ビジネスパーソンの教養のひとつとして「哲学」に注目が集まっている。だが哲学の入門書は、どれも「死ぬほどつまらない」と言われる。なぜなのか。哲学の知識をビジネスに活用してきたコンサルタントの山口周氏は、「哲学の面白さを理解するためには、さまざまな思想を『問いの種類』と『学びの種類』の2つの軸で整理するといい」とアドバイスする――。

*本稿は、山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)の一部を抜粋・再編集したものです。

それなりに哲学に興味は持っているものの、これまでに挫折してきた経験をお持ちの方は多いと思います。まずはこの問題、つまり「なぜ哲学に挫折するのか?」、もっとはっきり言えば「なぜ哲学はツマラナイのか?」という問題について、明確にその理由を示します。というのも、この点を構造的にクリアにしておかないと、結局はまた同じ挫折を繰り返すことになると思うからです。

■歴史上の全ての哲学者の論考を、二軸で整理する

まず、歴史上の全ての哲学者の論考を、次の二つの軸に沿って整理します。

1.問いの種類 「What」と「How」
2.学びの種類 「プロセス」と「アウトプット」

まずは最初の軸である「問いの種類」について考えてみましょう。

哲学は古代ギリシアの時代に始まり、以来様々な哲学者が様々な思考を展開したわけですが、それら全ての歴史上の哲学は、次の二つの問いに対してなんとか答えを出そうとした取り組みとして整理できます。

1.世界はどのように成り立っているのか?=Whatの問い
2.私たちはどのように生きるべきなのか?=Howの問い

例えば「モノは何から成り立っているのか」という問題に取り組んだ古代ギリシアのデモクリトスは、典型的に「Whatの問い」に取り組んだ哲学者ということになりますし、キリスト教道徳の超克を念頭において「近代人はどのように生きるべきか」という問題に向き合い、「超人」という概念を提唱したニーチェは、典型的に「Howの問い」に取り組んだ人として整理することができます。

■なぜ多くの人は哲学に挫折するのか

さて、ここからは「なぜ哲学に挫折するのか?」という問題について考えてみましょう。先述した通り、哲学者が取り組んできた「問いの種類」には、「Whatの問い」と「Howの問い」の二つがあるわけですが、過去の哲学者が「Whatの問い」に対して出した答えの多くは、現代の私たちからすると、「間違っている」か「正しいけど陳腐」なものが多いのです。

特に、古代ギリシアの哲学者たちが「Whatの問い」に対して出した解答は、自然科学によって現在はほぼ全て否定されています。例えば、古代ギリシアの哲学者たちは、全てのものは「火」「水」「土」「空気」という四つの元素から成り立っていると考えていましたが、この主張は、元素というものの存在を知っている現在の私たちにとっては単に誤った主張でしかありません。

一方で、初学者向けの哲学の教科書は通常、年代順に編纂されており、たいがいは古代ギリシアからスタートしています。ここに、初学者が挫折してしまう大きな要因があると、筆者は思っています。

勢い込んで哲学の入門書を開いてみたものの、最初の50ページに出てくるのは、現在の私たちからすると非常に幼稚に見える、あるいは完全に間違っているものばかりなわけです。これでは「こんなことを学んで一体何の意味があるのか?」と感じてしまうのも仕方がありません。

これが、哲学に挫折する大きな要因の一つ目です。

■アウトプットはダメでもプロセスが面白い

さて、では古代ギリシアの哲学者の論考から、私たちが学べるものはないのでしょうか? いえ、そんなことはありません。ここで登場してくるのが、先ほど紹介した、哲学者の論考を整理する軸の二つ目、すなわち「学びの種類」という軸です。

古代ギリシアの哲学者の多くが「世界はどのように成り立っているのか?」という「Whatの問い」に向き合った、という点についてはすでに説明しました。

さて、この「Whatの問い」に向き合った彼らから、一体何が学べるのか? ここで「学びの種類」という軸について考えてみましょう。繰り返せば、哲学者の考察から私たちが得られる学びには次の二つの種類があります。

・プロセスからの学び
・アウトプットからの学び

プロセスとは、その哲学者がどのようにして考え、最終的な結論に至ったかという思考のプロセスや問題の立て方を意味しています。一方で、アウトプットとは、その哲学者が論考の末に最終的に提案した回答や主張を意味します。

この枠組みで考えてみれば、古代ギリシアの哲学者たちが至った結論である「世界は四つの元素から成り立っている」という指摘は、アウトプットということになるわけですが、ではこのアウトプットから現在の私たちが何かを学べるかというと、もちろん何もありません。せいぜい、頭の良かった古代ギリシアの哲学者たちも、こんな世迷いごとをほざいていたんだな、というくらいの学びしかないでしょう。

しかしでは一方で、彼らがどのようにして世界を観察し、考えたかというプロセスについては、その限りではありません。そこには現在を生きる私たちにとっても大きな刺激となる、みずみずしい学びがあります。

■現代人にも刺激的な「学び」が見つかる

例えばソクラテス登場以前の古代ギリシア、時代としては紀元前6世紀ごろ、アナクシマンドロスという哲学者がいました。そのアナクシマンドロスがある日、ふとしたきっかけから当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説に疑問を持つようになります。その理由は実にシンプルで「もし大地が水によって支えられているのであれば、その水は何かによって支えられている必要がある」ということなんですね。なるほど、確かにその通りです。

