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 まずは一冊の本を紹介するところからこの稿をはじめることにしよう。本の名は「完全なるチェス・天才ボビーフィッシャーの生涯」(文芸春秋刊、フランクブレイディ著、佐藤耕士訳)。本書は、アメリカのチェスの大天才故ボビーフィッシャーの生涯を略しく書いた本である。この人、天才と何とやらは紙一重のことば通り、完全な人格破綻者であった(この本を読めば必ず意味が分ります)。

 なぜ一見電王戦と関係のないと思える本の紹介から入ったかというと、フィッシャーという人が、チェスにおいてコンピュータが人間に勝った歴史におおきくかかわっているからである。

 今から五十年前、1960年代にチェスは完全にソ連の独壇場であった。アメリカはじめ他の国はソ連に対し太刀打ちできず歯がゆい思いをさせられていた。そこにアメリカで、ほぼ独学で(ソ連のエリート選手に比べればというはなしだが)世界レベルまで強くなったフィッシャーが突然出てきた。冷戦真っ盛りの時代である。フィッシャーとソ連選手との世界選手権は空前の盛り上りを見せ、フィッシャーは見事にソ連選手に勝ち、アメリカのヒーローになった。

 だが、その英雄が滅茶苦茶な人物だったのである。世界タイトルもつまらぬことで放棄し、タイトルはソ連に戻った。アメリカはフィッシャーなくしてはソ連に勝つすべもない状態に戻されてしまった。

 長々と前置きがつづいたが、ここからが本題である。フィッシャーなきアメリカは、ソ連を負かすべく、IBMと結託して、じゃぶじゃぶ金をつぎ込んで、チェスの強いコンピュータソフト開発をすすめたのである。そして「ディープ・ブルー」というソフトが見事にソ連のチャンピオンを打ち負かし、アメリカに溜飲を下げた。

 この一件を見て私は思った。そう、コンピュータが人間に勝つかどうかといういうのは、要は予算と情熱の問題なのである。国家が(べつに国家でなくてもよいが)じゃぶじゃぶ金と人を注ぎ込めば、人間を超えるのはそんなに難しいことではないのだ。だから、コンピュータが将棋がいくら強いというはなしを聞いても私は妙に冷めていた。コン君は決して退化しないから、いつかは人間が負ける、驚くようなことではない、そう冷めた目で見ていた。いわば、いずれ人間が負けるのは歴史的必然なのだ。

 コンピュータ将棋とはほとんど対戦したことがない。最後に指した時は十年前ぐらいで、なんと手合いは四枚落であった。すなわち、十年で四枚落分の棋力を伸ばしたのである。凄いとしかいいようがないし、アメリカ政府のようなバックもないのに情熱を注がれたプログラマーの方には敬意を表するよりない。

 人間の眼から見るとコンピュータは語弊を恐れずにいうと嫌な奴である。なにせ疲れないし、詰みがあれば絶対に間違えないし、玉が詰まされることに対するプレッシャーもない、最後の点は特に重要だ。プロの将棋、公式戦というのはプレッシャーとの闘いだからである。玉のまわりに相手の駒が多く、詰み筋が生じる段階になると、その時の胃の痛みはたいへんなものがある。負けられない対局でそのようになると本当にキツイのだ。これはプレッシャーのないアマチュアの方には分らない心理であろう。私はよく将棋のこの部分を時限爆弾の解体にたとえる。Aの導線とBの導線のどちらを切るか、どちらか爆発でどちらかがセーフ。プロは読みと直感とで、AかBかを切る。読み切ったつもりでも、ものすごいストレスがそこにはかかる。いつもギリギリのところ、紙一重の世界をくぐり抜けて貴重な一勝をものにすることになる。

 コンピュータにはもちろんそのストレスやプレッシャーがない。うらやましいし、憎らしい。あの気持を味あわなくていいなんて、ずるいよ。

 朝、佐藤慎一四段は和服で現れた。顔がキリッとしまっている。昔からの、勝負将棋を闘う棋士の顔である。いいじゃないか。カッコいいぞと私は心の中で呟いた。

 序盤は見慣れない形にすすむ。プロの眼から見るとちょっとコンピュータのほうが損な駒組みなのだが、まあこのあたりはあまりコン君は気にしないらしい。その感覚は悪いものではない。将棋は中終盤が大事だからである。

