風立ちぬ』や『永遠の0』など昨年はなにかと話題になったゼロ戦や特攻隊員たち。その特攻隊の生き残りとして生きてきた男たちが真実リアル人生る!

***

早稲田大学1年生だった江名武さん(90歳)は、昭和18(1943)年の12月に学徒出。その後、彼は軍に入隊して特攻隊員になった。ゼロ戦、そしてカミカゼ現在では格化されたキーワードだけど、その身近にいた若者たちはちょっとリア充で、ユーモアもあり、今の若者と変わらない男たちだった。

昭和16(1941)年の12月8日。開戦の日は何をしていましたか?

江名 高等学校のときですね。新宿映画を観ていました。ジェームズ・スチュアートが演の『スミス都へ行く』を、今でも新宿にある武蔵野館で観ていました。

―開戦しているのに、アメリカ映画を観て大丈夫だったんですか? ひ、ひ、非国民なんじゃ!?

江名 全然大丈夫ですよ。その後、軍の基地でも娯楽の時間にはアメリカ映画を観ていたぐらいですから(笑)

ドラマ映画だと昭和初期はすっごい暗い時代に描かれていますけど、実際はそんな感じではなかったんですか?

江名 当時は音楽があってクラシックも最新のジャズも聴くことができました。私はクラシックが聴ける喫茶店によく行っていましたね。映画音楽、欧文化がいっぱい入ってきて、それがとても刺的でした。私らにとってはそれが普通でしたよ。

クラブ行って、シネコン行って、あとラウンドワンがあれば現在の若者とあんまり変わらない生活かも!? 一方、俗にいう“軍靴(ぐんか)の音がー!”という雰囲気も?

江名 物心ついたときに満州事変中学になったら日中戦争が始まりました。若い頃は戦争ばかり。だから軍隊も軍靴の音も日常の一部なんです。それに小中学校の頃から軍事教練がありましたから。私は、それがいやでいやで(笑)

軍事教練とは?

江名 陸軍の予備役将校が学校に配属されているんです。その将校の示で三八式小銃を担いで行軍したり、匍匐(ほふく)前進をやるんですね。これはキツかったですよ。

江名武(えな たけひこ







923(大正12 )年7月29 日生まれ、東京都出身。右の学ラン姿の若者が江名さん。そして陸軍の軍服姿の若者は小学校同級生。江名さんは九七式艦上攻撃機の機長を務め、少尉のとき終戦を迎える

―江名さんが学徒動員で召集されたのは、昭和18年の12月。そのときに思ったことは?

江名 12月の前に、ほとんどの学生は小旅行へ行くんです。思い出づくりですね。私は11月京都奈良へ行きました。きれいでしたね。「もう、ここには戻れない!」と思うと、そこで日本人としての誇りを再認識しました。

友達たちとのお別れ会みたいなものはあったんですか?

江名 新宿中村屋新宿高野で何度もやりましたね。お酒を飲んで騒いでいました。まだ民間でも物資は豊富にあったんですよ。

―送別会では、どんなお話をするんですか。やはり「鬼畜英!!」で大盛り上がり!?

江名 好きな音楽の話や友達バカ話。そんなのばっかりでしたね。「生きてまたキャンパスで会おう!」と杯しました。

ただ、当時の学生の多くは、「危機存亡のときだから、祖国を守る!」。そういう意識はみんなが持っていたと思います。

―学徒出は陸軍と軍、どちらか選べたと聞いています。どうして軍を選んだんでしょうか?

江名 軍は制服カッコいいんですよ。スマートで短をぶら下げている姿は女のコにも人気がありました。一方、陸軍はゲートルを巻いていてヤボったい(笑)。それに軍事教練が嫌いでしたから、陸軍に行く気はありませんでした。

―ほかの学生の皆さんにも軍が人気だったんですか?

江名 徴兵検で陸軍どちらかを選ぶんですが……。学生たちはみんな「軍志望」となり、陸軍の試験官が激怒したそうです(笑)

―実際、軍の訓練はどうだったんですか?

江名 実は陸軍の軍事教練とそんなに変わらなかった(笑)。私はまず、広島県大竹兵団(軍の新兵を訓練する施設)で基礎訓練を受け、その後に茨城県の土航空隊へ赴任しました。そこでは毎週、棒倒しがあるんです。これが大変でしたね。

運動会の棒倒し?

江名 もう、ただのけんかですよ。分隊同士の対戦で、棒の周囲には柔道部、空手部など屈強な人間が並んでいる。棒に近づくと、とにかく殴られるんです。しかも、対戦で負けますと、その日の晩飯はなし。これは必死ですよ。

―上官が部下を大罵倒、さらには容赦なくビンタ連発など、映画では軍隊の体罰が強調されがち。実際はどうだったのでしょうか?

江名 私は3人乗りの九七式艦上攻撃機に乗っていました。当時、私が偵察担当、22歳で機長。操縦員は20歳、電信員が18歳。この3人で一組になります。部下のふたりを罵倒したり、「が上官だ!」という態度で接しては、チームワークが成り立たないですよ。士気が保てません。外出したときには私がおごるし、配給のたばこを分けたりとかしましたよね。部下との人間関係は、上の人間が気を使わないと持ちません。階級が違うから部下になりますけど、それ以前に戦友ですからね。

―戦友ってなんですか?

江名 命をかけた仲間。階級とか年齢は関係ないですよ。兄弟です。

―では、軍隊での日常生活もお聞きします。資料などではく塗りつぶされた手紙を見たりするのですが、当時はみんなあのようにされてしまったのですか?

