上下に兄弟姉妹がいる中間子は、独立心旺盛かつ人付き合いのエキスパートで、一流企業の創業者や政治家に多いと言われます。ソフトバンクの孫正義社長や、ユニクロの柳井正会長兼社長、政治家では田中角栄、小泉純一郎、現首相の安倍晋三も中間子です。この傾向は、自動車メーカー創業者にも当てはまるのでしょうか。調べてみました。

トヨタ自動車創業者、豊田喜一郎の場合
豊田喜一郎

トヨタ自動車の創業者は、豊田紡織(現トヨタ紡織)、豊田紡織廠、豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)を創業した豊田佐吉の長男、喜一郎です。

喜一郎は、佐吉の最初の妻たみとの間に生まれました。その後、家計を顧みず発明に没頭する佐吉に愛想を尽かした妻は、家出。結婚期間は3年で終わり、喜一郎に姉弟はありません。

しかし喜一郎には異母妹がおり、その旦那さんが豊田自動織機の経営を任せられる利三郎です。喜一郎が東京帝国大学を卒業し豊田紡織に入社した後、利三郎夫妻とサンフランシスコやロンドンへ海外視察に訪れるなど、良好な関係であったことを考慮すれば、仲の良い兄弟だったと思われます。

本田技研工業創業者、本田宗一郎の場合
本田宗一郎

本田技研工業の創業者は、かの有名な本田宗一郎です。高等小学校を卒業後、現在の東京都文京区湯島にあった自動車修理工場のアート商会に入社。6年間の勤務を経た1928年、暖簾分けを許され浜松市に支店を設立。1946年に本田技研研究所、1948年に本田技研工業を設立します。

そんな本田宗一郎は長男で、弟がいました。名前を弁二郎といい、後に系列会社の「本田金属技術」を設立します。一緒にレースに出場するなど、兄弟仲は良好だったようです。

日産自動車創業者、鮎川義介の場合
ダットサン 12型フェートン (1933年)

日産自動車の創業者は鮎川義介と言い、実業家を経て政治家になった人物です。彼の人生には歴史上の政治家が多数、登場します。

まず、母親が明治政府の重要閣僚を歴任した井上馨の姪です。井上馨は鮎川義介の大叔父に当たります。姻族には岸信介や佐藤栄作がおり、鮎川家と安倍晋三内閣総理大臣は遠い親戚に当たります。

鮎川義介は日産自動車だけでなく、現在の日立金属となる戸畑鋳物を設立したり、帝国石油の社長に就任するなど、実業家としての活躍も華々しいものです。さらに政治方面でも、戦前の東條英機内閣の内閣顧問、戦後は参議院議員に2度当選するなど活発なものでした。

そんな鮎川義介には、姉1人と妹2人がいました。つまり、中間子ということになりますね。

マツダ創業者、松田重次郎の場合
松田重次郎

マツダの事実上の創業者は、松田重次郎です。1920年に東洋コルク工業株式会社の社長に就任し、業績を伸ばします。1927年に車名を東洋工業株式会社に改名。

1931年にオート三輪に進出し、ブランド名を自身の名字とゾロアスター教の最高神、アフラ・マズダから”mazda”と命名し、市場で定着していきます。ちなみに社名が東洋工業株式会社からマツダ株式会社に変更されたのは、1984年のことでした。

松田重次郎は長男で、妹がいました。広島市内に居を構えていた重次郎には2人の息子がおり、長男が東洋工業2代目社長となる恒次、次男はマツダディーラーの社長であった宗彌です。宗彌は原爆で被爆して命を落とします。

奇しくも重次郎70歳の誕生日のことです。この報告を妹の夫に手紙で報告した記録が『松田恒次追想録』に残されています。

三菱自動車創業者、岩崎弥太郎の場合

三菱自動車の原点は、三菱造船(現三菱重工)が1917年(大正6年)に乗用車「三菱 A型」を製作したことに始まります。三菱重工の自動車部門が三菱自動車として分社化したのが、1970年(昭和45年)です。

この三菱財閥の祖が、岩崎弥太郎です。坂本龍馬が脱藩の罪を許され、亀山社中を海援隊に改組した際には、岩崎弥太郎は残務整理を担当しました。

その後、明治期の動乱に政商として活躍した岩崎弥太郎は、1870年(明治3年)に九十九商会という商社の指揮者となります。その後、1973年(明治6年)に三菱商会と改名し、岩崎弥太郎が代表となります。

そんな岩崎弥太郎には、姉と弟、妹が1人づついました。弟の弥之助は、後に三菱財閥の2代目総帥となりました。つまり、岩崎弥太郎も中間子となります。

スバル創業者、中島知久平の場合
スバル360

1910年代に海軍の航空機エンジニアであった中島知久平が、スバルの前身となる中島飛行機株式会社の原点となる飛行機研究所を設立したのは     1917年(大正6年)のこと。じつにスバルには100年もの歴史があります。

中島飛行機は国産民間航空機メーカーとして、初めて受注を受けたメーカーです。ちなみに注文者は帝国陸軍。当時の航空機需要は軍需が主流でした。

終戦後、GHQにより軍需産業への再進出ができないよう航空機研究や開発を禁止され、さらに中島飛行機も財閥解体の対象となりました。富士重工業の前身となる富士産業へと改名したのは1945年(昭和20年)で、航空機技術を転用して自動車産業へと進出しました。

中島知久平は5人兄弟の長男で、弟が4人おり、うち2名は中島飛行機や富士産業の社長に就任しています。中島兄弟の尽力により、現在のスバルがあるのです。

スズキ自動車創業者、鈴木道雄の場合
スズキ スズライト

1909年(明治42年)、鈴木道雄は足踏み式織機の製造・販売を行う鈴木式織機製作所を創業します。後のスズキ自動車の前身です。自動車産業への進出のため、自動車の研究は1936年頃から行っていましたが、戦争のため中断。終戦後の1946年(昭和21年)に再開されました。

1954年(昭和29年)、社名を鈴木式織機製作所から鈴木自動車工業株式会社に変更、翌1955年(昭和30年)に、軽4輪の「スズライト」を発売します。現在のスズキ株式会社に社名を変更したのは、1990年のことでした。

そんな鈴木道雄には兄が1人います。つまり、鈴木道雄は。兄がどのような人物であったかは、定かではありません。


日本の自動車メーカー創業者では、日産自動車の鮎川義介と三菱自動車の岩崎弥太郎の二人が中間子でした。昔は、4、5人兄弟はざらにいたため、該当者がわずか二人であったことに少し驚きですね。

自動車メーカー創業者は、中間子が多いのか?調べてみた