▼〈憲法9条について「ディベート」するエロゲーをご存じだろうか〉5月7日、現代ビジネス(筆者=倉橋耕平)

 右派と左派、リベラルと保守、改革勢力と既得権益など、なんでもいいのだが、政治や社会をめぐる動きを2つの陣営に分け、対立の構図を強調しつつ、両論併記するような報道や言説に、昔から違和感を持っていた。複雑で多様で、濃淡もあれば入り組んでもいる思想や事象を、なぜ大雑把に括り、塗り潰すのかと。

 地方紙の駆け出し記者だった1990年代前半に「政権交代可能な二大政党制」を目指す新党ブームがあり、その流れで小選挙区制が導入された。政治取材を担当していた2000年頃には「自民党をぶっ壊す」小泉劇場が始まり、抵抗勢力を駆逐していった。フリーになるとまもなく橋下現象が大阪を席巻し、「都構想」をめぐって住民が分断された。マスメディアが煽った空疎な熱狂の内実を検証して本にまとめたが、禍根は残り、都構想は今もくすぶり続けている。

 その本では、橋下徹氏の言論術の根っこは90年代のメディア、主にテレビの言葉にあるのではないかと書いた。彼と同い年である私の頭には「激論」や「徹底討論」と称する、いわゆるディベート番組があった。あれは、相手に耳を傾け、情理を尽くす対話や説得ではなく、議論ですらなかった。声の大きさと攻撃性、その場限りの「正しさ」で勝敗を競うゲームに過ぎない。そう考えてきた。

ディベートは「論破」に主眼を置く

 あの時代を丁寧に解きほぐし、今に続く違和感の正体を教えてくれたのが、気鋭の社会学者が書いたこの論考である。

 タイトルにある「エロゲー」とは、PC用のアダルトゲームのことだが、驚くべきは、その内容。改憲派と護憲派の女子生徒が登場し、憲法9条についてディベートするのだという。中立派のプレイヤーを引き込むため、あの手この手で攻防を展開するらしいが、詳細は措く。

 筆者の倉橋耕平氏は、日本で90年代にディベートが広まった経緯を解説したうえで、憲法改正という論題にその方法がふさわしいのか、思考法に問題があるのではないかと指摘してゆく。

 まず、ディベートは「論破」に主眼を置くため、アドホック(場当たり的)な説得性が重視される。歴史的背景、多様な見解、数多の研究成果などは無視され、過去の発言との一貫性も問われない。先のゲームのキャラが「正解なんてない。あるのは、どっちの方が正しく聞こえるか」と語るのは象徴的だ。

二項対立には、考え方が2つしかない

 次に、二項対立の図式ゆえ、本来なら検討に値しない俗説や事実に反する主張も議論の俎上に載せられる。いわば、下駄を履かせてしまうわけだ。これは私も心当たりがある。先の本の取材に、あるテレビ制作者は語った。「暴論や極論であっても、一つの意見には違いない。誰かの発言が問題だと思うなら論破すればいい」。彼は後に、フェイクニュースと批判される番組に関わるようになった。

 二項対立には、考え方が2つしかない。先のゲームで言えば、「改憲はしてもよいが、今は必要ない」「争点は9条じゃない」といった柔軟な意見はあらかじめ捨象されている、と倉橋氏は言う。私の違和感の源は、おそらくここにある。

 つまり、多様な意見を2つの陣営に押し込めることで、議論が貧しくなり、分断は深まる。党派性に縛られ、相手を攻撃するあまり、事実や論理や客観性が軽視されてしまう。国会や官庁で明らかなウソや隠蔽、詭弁や言い逃れが横行するのも、フェイクニュースの蔓延も、一つの原因は、四半世紀前に撒かれた「論破ゲーム」の毒じゃないのか――。

 だとすれば、乱暴に括られ、塗り潰されたものを腑分けし、「個」の物語を拾い上げるのが、自分のようなノンフィクションライターの仕事だと思っている。

(松本 創)

「大阪都構想」は住民投票で反対多数に。政界引退を発表する橋下氏 ©文藝春秋