チャンピオンベルトがほんとうによく似合う世界チャンピオンらしい世界チャンピオンであり、人生のフルコースをエンジョイしたリッチなプロレスラーだった。

 ここでいうリッチとはお金持ちという意味ではなくて、“豊かなライフスタイル”を指す。15歳のときにルー・テーズを相手にデビュー戦をおこない、53歳でリングを下りるまでトータルで38年間、レスリング・ビジネスの王道を歩んだ。

 ニック・ボックウィンクルの父親ウォーレン・ボックウィンクルは1930年代から1950年代にかけて活躍した名レスラーだった。

 ニックの自慢のひとつは「テーズにおむつを代えてもらった」ことだという。赤ちゃんのときに“鉄人”テーズに抱っこされたままおしっこをもらしてしまった。

 もちろんニック自身がそれを記憶していたわけではなくて、ずいぶんあとになってからテーズからそのことを教えられた。父ウォーレンが22歳のときに誕生した長男ニックは、少年時代の長い長い時間をプロレスの試合会場のなかで過ごした。

 試合を観ていなくても、観客席の“音”を聞いているだけでニックにはリングの上でなにが起こっているのかがだいたいわかった。

 悪役だった父ウォーレンは序盤戦は強くて、悪いことをたくさんしては観客からブーイングを浴び、最後はいつも正統派にこてんぱんにやっつけられる役まわりだった。

 ある“音”がすると、それはニック少年が売店に走っていってホットドッグを買ってくるタイミングだった。

 ケチャップとマスタードとピクルスのみじん切りをたっぷりのせたホットドッグをゆっくり食べてからバックステージに戻ってくると、試合を終えたばかりの父親がシャワーを浴びる時間になっていた。ニックは、そういう物事のタイミングのようなものを少年時代に学んだ。

 デビュー戦のリングに上がったのは第二次世界大戦後まもない1949年だから、テーズやバディ・ロジャースやゴージャス・ジョージの全盛期ということになる。

 父ウォーレンは息子を“大卒”にしたいと考え、ニックはインディア州の全寮制のプライベート・スクールを卒業したあと、フットボール奨学金を取得してオクラホマ大学に進学した。

 オクラホマ大に在学したのは2年間で、そのあとはカリフォルニアのUCLAに転学。はじめのうちは学費を稼ぐつもりで学期と学期のあいだだけロサンゼルスのリングに上がるようになったが、いつのまにかそれが仕事になってしまった。

 ロサンゼルス時代はウィルバー・スナイダーや父ウォーレンとタッグを組んで試合をする機会が多かった。大学をちゃんと卒業しなかったことを、ニックはちょっとだけ後悔していた。

 大学生とプロレスラーの“二足のわらじ”のあとは、徴兵で陸軍に入隊。1958年から1962年までの5年間は、カルフォルニアの陸軍基地に駐屯しながら週末だけディック・ウォーレンのリングネームでプロレスをつづけた。

 ニックは20代でUCLAの学生としての生活、プロレスラーとしての生活、そして軍隊生活の3つのライフスタイルを体験した。

 28歳で陸軍を除隊したあとは、ニック自身が「スーツケースひとつで世界じゅうを旅行できる仕事」と形容したプロレスの旅がはじまる。

 テキサスに1年、ハワイに1年、オレゴンに3年、ジョージアに3年。正統派のサイエンティフィック・レスラーのイメージを大切にした時代もあったし、“ビバリーヒルズ出身”のスノブなヒールを演じた時代もあった。

「相手がワルツを踊ろうとすれば私もワルツを踊る。相手がジルバを踊ろうとすれば私もジルバを踊る」という名言は、対戦相手と場所とシチュエーションによってどんなレスリングでもできるニックのリッチ=芳醇な感性を裏づけるコメントである。

 テレビの画面がまだモノクロだっころ青春時代を送ったプロレスラーは、やはりバディ・ロジャースの強い影響を受けている。

 プロレス史学における“ネイチャー・ボーイ”ロジャースの再来はリック・フレアーということになっているが、1949年生まれのフレアーはロジャースの全盛期の試合は目撃していない。

 ロジャースの生の試合をまじかで観ていたニックは、1970年代にロジャース・スタイルを復刻した。

 きれいにまとまったブロンドの髪はロジャースとまったく同じ形のポンパドゥールで、リングに上がってくるときに右手に持つ純白のスポーツタオルもロジャースのトレードマークだった。

