今年度30歳を迎える黄金時代にそのルーツを聞いていく本コラム。第3回は、ボートレーサーの中田竜太。一流のレーサーでありながら、その感覚はどこか今どきの普通の若者をほうふつとさせる
今年度30歳を迎える黄金時代にそのルーツを聞いていく本コラム。第3回は、ボートレーサー中田太。一流のレーサーでありながら、その感覚はどこか今どきの普通の若者をほうふつとさせる

公営競技で戦う選手は、試合期間中は外部との接触が一切断たれる。選手宿舎には、携帯電話はもちろん通信機を備えた機器の持ち込みも厳禁だ。

「最近はゲーム機音楽プレイヤーネットついてるじゃないですか? なので、試合期間中の娯楽といえば雑誌です。試合前に買い込んで選手のみんなで回し読みしたりするんですよ。、『週刊プレイボーイ』いつも買ってます」

今年度に30歳を迎える"世代"の半生と共に平成をふり返る連載企画さらば平成!』。第3回のゲストである、気鋭のボートレーサー中田(なかだ)(A1級)が『週プレ』をめくっている。

「あ、これ好きなんですよね。毎週読んでます」

爽やか笑顔さしたページは、グラビアスポーツワイドではなく、OL恋愛体験コラム。とらえどころのない男だ、という印インタビュー前の雑談から始まっていた。

* * *

まだ息子が小さいので、妻とのやりとりは苦労しますね。冷蔵庫にメモ貼ったりとか、アナログな方法が意外と役に立つんです」――2歳の息子を抱える中田はそう言って鮮やかな金髪をなでた。彼の妻、亜理沙夫人も競艇選手として日々全を転戦している。

輪の歴史は浅い。南船北(なんせんほくば)という言葉が示すとおり、歴史の大部分において人の手による移動機関とはすなわち「船」。神話の時代より、人類はオールを漕ぎ帆にを受け地球上を駆け巡った。アメリカ大陸南極、そして。われわれの祖先は船と共に未踏の地を切り開いてきた。

決してメジャー競技とはいえないボートレースだが、水上を飛ぶように疾駆するスピード感、一で順位が入れ替わる鋭いターンはひとで観客の心を鷲(わし)づかみにする。人の遺伝子には皆、船を駆り海原へ漕ぎ出した太古の記憶が刻まれているに違いない。

「いや、どうでしょうかね。正直、小さい頃はそこまでボートレーサーになりたいとは思ってなかったんです。競艇見て『カッコいいなあ』とは思ってましたけど、(地元の)福島には競艇もなかったですし」

まあ子供の感想ってそんなもんですよね、と言いながらライフグラフを淡々と書き入れていく中田。気勢を削がれた筆者は、穏やかな面のように凪(な)いだグラフに視線を落とした。ペンを握った右手はほとんど行に保たれていた。

中田に書いてもらったものを元に作成した「ライフグラフ」。縦軸は気分(上に行くほど調子がいい)、横軸は年齢
中田に書いてもらったものを元に作成した「ライフグラフ」。縦軸は気分(上に行くほど調子がいい)、横軸は年齢

2009年デビュー17年「まるがめ65周年記念大会」でのG1制覇を皮切りに、「(がまごおり)ヤングダービー」、今年の「戸田プリムローズ」とG1で優勝3度を誇る若き逸材が中田太だ。甘いマスク女性ファンも多く、ボートレース界きっての期待のとして注されている。オートレーサーとして活躍したの血を引く中田だが、才覚醒は存外遅かった。

「幼少期はオートレースに魅を感じることもなかったですね。オートに限らず、熱中する趣味もありませんでした。それほど運動が得意なわけでもなかったんですが、体が小さく痩(や)せていたので『競艇向きの体形なんじゃない?』って親に言われ、なんとなく『じゃあ、ボートレーサーにでもなろうかな』って思っていたぐらいで」

昔からすごく飽きっぽくて。勝負事で負けてもあまり悔しがらない...そんな子供でしたね」。訥々(とつとつ)と中田は言葉を継いだ。彼のプロフィールの多くは「趣味:なし」「特技:なし」と記されている。われわれ一般人が思い描く、バイリティあふれたアスリート像から程遠い印は、言葉を交わすにつれ強くなっていく一方だった。

「だってゆとり世代ですからね」

そう言ってはにかむ中田だが、そんな"世代分け"がレッテルにすぎないことぐらい知っている。何より、競艇選手になるためには養成所「やまと学校(現・ボートレーサー養成所)」入学試験に合格しなければならず、倍率は30という狭き門だ。「競艇向きの体だから」という理由だけで受かるほど甘くはない。

