人間は、合理的な思考と直感的な思考の両方を併せ持っている生き物だ。とはいえ、そうした人間の複雑な心の有様を生み出している脳は、実のところ単体ではあまり効率よく機能しないものであるらしい。では、人間はいかにして自身の脳をうまく働かせて、成果を残し、社会を築き上げてきたのだろうか――。

■ヒトは生まれながらのサイボーグ

「人間は生まれながらのサイボーグなのだ」とびっくりするようなことを言う哲学者がいる。エディンバラ大学教授のアンディ・クラークだ。

いや、将来はわからないけれど、いまは別に電子機器を体に埋め込んでいるわけじゃないし、自分がサイボーグとは思えないんですが……というのが、一般的な感想じゃないだろうか。

人間が生まれながらのサイボーグであるとは、いったいどういうことか。種を明かせば、それほど難しい話じゃない。

たとえば仕事の計画ひとつをとっても、私たちは手帳やカレンダー、エクセルなど、道具や機器の助けを借りなければ、適切に立案することはできない。3つ、4つの仕事の段取りを頭の中だけで処理しようとしたら、あっという間にこんがらがってしまう。

「738×356」のような計算も、常人では頭のなかだけで実行するのは無理だ。紙とエンピツがあってはじめて、筆算をして答えを導くことができる。

■道具・人工物なしではまともに思考できない

クラークは、『Supersizing the Mind』(未邦訳)のなかで、ノーベル賞を受賞した物理学者ファインマンのユニークなエピソードを取り上げている。

ある歴史学者が、ファインマンが使っているノートやスケッチの束を見て、「これらが、あなたの日々の仕事の記録なんですね」と言葉をかけた。それに対して、ファインマンは「いや、紙の束は記録ではなく、実際にそれが仕事をしているんです」と答えたそうだ。

私たちが何か複雑なことを考えるためには、何らかの道具や人工物の助けが必要だ。逆に言えば、道具がなければ、私たちの脳は相当なポンコツなのである。クラークも次のように述べている。

<人間の脳が得意としているのは、信じられないほど多様な非生物的補助具、足場、道具、リソースがひしめく問題解決フィールド内の一チームプレイヤーになることである>(『生まれながらのサイボーグ』)

つまり私たちは、さまざまな人工物と一緒に物事を考えている。考えることに関して、私たちは人工物(数字や言語、種々の記号も人工物だ)とほぼ一体化している。これが「人間は生まれながらのサイボーグである」ということだ。

■「心」は周囲の環境に開かれている

人間は、何かしらの道具や人工物がないと思考ができない生き物である──そうした観点から、私たちは「心」についての見方も大きく変える必要があるとクラークはいう。これまで、とりわけ西洋では「心を、自然界のその他の部分からきっぱり区別されるほどに、根本的な点で特別なものと見なす傾向」が強かった。

しかし人間の心は、生まれながらのサイボーグとして、自然や人工物、周囲の環境に開かれている。だったら、心を環境から切り離された閉じたものと見るのではなく、周囲にも拡がったものと考えたほうがいい。こうした心の見方をクラークは「拡張された心」と呼んでいる。

それでは、クラークの提唱する「拡張された心」というアイデアを、前回紹介した「二重過程理論」にあてはめると、どのような示唆が得られるだろうか。

■脳は論理学が苦手でフリスビーが得意

二重過程理論とは、ヒトの心には、直感的な「速いこころ」と、理性的な「遅いこころ」という二種類の情報処理システムが重なって存在している、という考え方のことだ。

合理的な判断や論理的思考を担う「遅いこころ」は、「速いこころ」に比べて、立ち上がりも処理速度も遅い。クラークに言わせると「脳は論理学が苦手でフリスビーが得意である」らしい。

先述したように、私たちは、複雑な論理や計画立案を頭のなかだけで処理することはできない。脳単独の働きとしては、理屈(=論理学)よりも直観的な判断や行動(=フリスビー)のほうが得意なのだ。

だが人間は、ノロマな理性の働きを、周囲の環境に拡散させる能力を持っている。紙とエンピツがあれば複雑な計算ができるし、手帳があれば半年先の予定も立てることができる。クラークは別の著書で次のように述べている。

<われわれの知能は、環境を構造化するために使われており、そうすることで、より少ない知能で成功を収められるようになる。われわれの脳は世界を賢くし、そうすることで、われわれは馬鹿でいられる! あるいは別の見方をとるならば、人間の脳プラスこうしたたくさんの外部の足場作りこそが、ついには賢くて合理的な推論エンジンを構成するのであり、それを心と呼んでいる>(アンディ・クラーク『現れる存在――脳と身体と世界の再統合』NTT出版)

■ノロマな理性が発達できた理由

ノロマな亀である理性は、周囲のさまざまな事物や制度を活用しながら、合理的な思考を発達させてきた。パソコンやスマホ、手帳、筆記用具といった目に見えるモノばかりでなく、法制度や市場システム、企業のなかのルールなどもまた、「拡張された心」の一部なのだ。

とはいえ、このことは理性が万能だということを意味しない。心が環境にまではみ出しているとすれば、環境次第では、理性が逆に働きづらくなることも当然ありえる。

たとえば、あまりに騒々しい部屋では物事をじっくり考えることはできないし、この連載でも繰り返し触れてきたように、場の空気が支配する集団では道理はひっこんでしまう。最近、世間をにぎわせている日大アメフト部の問題は、その典型だろう。哲学者ジョセフ・ヒースがいうように「環境によっては当然、効果的な問題解決に資するものもあれば、そうでないものもある」のだ。

だとすると私たちは、「閉じられた心」という先入観から離れて、現代の社会環境までひっくるめて、「拡張された心」のゆくえを考えていかなければならない。はたして私たちが暮らしている現代社会は、理性が働きやすいのか。それとも理性を衰退させるような環境を生み出してしまっているのか。次回は、この問題について考えることにしよう。

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