大きな箱を乗せた自転車に乗り、街角に現れる紙芝居屋といえば、昭和の懐かしい風景のひとつ。とはいえ紙芝居屋の最盛期は昭和初期から30年頃まで。同じ昭和でも40年代以降に生まれた人にとってはなじみが薄いものです。ましてや平成生まれとなると存在自体知らなくても不思議ではありません。

しかし紙芝居屋に触れたことがない世代であっても、間接的に紙芝居の影響を受けている可能性は高いでしょう。紙芝居屋は日本の漫画やアニメ、さらに演劇にも、少なからぬ影響を与えていたからです。

後に漫画界の大御所となる水木しげるや白土三平は、若き日に紙芝居の制作に携わっていました。劇作家の寺山修司や唐十郎は、幼い頃に触れた紙芝居屋に楽しさだけでなく、どこか怪しさや人生の悲哀を感じていことを書き記しています。

街角のエンターテイナーであり、時に世間の裏側をのぞかせてくれた紙芝居屋のおじさんたち。彼らはいったい何者だったのか。その正体にはいくつもの側面があり、一言では表せません。

そこで今回は「紙芝居屋は芸を売らず○○を売っていた」という意外な事実から、紙芝居屋の正体に迫っていきます。

娯楽の王様だった街頭紙芝居

日本で生まれ育った人なら、一度は紙芝居を見たことがあるでしょう。この紙芝居、大きく分けて「教育紙芝居」と「街頭紙芝居」の2つに分類されます。「教育紙芝居」は主に道徳教育を目的とした紙芝居です。おなじみの昔話なども、よく語られますね。幼稚園や図書館などで、先生やボランティアが語り手になって披露されています。

一方、かつて横丁や空き地などで紙芝居屋のおじさんが披露していたのが「街頭紙芝居」。昭和初期に第1次ブームが起こり、太平洋戦争後の昭和20年代に第2次ブームが起こりました。戦前生まれから団塊の世代の人々にとって、子ども時代の思い出と切り離せないものです。

代表作は『黄金バット』『少年タイガー』『ゴールデンマスク』『猫娘』『墓場奇太郎(ハカバキタロー)』など。

教育より娯楽性を重視した作品がほとんどです。物語には残酷な描写があったり、ほんのりお色気があったりと、子ども向けとしては少々刺激の強い要素も含まれていました。そのため「俗悪」のレッテルを貼られ、子どもに悪影響を及ぼすと非難されたこともありました。しかし、それで人気は衰えることはありませんでした。

午後になり小学生が下校する頃、どこからともなく現れる自転車。荷台には引き出し付きの大きな箱、その上に紙芝居をはめる枠。箱は舞台代わりでした。拍子木や太鼓の音が響いたら、紙芝居が始まる合図です。子ども達は喜び勇んで駆けつけました。

テレビもインターネットもなく、漫画も発展途上だった時代、子どもにとって紙芝居は娯楽の王様だったのです。

紙芝居屋の収入源は? そして正体は…

そんな紙芝居屋が、何で利益を得ていたのか知っていますか。街頭紙芝居はボランティアではなく、れっきとした商売でした。昭和の前半、全国津々浦々に紙芝居屋が現れたのは、商売として成り立っていたからです。

利益と聞いて、多くの人が真っ先に思いつくのは「見物料」でしょう。「子どもたちは見物料を支払って紙芝居を見ていた」と考えるのは自然といえます。しかし子ども達は、映画のようにチケットを買って見たわけではありません。買ったのは「飴」でした。

子どもから小銭を受け取ったおじさんは、箱から取り出した水飴などを渡します。これで商売成立。飴を買ってくれた子どもにのみ、紙芝居を見る権利が与えられるというシステムなのです。あくまでも売り物は飴で、紙芝居は人寄せの道具、オマケという立ち位置でした。

つまり紙芝居屋の正体は「飴屋」だったのです。本来的には大道芸人ではなく、行商人であり露天商でした。芸は人を寄せるためのもので、目的は品物を買ってもらうこと。バナナのたたき売りやガマの油売りの仲間といえます。

売られるものは最初は棒飴でしたが、次第に水飴など種類が増え、さらにソースせんべいなど他の駄菓子も加わりました。さながら「移動する駄菓子屋」だったため、町の駄菓子屋にライバル視された時代もあったそうです。

このように路上でパフォーマンスし品物を売る商売人は、江戸時代から存在しました。
なかでも飴売りは派手だったといいます。奇抜な衣装を身につけて街頭を歩き、楽器を奏でたり歌を歌ったりしながら飴を売りました。

そのスタイルは実に多種多様でした。代表的なものはチャルメラを吹く「唐人飴売り」、落語の題材になった「孝行糖売り」。その他、江戸時代なら「念仏飴売り」「奥州人土平」、からくり人形を操った「鎌倉節飴売り」などなど。
根岸鎮衛の随筆『耳袋』などの書物にも飴売りの様子が記録され、鈴木其一をはじめ画家たちもその姿を描きました。

鈴木其一『飴売り図』(唐人飴売り)

文明開化後も飴売りの姿は見られ、写真も残されています。提灯や旗を刺した大きなたらいを頭に乗せ、太鼓をたたきながら歩いた「よかよか飴売り」は、インパクト大です。
こうした飴売りは江戸時代から明治時代にかけて全国に広まり、昭和の前半まで各地で見られました。主に子どもの人気を集めたようです。

紙芝居屋は、そんな路上の飴売りの末裔といえる存在でした。

子どもは紙芝居屋をどう見ていたのか

飴を売ることが商売だったと聞いて、意外に思われた方も多いと思います。
では、子どもの頃に実際に紙芝居を見ていた人々は、紙芝居屋をどうとらえていたのでしょう。

現在70歳代の、昭和20年代の第2次紙芝居ブームを体験した人に話を聞いたところ、「紙芝居屋=飴屋」という認識はありませんでした。話をまとめると「太鼓の音が聞こえたら、とにかく駆けていった。そういや、おじちゃんは飴をくれたなぁ」という、おぼろげな記憶だけが残っているそうです。
その他の証言を読んでも、個人差はありますが、当時の子供たちの間で「紙芝居屋=飴屋」という認識は薄かったようでした。

「あれ、話が違うぞ」と思われるかもしれません。しかし戦前~戦後に紙芝居制作に関わった人々の証言によれば、「飴を買った子どもに紙芝居を見せる」というシステムだったこと自体は間違いありません。あくまでも「飴の売り上げ」が収入源だったのです。

多くの子どもの認識が「紙芝居を見たいからお金を払う。そしたら飴をくれる。飴をなめながら紙芝居を見る」となったのは、ビックリマンチョコや仮面ライダースナックと同じ仕組みと考えられます。オマケである紙芝居が主役になり、お菓子のほうがオマケになってしまった。そんなパターンの元祖かもしれません。
そうはいっても、飴と紙芝居は切っても切れぬ関係でした。甘い飴をなめながら紙芝居を見る時間は、子どもにとって至福の時だったのです。

甘いお菓子と奇想天外な物語。ドキドキを与えてくれる紙芝居屋は、紛れもなく子どもたちのヒーローでした。

参考文献

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