 ニックは、ロジャースを知らない世代の観客のまえでひとつのスタイライゼーション=様式としてのロジャースをひじょうにさりげなく演じた。

 ロジャース・スタイルとは、ベビーフェースを輝かせ、観客を手のひらに乗せ、アリーナに一体感をつくり出し、試合が終わってみたらto be continuedになっているプロレス。かんたんにいえば、負けそうで負けないヒールのチャンピオン像ということになる

 まったくといっていいほどスープレックス系の大技を使わないレスラーだった。

 アメリカン・スタイルの基本中の基本とされるカラー・アンド・エルボーのロックアップは“パチン”という音とともにはじまり、サイド・ヘッドロックからハンマーロック、ハンマーロックからリストロック、リストロックからアームロックと、その動きはまるでチェスのゲームのような連続性のある“旋律”になっていた。

 これは“チェーン・レスリング”(鎖のようにつながったレスリング)と呼ばれる万国共通のプロレスラーのボディー・ランゲージで、腕と腕をからませ合っただけでおたがいの技量・力量が瞬時に判断できるのだという。

 ニックは、ワルツしか踊れないレスラーとはワルツしか踊らず、ジルバしか踊れないレスラーとはジルバしか踊らなかったが、ほんとうはタンゴでもブギウギでもなんでもござれだった。

 レスリングの試合を起承転結からなるひとつのストーリーととらえ、ストーリーと関係のないムダなムーブをできるだけ制限し、場ちがいな大技で“寄り道”をつくらなかった。

 つねにセオリーに則った動きを徹底していたから、結果的に大きなケガをすることもなかった。

 お気に入りのタイツの色は黒、マルーン(あずき色)、白、イエロー、水色の5色。リングシューズは黒とあずき色の2色だった。

 ちょっと意外な感じだが、デビュー当時はウール地の黒のロングタイツをはいていた。ニック自身は「日本のファンはどうしてタイツの色にこだわるのか」といつも不思議がっていた。

 カリフォルニアが好きだったニックは、30代後半から50代前半までのプロレスラーとしての円熟期を雪国ミネソタで過ごした。これも豊かな人生のなかのひとつのめぐり合わせだったのだろう。

 AWAの約30年の歴史(1960年-1991年)は、その前編が“バーン・ガニア物語”で、後編が“ニック・ボックウィンクル物語”になっていた。

 1970年12月にAWAと契約したニックは、親友レイ・スティーブンスとのコンビでAWA世界タッグ王座を通算3回保持したあと、41歳でガニアを下してAWA世界ヘビー級王座を獲得(1975年11月18日=ミネソタ州セントポール)。

 53歳でカート・ヘニングにチャンピオンベルトを明け渡すまで(1987年5月2日=カリフォルニア州サンフランシスコ)通算4回、約13年間にわたり“北部の世界チャンピオン”の座に君臨した。

 ニックはガニア、マッドドッグ・バション、クラッシャー・リソワスキーといったやや年上のチャレンジャーからビル・ロビンソン、ワフー・マクダニエルら同年代のライバルと数かずの名勝負を演じ、ハーリー・レイス、ボブ・バックランド、フレアーら別派の世界チャンピオンとのダブル・タイトルマッチも実現させた。

 そして、リック・マーテル、ハルク・ホーガン、C・ヘニングら次世代のキーパーソンズは、ニックと闘いながらスーパースターに変身していったのだった。

 ニックは引退試合をおこなわずにリングを下りた。現役生活のフィナーレは全日本プロレスの『サマーアクション・シリーズⅡ』(1987年=昭和62年8月)。

 日本におけるいちばん有名な試合はジャンボ鶴田にAWA世界王座を奪われたタイトルマッチ(1984年=昭和59年2月23日=東京・蔵前国技館)。ニックは50歳の世界チャンピオンだった。

●PROFILE:ニック・ボックウィンクルNick Bockwinkel
1934年12月6日、ミズーリ州セントルイス生まれ。本名ウォーレン・ニコラス・ボックウィンクル。AWA世界ヘビー級王座通算4回、AWA世界タッグ王座通算3回保持。得意技は足4の字固め、パイルドライバー、スリーパーホールド。1987年に引退後はラスベガスに在住。引退したプロレスラーとプロボクサーの親睦団体“カリフラワー・アレイ・クラブ”の会長もつとめた。2015年11月14日、死去。80歳だった。

※文中敬称略
※この連載は月~金で毎日更新されます

文/斎藤文彦

連載コラム『フミ斎藤のプロレス講座別冊レジェンド100』第35話は「ニック・ボックウィンクル レスリングの“哲学者”」の巻。(イラストレーション=梶山Kazzy義博)