1989年6月初旬の北京公園や大通りの植え込みで薄色のバラが咲きこぼれるさわやかな初の季節だ。夕刻7時前後はまだ薄暮の時間帯で、3日の土曜日は夕食後のそぞろ歩きに繰り出した老若男女の姿が立った。

市民もひきつけた「民主の女神」像

当時話題になっていたのは5月30日に広場北部の長安寄りに姿を現した高さ8メートルの「民主女神」像。親子連れや祖と孫、若者グループなどが周りを取り巻き、両手でたいまつを掲げたデザインい像を入れて記念写真を撮り合っていた。きわめて平和風景が私のに焼き付いている。

女神像は中央美術学院ら芸術大学学生が共同制作したもので、米国民主主義徴のニューヨークの「自由の女神」像をモデルにしていた。

5月20日に建後初の厳令が首都北京に発令され、すでに2週間が経過していた。厳部隊は、北京軍区所属の部隊を中心に何度か増員され、計18万人規模になっていた。当時の総兵320万人の6が動員されたことになる。にした情報では、大部隊の動員は「学生鎮圧」「秩序回復」だけでなく、軍の一部の「反乱警」もあったという。

厳部隊は中心部には入らず、周辺の幹線道路沿いに駐屯していた。私は西部幹線道路ロータリー撃した場面が忘れられない。

兵士を運んできたホロ付きの大トラックがずらり並び、装甲車戦車も見られた。押し掛けた学生市民が手と手をつなぎ、座り込んだ20歳前後のニキビ面の兵士に「人民のための軍隊だろう」「内には入らないでくれ」と必死に呼びかける。

すると一人の女子学生が立ちあがって戦車に近づいた。

「人民の子兵でしょ。一部の偉い人のためでなく、人民を支援してください。中国の兵隊さんが、一番つらいということ、私たち、よく知っている」

そう言ってから、戦車身に薄色のバラを差し込んだのだ。

そんなと、初の週末の広場の穏な様子をにしたので、「きょうも部隊は動かないだろうな」と、ますます楽観的な判断に傾いてしまった。

不可解な軍の動き

ただ3日、不可解な軍の動きがあった。午前3時すぎ、厳部隊兵士北京中心部に突然姿を現し、一部は広場で学生らと小競り合いを演じた。

私は明け方近くなって気づき、広場東のホテル北京飯店の前で一団を撃した。水筒と非常食を持っているだけで丸腰しだった。郊外に留まる部隊も加わっていたようだが、秘かに人民大会堂や中山公園などに配置されていた兵士たちではないかとも言われた。彼らに問いかけても、命令通りなのか、黙してらなかった。意図は不明だったが、後から考えれば間もなく決断する実行使の瀬踏みだったのかもしれない。北京地理も知らない、地方から動員した兵士の訓練説もあった。相は不明だ。

総じて「着状態」が続く中、私は短い記事を東京へ送り、さあ一週間が終わったと気分は軽かった。久しぶりに洋のものでも食べようかと、東部の外資系ホテルカフェハンバーガー珈琲ごしらえした。いまの北京にはスターバックスがあちこちにあるが、当時は、そのホテルが「珈琲らしい珈琲が飲める」という、数少ない"オアシス"だった。

食後、王府井大通りに近い投宿先のホテルにいったん戻り、東京の『AERA』編集部と連絡。重視していた取材相手のAに電話し、後で訪ねる約束を取り付けた。当時、自宅に固定電話を持つのは党や政府機関の幹部らに限られ、庶民は町内にある「電話」に頼っていた。

北京内の移動には自転車を使っていた。一回北京員勤務時代(1984年12月886月)に用したデンマーク製のスポーツだった。外国人向け商品を扱う北京友諠商店で購入したが、88年に帰する際、で知り合った若い友人にプレゼントした。鉄道関係や営工場に勤める家族がいる彼は情報通で、時折、記事のヒントになる重な情報をもたらしてくれた。お礼の意味もあったのだが、それを再び取り戻し、取材に使っていたのだ。

安門広場に着いたのが午後7時すぎだったか。そこで見たのは冒頭に記しただった。広場で何か特別の様子や新しいビラなどがないか歩き回り、何人か学生をかけた。メモ帳に残っていた学生の一人は遼寧から一昨日6月1日)に仲間と来たと答えた。内の鉱業専門学校に在学中と言い、当時広場に残っていたのは地方学生が多かったということを裏付けた。

この日の午後、一度に広場に来た際にちょっとした事件に遭遇した。安門広場の周辺の要所、要所にスピーカーがある。長安沿いに立つ装飾のついたにもスピーカーが備えられていた。それらを通じて当局は厳令の布など、重要な情報をかなり大きなボリュームで流していた。

そのスピーカーケーブルを、労働者の2、3人の男たちが次々とナイフで切断した。「共物はなるべく破壊しない」という広場で暗黙の了解となっていたモラルが徐々に崩れつつある、そんなに感じた。

ラジオニュースが何度か「安門広場には決して近づかないように」と流していたのも、気にはなっていた。(次回「下」に続く)