■「100の質問」を考え、答えも準備

1990年代前半、四十代半ばを過ぎて、よく「100」という数字を口にした。医薬営業企画部長のときで、何か交渉事や取締役会にかける案件があると、部下に「100の質問、100の疑問に答えられるように、あらゆる角度から検討しろ」と命じた。

交渉事や案件を「必ずやり遂げる」という、強い意志の表れだ。100もの質問や疑問を考え出すには、あらゆる情報を集め、精査して理解しなくては、難しい。それは、自らにも課してきた。これが提案力と説得力を生み、ゼロから始めた医薬事業を育て、優良分野へ導いた大八木流の源泉だ。

ただ、部下たちは、ときに悲鳴を上げた。夕方に「明朝までにやっておけ」と、100の質問や疑問と答えをまとめるように言い、取引先との会食に出る。担当者は「朝までやるか」と覚悟するが、真夜中に職場へ戻って「できたか?」と聞く。「まだ、できていません」と答えると、「能率が悪いな、食事にいこう」と連れ出す。

そこで飲んで天下国家を語り、カラオケで歌って帰る。そして、翌朝に「100個の質問と疑問はどうした」と催促する。働き方改革が叫ばれる前に、そんな仕事の進め方は消えたが、当時は活力のある組織では「当然」とされた。

100という数字の基には、ある体験がある。94年、初めて中国へ出張する際だ。念願の全国自社販売の実現を目指す一方で、成長への布石として海外展開を進めていた。その一環で93年に中国進出を考え、上司に「中国市場を攻めます。北京から入るか上海から入るか、広州から入るか。市場を調査したいので、出張にいかせてほしい」と申請した。

すると、こう告げられる。「中国を知るには、100の項目を調査するくらいでないと、基本的なこともわからない。自分は、北京に小学校6年までいた。親父も、中国で過ごした。その知見からすれば、準備不足では所詮、中国人の掌に乗せられるだけ。中国人はどう考えるのか、中国社会がどういうものかを問う100の質問を、つくってみせろ」

懸命に考えた。でも、68問までしかつくれない。上司に「申し訳ありません。でも、いかせてほしい」と言うと、「じゃあ、やり方を教えてやる。主なことで10問考えろ。考えたら、それぞれにつき10問を考えるのだ。分かったな」と教わった。言われた通りにやると、確かに100問ができた。

中国の主要都市を巡り、94年夏に上海で販売権を与える交渉に入る。翌春に、活性型ビタミンDの販売提携契約を結ぶ。巨大市場へ上陸する、大きな一歩だった。以降、教わった手法を、若い人たちに教えた。「必ずやり遂げる」の志を持ち続けるように、と説く。

志が生む提案力と説得力は、2001年8月に発売した骨粗鬆症の治療薬でも、発揮した。ある研究者がイタリアでみつけ、日本での販売権を取得したが、そんなにすごい薬とは思っていなかった。ところが、世界一の米薬品メーカーが関心を持ち、そのイタリア企業を買収してしまう。米メーカーには、日本に子会社があった。親会社は、もちろん、自分の子会社だけに売らせたい。

四十代を終え、東京支店長に出ていたが、交渉役に呼ばれ、両社で併売する形に持ち込む。開発を終え、認可までの手続きも済み、2社で販売競争を始めた。医師や医療機関を回って、薬に関する情報を提供して普及を図る「MR」と呼ぶ要員は、相手が約1500人、帝人は300人。5分の1の陣容だが、ここでも必ずやり遂げるという志をバネに、65対35の売上高比率で大勝する。米国の親会社も、帝人の販売力を認めた。

「有志者事竟成也」(志有る者は事竟に成る)――何事もやり遂げるという志があれば、必ずや成功するとの意味で、中国の史書『十八史略』にある後漢の始祖・光武帝の言葉だ。揺るがぬ「志」で提案力や説得力を示す大八木流は、この教えに通じる。

■「日本進出」で誘う欧州の企業めぐり

大八木流の極めつけが「日本進出サポートプログラム」だ。骨粗鬆症治療薬の問題を併売でまとめた後、約2年、欧米の中堅医薬メーカーを巡回した。新薬のパイプライン(医療用医薬品候補化合物)の発掘のためで、プログラムはその際に携えていった提案書だ。

帝人は、それまで海外医薬の販売権を得ることが中心で、パイプラインの獲得例は少ない。でも、開拓を始めたアジア市場での展開にも、新薬が欠かせない。ただ、新薬開発の許可は、簡単に出ない。そこで考えたのがプログラム。

全国で自社販売網を築いた経緯を示し、「あなたの薬の日本での販売網を、短期間に構築します」と言って販売権を求めるだけでなく、「日本での臨床試験は、帝人の資金でやります。その代わり、販売権は10年にして下さい」と続け、最後に「あなたも、日本に子会社をつくりたいでしょう。それもまとめてあげますが、1品目ずつでは難しいから、パイプラインをまとめて下さい」と提案する。

だから、大手企業には目もくれず、ビジネスモデルが大きく違う米国勢よりも、日本に進出していない欧州の中堅医薬メーカーに照準を合わせた。でも、10社ほど訪ねたが全部、外れる。ところが、ある日、「9.11同時多発テロ」による混乱で訪問できなかったフランスの医薬メーカーから、問い合わせが入る。日本進出への支援が付いている点が、魅力だったらしい。03年7月、医薬品の開発・販売権を相互に供与する契約を結ぶ。相手は20のパイプラインを示し、4つを選ぶ。最大の製品になったのが脳梗塞の治療薬。選び出した研究陣を、誇りに思っている。

プログラムには、実は、お手本があった。かつて、米国にあった独企業の子会社が、帝人の開発品目に目をとめて「米国へきたら、こういう提案がある」と言ってきた。訪ねると、「あなたの会社の製品をこう育てるから、将来は米国へ進出して帝人アメリカをつくったらどうか」と告げられた。破天荒な構想だが、概念としては理解できた。実現はしなかったが、その手法を欧州で実らせる。

08年6月に社長になって1年後、社内報にこう書いた。

「世界で何が起きているのか、自ら行動して学ばなければ、立ち位置を定めることもできない時代です。それゆえ、私も何倍も読書量を増やすなど、情報収集を怠らないように努め、時間があれば、セミナーや講演会に出かけるなどして見聞を広めています」

「重要なのは自分とは違う人、とくに自分よりも上のレベルにいる人に多く触れ、そういう人が何を考え、どんな生き方をしているのかを肌で感じることです。そこで受けた刺激が、きっと自分を変え、成長させるきっかけになるはずです」

よかれと思うことを語り継ぎ、引き継いでいくことが経営者の大事な務めだ、と心がけてきた。この4月に会長から相談役に退いたが、その思いは続く。

社長時代に設立した融合技術研究所に寄せる思いも、強い。素材で人工の細胞をつくり、繊維を使って腱をつくるには、すべての技術を融合しなければいけない。そう発想を変えてもらうために、つくった研究所。研究、開発、生産、販売のどの部門も、融合を進化させてほしい。そして、やっぱり「有志者事竟成」だ。

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大八木成男(おおやぎ・しげお)
1947年、東京都生まれ。71年慶應義塾大学経済学部卒業後、帝人入社。75年バブソン大学大学院留学。92年医薬営業企画部長、98年東京支店長、99年執行役員、2005年常務、06年専務、08年社長、14年会長。18年4月より現職。

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帝人 取締役相談役 大八木成男