『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』(波戸岡景太/講談社)
ダ・ヴィンチニュース

 谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川書店)や西尾維新の『化物語』(講談社)といった大ヒット作を生み出すライトノベル(以下「ラノベ」)というジャンルに興味を持ちながら、なかなか手が出ないという人は多いだろう。ラノベが出はじめた頃は「若年層向け」というイメージだったが、その後、ジャンルとして定着するとともに純文学的なテーマを持った作品も多くあることが知られ、有川浩や冲方丁など一般文芸の世界で活躍するベストセラー作家を輩出したこともあり、「ライト」な小説として軽んじられることもなくなりつつある。

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 しかし、平成生まれの世代が何らかのかたちでラノベの影響下に育ってきたのに対し、昭和生まれの世代にとっては、ある日、突然降ってわいたような「よくわからないジャンル」に思えるのはたしか。この断絶を埋めるべく書かれたのが『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』(波戸岡景太/講談社)である。

 1977年生まれの著者は20代半ばまでラノベに苦手意識を持っていたという。しかし、大学院で実験的な現代文学を研究するうちに、自分の問題意識と近いものがラノベというジャンルのなかにあることに気づいた。60年代では大江健三郎、80年代では村上春樹や村上龍が「新たなる現代」というビジョンを物語化して当時の若者たちから熱く支持されたわけだが、ゼロ年代以降はラノベにこそ「新たなる現代」をひも解く鍵が隠されているというのだ。

 そこで「ライト」と対比されるのが「ポップ」というワードだ。60年代にアンディ・ウォーホールによって世界的に流行したポップアートは、やがてアメリカへの憧れを象徴するワードとなり、日本では村上龍が『限りなく透明に近いブルー』(講談社)でアメリカナイズされた日本のポップを描いた。

 戦争や革命が“ヘビー”であるのに対し、権威をコケにする若者文化として“ライト”であろうとしたのが70~80年代の「ポップ」という流行だったわけだが、現代のラノベはこの「ポップ」からも距離を置こうとする。「ポップ」の基本単位となる「大衆」というものを嫌い、よりライトで身軽な「ひとりぼっち(以下:ぼっち)」を志向するようになるのだ。

 ラノベの世界をオタクの世界と混同するむきもあるが、本書ではその違いが明確になる。90年代半ばに大衆化したオタク文化を現代美術家の村上隆は、「ネオ・ポップ」「スーパーフラット」という名で世界に紹介した。村上にとってのオタクとは、「同一話題では友情を育める」が、それ以外には極度に排他的という存在を意味していた。しかし、ラノベの世界では<自分たちが「ぼっちであるということ」のみを通じて友情を育み、互いの趣味に立ちいることをしない。>という。

 2010年発行の『ぼっちーズ』(入間人間:著、宇木敦哉:イラスト/アスキーメディアワークス)で描かれたように、たとえ複数になっても彼らは「ぼっち」のままなのだ。彼らの対極にあるのが、「リア充」であり、「ぼっち」たちは彼らを軽蔑するために学力を向上させたり、個人競技に力を注ぐなどして、彼らの幻影のような「リアル」とは異なる本当の現実を手に入れようとする。

 『涼宮ハルヒの憂鬱』にしても、涼宮ハルヒというツンデレ・キャラに萌えることが主眼なのではなく、「アニメ的特撮的マンガ的物語」に別れを告げた男子高校生が、ミステリアスな涼宮ハルヒという「ぼっち」にいかにして仲間意識を抱くようになったのかを一人称で述懐するものであったとする。

 本書のスタンスは、ラノベから現代病理を読みとるようなことはしない、というもの。あくまで、現代の若者から支持される物語を通して、現代を読み取ろうとする。ラノベを知らない世代が現代を把握するのに適したテキストであることはもちろん、当のラノベ世代も、自分たちが漠然と感じていたことを的確に表現してくれている、と感じるのではないだろうか。

文=大寺 明
(ダ・ヴィンチ電子ナビより)

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