をかけてきた。今後は震災の復興のためにボランティアをする」(朝日新聞、2011年4月19日)と宣言したのだ。

 不良少年たちをここまで大きく変えたのは、やはり被災体験のようだ。メンバーの多くも被災し、避難所生活を送ったが、そこで人の心の優しさに触れたことが自己を省みる契機となった。大災害に何らかの意味があるとすれば、それは“人々の心を優しくする”ことだろう。辛く苦しいのは自分だけではないのだと悟り、困っている人々を見て自然と手を差し伸べたくなるのかもしれない。

■冷水に浸かったまま15時間耐え、車椅子の妻を助けた71歳

 宮城県名取市の森勝寿さん(当時71)と直子さん(当時69)夫妻のエピソードは強烈だ。直子さんは30代で関節リウマチを患い、首・肩・肘・腰骨、膝などがすべて人工関節のため、自分では一歩も歩けない。勝寿さんは10年以上、わずかな年金で妻を介助してきた。そしてあの日、テレビを見ていた2人を大きな揺れが襲った。しばらくして津波警報のサイレンが鳴り響いたが、直子さんが動けないため避難所の小学校まで移動できず、その場に留まることしかできなかった。

 やがて2人を津波が襲い、濁流が部屋に流れ込んできた。その時、勝寿さんは壁に打ち付けられ、直子さんは水流で車椅子から投げ出された。すると勝寿さんは、ちゃぶ台にしがみつく直子さんの元へと泳ぎ着き、水に浸からないよう担ぎ上げた。水位が自分の胸まである状況で、ちゃぶ台を持ち上げ、手がかじかみ腕が悲鳴を上げても必死に耐え続けた。

 そして翌朝、空が白みはじめた5時半頃、ついに水が膝下まで引いてきた。勝寿さんは直子さんを下ろすと、瓦礫をかき分けて外に出た。変わり果てた景色を前に、ありったけの声で叫んで助けを求めたところ、近所の人に発見されたという。憔悴した2人が救出された時、津波発生からなんと15時間が過ぎていた。病院に搬送されて応急手当を受けた直子さんの体温は33度しかなかったが、なんとか一命をとりとめた。

「わたしはお父さんがいないと何一つできない。生きてるのが奇跡的です。助かったのが不思議でならない」(週刊朝日、2011年3月28日)と直子さんは語る。まるで小説でも読んでいるかのような信じ難い話だが、このようなことは、夫の妻に対する絶対的な愛と、妻の夫に対する絶対的な信頼なくして起きなかった奇跡といえるだろう。

■亡くなった息子が夢に現れて命を救われた

 このエピソードだけは、阪神・淡路大震災(1995年1月17日)発生時の出来事である。過去、女手一つで育ててきた幼い子ども2人に先立たれるという悲劇を経験した藤岡愛子さん(当時74歳)は、神戸市灘区の集合住宅で独り暮らしをしていた。

 震災前夜、藤岡さんの夢に死んだはずの息子が現れた。なぜか息子は数珠を手にしており、無言だったが、まるで何かを訴えているようだったという。そのため翌朝、藤岡さんは早起きして息子の位牌に手を合わせていたところ、突然大きな揺れが起きたという。藤岡さんはとっさに身体を動かすことができ、なんとか助かったが、普段であれば就寝中の時間帯だ。息子が夢に出てこなければ、今ごろ梁の下敷きになって死んでいたかもしれないと思った。藤岡さんは今でも、息子が自分の命を助けてくれたと信じているという。

 息子によって救いの手が差し伸べられたのであれば、それは“死後の生命”や“霊的存在”を認めることが前提の話になる。筆者は50年近く心霊現象などを研究してきたが、その経験からいえば、やはり霊は存在すると思う。そうでなければ、この話のように説明が難しい事例があまりにも多いのだ。藤岡さんの息子は、老いた母が心配で、霊界で数珠を手にしながら一生懸命母のために祈っていたのかもしれない。

■先祖の霊に助けられた

 東日本大震災のエピソードに戻ろう。石巻市の斎藤秀樹さん(43)は、脳梗塞で体が不自由な父(当時75)、糖尿病の合併症の母(当時74)、寝たきりの祖母(95)と4人で住んでいた。震災発生時には自宅でテレビを見ていたが、携帯の緊急地震速報が鳴った時、すぐに階段を降りて両親に「今から大きな地震が来るぞ」と伝えると、祖母を車椅子に乗せた。そして、揺れが収まると家を飛び出し、ちょうど巡回中だった警官による交通整理の助けなどを借りながら避難所の湊小学校へと向かった。

 避難所にたどり着いた時は、津波の第一波が押し寄せる直前のタイミングだった。斎藤さんは手記『津波からの生還』(旬報社)に、障害者と病人を含む家族4人が無事だったことは奇跡だと綴っている。

 実は、地震発生のちょうど1カ月前となる2011年2月11日、斎藤さんは不思議な夢を見ていた。すでに他界した親類が数人、夢枕に立ち「なにか危ないことが起きるから気をつけなさい」と言ったというのだ。そして震災1週間前の深夜には、近所のイヌやネコが奇妙な鳴き声を上げていたようだが、いま思うと地震の予兆だったのかもしれないという。このケースでは、親類の霊が大震災発生をズバリ教えてくれたわけではないが、斎藤さん一家に危機が迫っていることを察知し、夢枕に立ったものと思われる。

■自分の命と引き換えに多くの命を救った24歳の女性

 最後のエピソードは、前述までとは異なり、自身が助かったのではなく、他の人々を助けた話だ。宮城県北東部の南三陸町で、町役場の危機管理課に所属する遠藤未希さん(当時24)は、海に近い防災対策庁舎に勤務していた。地震発生後、最大6mの津波警報が発令されると、防災放送を担当する遠藤さんは2階の放送室へ駆け込み、「津波が予想されますので、ただちに高台へ避難してください」と防災放送を始めた。

 やがて津波が襲来し、庁舎が数メートル浸水した後も、アナウンスが止まることはなかった。そして最後の4回では、「ただいま、宮城県内に、10メートル以上の津波が押し寄せています」と内容が変わった。この時点で、たとえ3階建て庁舎の屋上に避難しても津波に呑まれると十分わかっていただろうが、遠藤さんはアナウンスを止めようとしなかった。

 この様子を収めた動画をYouTubeで見ることができるが、そこではアナウンスの音声に重なる「未希ちゃん、上がって上がって」という同僚男性の声も録音されている。たとえ自らが命を落とすことになろうとも、最後まで町の人々を救うために放送を続け、津波の犠牲となったのだ。結局、津波は屋上の床上2mにまで達し、屋上に避難した職員の多くも津波に呑まれた。

 このアナウンスにより、約1万人の人々が避難して助かったといわれるが、中にはアナウンスが「切羽詰まった声だったから」避難したという女性もいた。役所の同僚によると、未希さんは非常に責任感が強い女性だったという。

 今回挙げたいくつかの例からもわかるように、人はみな、1人で生きていると思っていても、実は常に「見えない存在」の助けを得て人生を送っているのかもしれない。超常現象や心霊の世界を50年近く探求・研究してきた人間として、そのことは既成事実とさえ思う。最高の自己犠牲の精神によって亡くなった遠藤未希さんの家族も、「死は絶対的な終わりではない」ことを知れば、心が安らぐに違いない。

(百瀬直也)

※イメージ画像は、「Thinkstock」より

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