 慣れない形に戸惑ったか、佐藤にも構想のミスがあり、迎えた第1図。ここでは先手のコン君がすこし指し易い。ここでコン君は▲5五歩と突いたが、これは人間ではまず指さない手である。なぜなら、第1図の最終手の△5三銀は一手前に4二に引いたばかりの銀をまた戻った手で要は後手は手に困っているわけだから、そうした時はさらに陣型を作ってまた困らせるのが、人間の手口だからである。

 佐藤としても5三に銀を上がって中央を厚くした瞬間に▲5五歩から闘いがはじまるのはありがたいと思ったろう。

 二十手ちかくすすんで第2図。次の一手は腰が抜けた。コン君はさほど考えず▲6六銀と引いたのである。ここでは、▲6四歩と打つしか考えられない。△5二銀と引かせて、さあそれからという局面である。▲6六銀には△5五歩が「指が勝手にそこにいく」手で、ここで後手がぐんと盛り返した。

 また二十手ほどすすんで第3図になる。後手が飛車桂交換の駒得で優勢だ。しかし、飛車を取られると二段目に打たれるのが嫌だし、6五の金、4四の銀が離れているのが嫌なので簡単ではない。コンピュータのペースだ、との声も上がる。それもプロ棋士からである。けっこう電王戦の対局者以外の棋士もコンピュータ将棋に詳しい人がいるようで、いわれているうちにたしかにそんな気もしてきた。コン君は意外に人間らしい、相手を惑わすような手が好きなようで、これは意外であった。

 ここからは両者ミスが出た。

 終盤はふたつの局面を取り上げたいと思う。いずれも人間とコン君の感覚の差が出たところだからだ。

 まず第4図。ここでコン君は▲4四桂と跳ねたが、これには棋士一同ア然となった。5九の竜の効きが通り受けやすくなる手で第一感悪手なのだ。なにより、5六の桂は局面全体をささえる大事な駒なのである。▲3三歩から▲3五歩などで、歩で攻めていくのが人間の感覚だ。しかし▲4四桂もそう悪い手ではないのである。不思議なところとしかいいようがない。

 第5図は投了二十手前くらいの局面、▲6一飛と打ったところだ。次に▲2一金からの詰めろだから普通の一手に思えるが、これがプロ達には評判が悪い。当然▲4四金と打っていきたいというのである。それは、飛車を打っても△5一歩と竜の効きを生かした底歩がピッタリだからである。
佐藤もこの手はありがたいと思ったようだ。すぐに△5一歩と打つ。おそらく手応えを感じていただろう。

 さてそこでどうするか。コン君はすぐに▲4四金と打った。また一同ア然である。この金を打つならば、▲6一飛△5一歩の二手はないほうがよいとしか思えないのだ。飛車を打ったからには、▲5四歩と垂らして、次に▲5一飛成から攻めていくのが手の流れというものである。流れなきこの三手は、いかにもコンピュータらしいと思わされた。

 最後の敗着は第6図△3二金だろうか。ここで△2六馬ならばむしろ人間よりの声が多かった。最後はコン君がうまく寄せた。

 佐藤としてみれば、百十手くらい、ストレスとプレッシャーと闘ったわけで、その疲れが最後に出たのかもしれない。人間はツライのである。

 歴史的必然はかくしておこった。いずれくることと割り切っている私のような棋士でも感慨深いものがある。ただし、本局の内容が名局といえるものであったことに棋士としてとても嬉しい。佐藤の頑張りには、鬼気迫るものがあり、勝ち切れなかったのは運がなかったともいえる。事実、見ていた棋士達も同じく佐藤の指し回しをたたえる声が多かった。佐藤慎一は、負けて男を上げたのである。逆にいえば、プロが負けても不思議でもなんでもないと皆が思っていたということだ。

 負けは負けだし、アマチュアのほとんどの人は結果だけ見るということはよくよく分る。だからこそここで後輩の好青年に一言書いておきたい。

 佐藤君、立派な負け方だった。

 しばらくは辛いだろうし、恥ずかしいかもしれないが、プロは恥を売るのが商売だから仕方ない。将棋指しは、そして人間はつらいよなあ、慎一君。

◇関連サイト
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