そしてアナクシマンドロスはさらに考えを推し進めます。つまり水を支えている「何か」がなければならない、と考えると、その「何か」もまた別の「何か」に支えられている必要がある、ということです。アナクシマンドロスはこのように考えた結果、「何かを支える何かを想定すれば無限に続くことになるが、無限にあるものなどありえない……。そうなると最終的に地球は何物にも支えられていない、つまり宙に浮いていると考えるしかない」と推論したわけです。

アナクシマンドロスが最終的に出した「大地は何物にも支えられていない、宙に浮いている」という結論は、現在の私たちにとって陳腐以外の何物でもない。つまり、先ほどの枠組みで言えば「アウトプットからの学び」はないということになります。

一方で、アナクシマンドロスが示した知的態度や思考のプロセス、つまり当時支配的だった「大地は水によって支えられている」という定説を鵜呑(うの)みにせず、「大地が水によって支えられているのだとすれば、その水は何によって支えられているのだろう」という論点を立て、粘り強く思考を掘っていくような態度とプロセスは、現在の私たちにとっても大いに刺激になります。

まとめればこういうことになります。つまり、アナクシマンドロスが残した論考について、現在を生きる私たちにとっての学びを考えると、それは「プロセスからの学び」であって、最終的な結論としての「アウトプットからの学び」は、刺身のツマのようなもので、学びの「ミソ」はそこにはないということです。

■どうやってその結論に至ったのか

このアナクシマンドロスのようなケース、すなわち「プロセスからの学びは大きいけれども、アウトプットからの学びは貧弱」という哲学者はたくさんいて、例えばデカルトもその典型例と言っていいと思います。

デカルトが「我(われ)思う、ゆえに我あり」という言葉を残したことは非常によく知られていますね。これはつまり「どんなに確からしさを疑ったところで、今ここに思考している自分自身の精神があるということだけは、否定できない」という意味ですが、現代社会で普通に市民生活を送っている私たちが唐突にこんなことを言われても、ほとんどの人は「ええ、まあそれはそうでしょうね」といった反応をするしかないでしょう。これは要するに、デカルトの考察もまた「アウトプットからの学び」ということについては、それほど豊かなものは得られない、ということです。

しかし、「プロセスからの学び」ということについては、アナクシマンドロスと同様にその限りではない。つまり、そこには豊かな学びがあるわけです。評論の神様と言われた小林秀雄は、デカルトの『方法序説』について「これはデカルトの自伝である」と言い切っています。自伝、つまり「私はこのようにして疑い、考えてきた」という、「考察の歴史」を記したものだ、と言うんですね。これは本当にシャープな指摘で、私たちは、デカルトがどのように悩み、考えながら、最終的に「我思う、ゆえに我あり」という結論に至ったかを知ることで、初めてデカルトの「哲学」を学ぶことになるわけです。

■定番教科書はアウトプットにしか触れない

しかし、ではその考察の過程を初学者向けの教科書が紹介しているかというと、全くそうではない。程度の問題はあるにせよ、ほとんどの定番教科書は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」という、有名なアウトプットを紹介し、ごく簡単にこのアウトプットがいかにすごいかということについて書いているのですが、厳しい言い方をすれば、これは一種のウチワ受けでしかありません。

ここにも初学者がつまずいてしまう大きな要因があります。高名な哲学の先生から、「ここは非常に重要」と言われても、その重要さがさっぱりわからないということになると、これはどうしても「自分には向いていないな」ということになってしまう。学問を続けるのに絶対に必要な「知的興味」が喚起できないんですね。

■「学ぶ意味」を実感するために

整理すれば、つまり「初学者が哲学に挫折する理由」は、

哲学者の残したアウトプットを短兵急に学ぼうとするものの、アウトプットがあまりにも陳腐であったり誤っていたりするために「学ぶ意味」を実感できないから

ということになります。

上記の轍(てつ)を踏まないためには、短兵急にアウトプットだけを知りたい、教えたいという気持ちを抑え、むしろそのアウトプットを主張するに至った思考のプロセスや、問題に向き合う態度を知る/教えることが重要だ、ということになります。哲学の面白さ、現在を生きる私たちが哲学を学ぶ意味は、まさにその部分にあるからです。

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山口 周(やまぐち・しゅう)
コーン・フェリー・ヘイグループ/シニア・クライアント・パートナー。
1970年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科美学美術史学専攻修士課程修了。電通、ボストン・コンサルティング・グループなどを経て現職。一橋大学経営管理研究科非常勤講師。専門はイノベーション、組織開発、人材・リーダーシップ育成。『外資系コンサルが教える 読書を仕事につなげる技術』(KADOKAWA)、『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?─経営における「アート」と「サイエンス」』(光文社新書)、『知的戦闘力を高める 独学の技法』(ダイヤモンド社)など、著書多数。

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哲学の教科書を最後まで読み通せないのには理由があった(写真はイメージです。写真=iStock.com/thegreekphotoholic)