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 毎週金曜日、首相官邸前で行われる脱原発デモは、首都の日常風景になりつつある。しかし、気鋭の社会学者、開沼博さんは冷静な視座でそれを見つめる。現在の脱原発デモが実際に社会を変えていく可能性はあるかと問われると、断言した。「少なくとも現在までは、まったくないですね。全国の原発立地地域にも、まったく、何も届いていない」

 この強い否定には理由がある。2006年から「福島原発」の研究に着手し、現在は、在籍する東京大学とフィールドワークを行う福島大学とを往復する生活を続けている。開沼さんは、福島県いわき市の生まれ。「フクシマ」は故郷でもある。

 「私は、都会で行われる脱原発を唱える社会運動について『それ、福島に届いているとでも思っているんですか?』と常に問い続けてきました。今の都会で脱原発を唱える社会運動は3.11をきっかけにはじまり、『Save Fukushima!』とか『フクシマは怒っている』とか叫んでいます。 でも、それは本当に福島のため、あるいは東日本大震災で被災した方のためになるのか。『あそこにはもう住めない』とか『福島県産品は危ない』とか『がれきなんか受け入れられない』とか、いりません。
 そこには震災後も変わらぬ暮らし続けている人がいるし、かつての居住地を離れてもいつか戻りたいと思っている人がいる。また、移住しても、新しい生活をはじめるための手段を欲している人もいます。いつまでも『こんな悲劇がある』『こんな悪いやつがいる』とか言ってても、何も進みません」

そして、開沼さんは、現在の運動が原発立地地域の当事者を置き去りにしていることを指摘する。

「こういうことを言うと、社会運動クラスタ(集団)には『福島のことを考えている人もいますよ』とか『いま頑張っている最中なのに水を差すな』とか怒る人がいますが、そういう言い訳はいらないんです。そんな、『実績は出てませんが、頑張っている私のこと認めてください』みたいなの、こっちに向けられても何も解決しない。あなたは、震災後の日本社会をよくしたいのではなく、自分(たち)が認められたい・承認得たいがためにやっているんですか、と聞き返しちゃいますよ。
 もちろん、子どものことを心配して参加する熱心な親御さんや、真剣にエネルギー政策や日本の政治をどうにかしたいと考えてそこに加わる方も多数いらっしゃってそれはすばらしいことです。でもそうではない人もいて、冷静に謙虚に、事実として、本来変えるべきこと、救うべき人を置き去りにしていることに向き合おうとしない人間がいる。
 その落ち度を指摘されたら反発するのではなく、『確かにそういう部分があったな、どうしよう、何か他にできることはないのか』と自分自身に問いを向けなければなりません」

■ 地方と中央の「温度差」は変わらなかった

昨年6月、開沼さんは「『フクシマ』論 原子力ムラはなぜ生まれたのか」を上梓した。原発推進/反対の二項対立に陥ってきた言説を批判しながら、戦後日本の発展史をひもとき、地方の原発立地地域と中央の「分断」と「共生」の姿を描写。学術書としては異例の注目を集め、論壇からも高い評価を受けた。

「『フクシマ』論」では、原発立地地域の心情を勝手におもんばかって盛りあがる都会の「知識人」による反原発運動への、住人の冷ややかな視線が描き出される。3.11直後に書かれた補章には、震災直後の反原発の盛り上がりを受けて、彼が以前に聞いたという"原子力ムラ"に住む女性の言葉が引かれている。

「一番落ち着いてるのは、地元の私達ですから。ほっといてくださいと思ってます」

原発立地地域の地元住民と中央の意外な温度差。この構造は果たして3.11を経て、なにか変化があったのだろうか。

「何も変わっていません。直近だと山口県知事選が象徴的でしたが、北海道でも北陸でも九州でも、他の原発立地自治体でも、県のレベルでも市町村のレベルでも、原発推進・容認派候補と脱原発派候補が競って、脱原発派候補が勝った例はありません。『勝つ』どころか、『勝ち目がない』と脱原発派の候補者が一人も出ない例もある」

 議会の中に、それまで議席がなかった社民党などの脱原発候補が食い込んだ例こそあれ、3.11以前からの原発をめぐる社会構造は変わらない、と開沼さんは語る。

「WEBメディアだと、サイゾーでも、SPA!でも、週刊プレイボーイでも、去年の春から何度も同じこと言い続けています。『脱原発の社会運動、ポジティブな面もあるけど、問題もあるよね』と。自分が間違っているかもしれないと疑えないんならやめたほうがいい。『迷いながらやっている人もいます』とかいう言い訳はいらない。じゃあ、徹底的に迷い、誤りを正せばいい。それができないから何も変わらない」

■ 持続性を求めはじめた現状のデモ

一方で、開沼さんは「普通の市民の運動」「自然発生の運動」と形容される今回のデモについては、こう評価する。

「『普通の市民がきている』などと賞賛する言説がやたら流通しますが、そんなこと言って喜んでいてもしかたない。現在も運動の中には、労組や学生運動だって、当然入っています。『旗をあげるな、ハチマキ・ゼッケンつけるな』と彼らの『表現の自由の侵害』がうまくいっているから見えにくいだけ。ただ、だから悪いと言うつもりも全くない。別に、労組や学生運動が入っていようがいまいが、運動の成否に大きな影響を与えるほどの頭数ではないのが現状です。
 自然に起こってくる運動は、自然に発散していく運動でもあります。その点で、昔の社会運動の手法はバカにできたものではない。例えば、『政党』や『組合』という集合を用意することによって、社会運動は持続性をもち、より深く問題を浮き彫りにし、多様な解決策に接続していくことができた。
 もちろん、そういう固定的な組織による運動は、長い時間を経る中で、ネット上で『プロ市民』と批判されるような社会運動のネガティブな部分を作ったのは確かですが、その歴史に学ぶべきことは少なからずある。例えば、大声を上げて糾弾するのだけが、社会運動ではないということ。むしろ、権力にとしては『大声上げて糾弾しておけばいい』と信じきっておいてもらったほうが対応が楽かもしれませんが」