「確かに全然甘くなかった。初めて受けたときは高校生のときだったんですが、見事に落ちました。『やまと』の入学試験は半年に一度なんですが、毎回特に準備もせず、ただ試験の日が来たら受ける...の繰り返し。当然落ち続けましたよね」

中田は初受験から4回続けて不合格となっているが、倍率の高さ、そして当時の彼のモチベーションを想像するに当然の結果といっていいだろう。

「...ただ、5回のときは違いました。このときは真剣に臨んだんです」

ターンの鋭さがレースのカギを握るといってもいい競艇。その激しさゆえに事故が起きることも多い。危険と隣り合わせの競技なのだ
ターンの鋭さがレースカギを握るといってもいい競艇。そのしさゆえに事故が起きることも多い。危険と隣り合わせの競技なのだ

いよいよターニングポイントか、と前のめりになった筆者をかわすように、「いやあ、やまとに入れなかったので高校卒業して就職したんですけど、いざ働きだしたら『違うなー』と思って。社員もみんないい人だったんですけど、なんとなく『いるべきところはここじゃないな』と。そこでようやく真剣にボートレーサーし始めたって感じですね」と中田は苦笑しつつ頭をかいた。消極的選択ではあったが、中田が初めてボートに本を入れた間だった。

素顔は『週プレ』も愛読してくれている好青年である
素顔は『週プレ』も読してくれている好青年である

同級生ケータイ小説に夢中になり、プロゴルファー石川の異名"ハニカミ王子"が新語・流行語大賞に選ばれた2007年中田は5回の挑戦でやまと学校への入学を勝ち取る。合格の報せを聞いたときは、さすがに「すごくうれしかった」という中田だが、次の日からは特に感慨もない"常運転"の日々に戻る。

「(やまと学校では)6時に起きて、ご飯食べたらあとはずっとボートに乗って、整備の勉強して。その繰り返しがけっこうキツかったな。柳川学校がある福岡県柳川市)ってね、周りはばかりで本当に何もないんですよ」

有明海に面したやまと学校の徒歩圏内には、娯楽施設はおろかコンビニの一軒すらない。ずるずると下降するライフグラフを見る限り、養成所での1年間はそうとう"こたえた"期間だったようだ。

「もちろんだって、入学するまでは『すごいボートレーサーになりたい』って思っていました。でもやまとでしんどい日々を過ごすうち、いつの間にかただただ『卒業』が標になっちゃってたんですよね」

遠くを見つめる中田。厳しい試験を勝ち抜いたエリートが集(つど)う養成所であっても、プロす以上そこは単なる通過点でしかなく、最終標では決してない。養成所の"その先"ではなく、卒業ゴールに見据えた若者が厳しいボートレース世界に放り出されたらどうなるか。

「そう、卒業した時点で全に燃え尽きちゃった(笑)。最初は養成所に入学することが標で、次は卒業標で...そして卒業してデビューしたら、もう手が届く範囲に標がなかった。6等(最下位)になっても何も感じない、デビュー後はずっとそんな調子で戦ってました」

2009年21歳でデビューを飾った中田だったが、"そんな調子"は一向に終わる気配を見せない。5年の14年、そんな彼にとどめを刺すレースがあった。愛知・常滑(とこなめ)競艇場で開催されたSGスーパーグレード)。競艇最高峰のレースに初出場したときのことだった。

「(レースでは)まったく何もできませんでしたね。今まで成績が悪くてもなんにも思わなかったんですが、さすがに以前の感覚が戻ってきたというか」

以前の感覚とは?

「『思ってたのと違うな』ってやつ。学生時代、部活も趣味バイトも長続きしなかったときの感じですね。SGを終えてみて、特につらくもないし、へこんだわけでもないんですが...『もう、いいかな』って思っちゃいましたね」

26歳といえば多くのアスリートが頭を現す年齢であり、競技によっては円熟期に入っていてもおかしくはない。しかし50代の現役選手も存在する競艇においては少々事情が異なる。経験と熟年の勘がモノをいうボートレースにおいて、26歳などひよっこも同然。膚(かんぷ)なきまでに叩きめされた中田は、ある人物との出会いによってようやくその才覚醒することになる。

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中田太の今に続く快進撃を振り返る後編は、明日7月12日)に配信予定です。

中田なかだ・りゅうた

1988年4月10日生まれ、福島県出身。身長166cm、体重49kg。2009年デビュー、13年9月戸田タイトル戦で初優勝。現在クラスは「A1」。18年、「G1戸田プリムローズ」を制し通算3度G1制覇を達成。

今年度30歳を迎える黄金世代にいるボートレーサー・中田竜太