開沼さんは、すでに現在の運動に「旧来の社会運動」化の兆しがあることも指摘する。

「例えば、"スケジュール闘争"を始めているのは興味深いですね。"スケジュール闘争"とは、5月には沖縄、8月には広島、10月には○○、○月は三里塚......と、特に政局で何の動きがなくても、定期的にデモして集会して署名して、とスケジュールを組んでおいて問題に取り組もうとする社会運動の手法です。
 現在の首相官邸前デモが、『必ず毎週金曜日に行う』という手法をとったことは、『これ、スケジュール闘争では?』と、興味深く思います。今までの社会運動とは違うんだといいながら、運動を続けようとすると、表面的な見た目は違っても、必然的に旧来型の運動に近づいていく側面は、他にも見えるように思っています。よしあしは別にして、この傾向がどうなっていくか興味深く見ています」

課題に適切にアプローチして、解決すること。そして、多くの人の支持を得て、持続すること。社会学者として社会運動の研究も進めてきた観点から、いかに運動が社会を変えうるものになりえるのかについても目を配る。

「様々な議論はありますが、『持続を求めて運動が形骸化していった』のが、日本の戦後社会運動史でもあります。現在も、全員ではないですが、少なからぬ人が自己承認を求めて社会運動に集う状況がある。
 そう指摘すると怒っちゃう人もいますが、自己承認欲求を満たしたいなら自己承認欲求を満たしたいでいいんです。それは動員の一つの戦略になりうる。これは原発についても、『ネット右翼』関係の社会運動についても同様です。ただ、自己承認欲求を満たそうとする結果、社会運動に目的よりも共同性を求めるようになったら、つまり、『課題解決』よりも『群れあい』をはじめたら、また形骸化がはじまる。
 とりあえず、人が集まりました、じゃあどうするという現状の中で、共同性をいかに(本来の)目的に回収していくかを考えていくのが、おそらく今後も偶発的かつ断続的に様々なイシューを設定しながら発生していく『新たな形の社会運動』において、重要でしょう。
 それはある程度、ただ『群れあい』たいだけの人を振り落とす作業なのかもしれないし、逆に『課題解決』をあきらめることなのかもしれない。いかなる価値を選び取るのか、その判断は、その時々の社会運動の当事者にゆだねられます」

■ 地元の声にまず耳を傾けること

 開沼さんは、「貧しい地域がなぜ原発を必要とするのかを議論しない限り、本当の解決にはならない」と指摘する。だが、そうした議論が起きる可能性には、彼自身は悲観的だ。

「そのような観点を、都会で社会運動を煽る『知識人』の多くが持つことはいつまでたってもできないでしょうね。他人事には興味ないでしょうから」

開沼さんのもとには、「『フクシマ』論」で描いたような、推進/反対での二項対立では割り切れない現実に突き当たった上で、彼の文章や発言を目にしてコンタクトをとってくる人が後を絶たないという。

「先日は、大飯原発で働いている方から"長期的に原発はないほうがいいと思う。しかし、あんな運動をされても何の解決にもならないし、失業しろと言われているようなものだと恐怖と反発心を感じる"と、連絡が来ました。
 あるいは、関西で寝たきりの親の介護をしながら生活をしているという方から"介護の機器は電気がないと動かなくなる。自家発電とかバッテリーとかを準備するおカネもない。どこかにつれていくわけにもいかない。もし停電になったら、どうしよう、と。原発を止めよう、無くそうとするのに肯定的な話を見聞きするたびに本当に不安になった。でも、そういうことを外で言うわけにもいかなくて苦しい"という連絡も来ています。
 実際のところ、『再稼動反対』と『無邪気に』叫ぶ者はいるが、その加害性や、不幸になる人を作ることに目を向ける者は少ない。そんなのは瑣末なことだ、どうにかうまくやればいいだろうと、切り捨てる人もいるでしょうが、切り捨てても、彼らの共感は得られません。善意あるお節介の善意があるが故のやっかいさ。これは事故前からあった構造ですが......」

では、開沼さん自身は、現在の原発をめぐる動きはどうなっていくべきだと思っているのだろうか。彼に尋ねてみると、こんな回答が返ってきた。

「まずは、将来の理想を語る『べき』と、現在の状況を語る『である』を分け、『である』を明確にすることから始める必要があります。『こうである』という状況をよく知りもしないのに、『こうあるべき』ばかりに固執する中で、論理を捻じ曲げ、事態を見誤る――これは原発推進も脱原発も一緒です。空気に向かって叫んでいても、社会は何も変わりません。 知るべきこと、見るべきことはいくらでもある。その中で、まずあなた自身が変わることからはじめなければなりません」

■ 開沼博
1984年福島県いわき市生まれ。福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。著書に『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)『地方の論理 フクシマから考える日本の未来』(同、佐藤栄佐久氏との共著)『「原発避難」論 避難の実像からセカンドタウン、故郷再生まで』(明石書店、編著)など。学術誌の他、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポ・評論・書評などを執筆。第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。

◇関連サイト
・特集「どうする?原発」
http://ch.nicovideo.jp/channel/genpatsu

(中西洋介)

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