江名 軍事郵便ではなく、基地の外にある郵便局から出せば全然気でしたね。基地内から出すとうるさいですけど、外からなら検閲もありませんでしたから。みんな郵便局から出すのが多かったですね。

軍事郵便を使うのは、今でいうところの“情弱”かも!? では、家族との面会はどうでしょうか?

江名 原則的にはダメですけど、せっかく親兄弟が遠方から来たのに追い返すことはしません。衛兵が気を利かせて上官に話し、うまく面会できました。そのへんの人情は、昔も今も変わりませんよ。

■食糧もお酒も豊富!? 意外と快適な軍生活

―食事で楽しみなものはありましたか。今でも人気カレーって本当にうまいの?

江名 娑婆(シャバ)で食べるカレーよりうまかったです! 土曜日カレーで、これが大で作るからうまい。あと、土ではおウサギなんです。金曜に山にワナを仕掛けてウサギを獲っていました。お米は少なかったけど、軍は較的物資が豊富でしたよ。

お酒もあったんですか?

江名 ウイスキーがいっぱいありました。でも、私たち下っ端の将校には配給されないから、倉庫を管理する顔見知りの下士官にお小遣いを渡して、ウイスキーをもらっていました。なので、お酒で困ったことはないです。ただし、部下である下士官たちを罵倒しているような将校はウイスキーを頂戴することはできません(笑)。部下を罵倒して、トクすることなんて何ひとつないんですよ。

映画を観たり、お酒を飲んでバカ話をしたり、いつ死ぬかわからない状況でしたけど、それなりに楽しみはありましたね。

―そろそろ、飛行機のお話も聞かせてください。初めて軍の飛行機を身近に見たのは?

江名 昭和19(1944)年の6月に土から霞ヶ浦かすみがうら)航空隊に行ったときです。上官が「あれが山、これが銀河だ」と飛行中の飛行機の説明をしてくれました、初めて見たときは純に「カッコいいな!」と思い、気持ちが弾みましたね。でも、冷静に考えると、飛行機の搭乗員は死ぬ確率が高い。それでも、当時はそんなことを考えることなく、「飛行機に乗りたい」と思っていました。

―初飛行はどうでした?

江名 昭和19年9月です。静岡県大井航空隊に移動して飛行訓練が始まったとき、初めて乗ったのは菊という練習機でした。静岡だから飛ぶと富士山が見えましてね。「戦争がなければ、これは天国だ!」と思うほど楽しくてしょうがなかったですよ(笑)

映画風立ちぬ』や『永遠の0ゼロ』などで今年は何かと話題のゼロ戦にも乗ったんですか?

江名 私は偵察員だったので、ゼロ戦どころか飛行機の操縦をしたことはありません。

―操縦をしたいとは思わなかったんですか?

江名 操縦員は運転手さん。私は運転手付きのご身分の人間だと思っていました。機長ですから社長ですよ(笑)。だから操縦員に対する憧れはありませんでした。

―“エース”と呼ばれるようなゼロ戦乗りに会われたことは?

江名 園重義(はまぞのしげよし)さんという軍のエースであるゼロ戦乗りがいました。しかし、私が訓練中に見た園さんは、ふたり乗りの艦上爆撃機に乗って模擬戦をやっていました。動きの鈍い艦上爆撃機なのに、前を飛ぶ機体と同じ軌で飛行するんですね。実際、艦上爆撃機米軍戦闘機と戦ったこともあるんですよ。園さんは高倉健演した特攻隊をテーマした映画ホタル』の主人公モデルになった男です。

―そんな訓練を続けているなか、リアルな戦況を知る機会は?

江名 前線から帰ってくる士官や下士官が戦況を話してくれましたね。3人にひとりは「今度の戦争は勝てない。物量も兵器の性も違う」と、当時の報道とは違う実情をっていました。

■ついに特攻してみた結果、なぜか女のコにモテだした!?

―そして昭和20(1945)年になると戦況はますます悪化。江名さんの元にも悲しいお知らせが!? 特攻が決まったのはいつですか?

江名 昭和20年4月10日。飛行訓練から帰ったら、戦友が「おめでとう!」と言うんですよ。そして黒板を見たら自分の名前が特攻編成に入っていたんです。

―それを見たときの心は?

江名 血の気が“サーッ”と引いた。それだけです。

―すぐに死ぬ覚悟はできた?

江名 なかなかは括れませんよ。それでも戦友の前では然としたそぶりをしていましたけど、内心は動揺していました。戦友たちは元気づけようとしてくれるんです。でも割り切れなかった。

―っていうか、特攻って志願なの? 命令なの?

江名 黒板に名前が載ってから、上官から訓示がありました。「おまえたちを『正気隊』という部隊名に命名する。近く鹿児島良(くしら)基地へ進出して特攻作戦に参加してもらう。ひとつ頑ってもらいたい」。命令でしたね。そして、鹿児島良基地へ飛行機で移動しました。伊豆半島近くでは富士山が見えました。初めての飛行訓練で見たときは「天国だ!」と思いましたが、このときは「今生の別れ!」という思いで富士山見つめていました。でも、この後の飛行で何度も富士山を見て、そのたびに「今生の別れ!」をしていましたけどね(笑)

良基地へ移動後、江名さんの出撃日が決定する。特攻出撃は昭和20年4月29日標は沖縄。出撃の前日は何を?

江名 寝られませんでした。ちょっとお酒を飲んで、を切って、自分の半生を振り返った。もう一度、母親会いたい。未練がだんだん出てくるんですね。

や命令した軍に対して、恨みなどあったのですか?

江名 全然ありません。日本人の一員として祖国のために。その気持ちだけですね。ただ、命を捨てるのは悔しいと思いました。

―まだ、前日では覚悟が決まってない感じだったんですか?

江名 死への覚悟が決まったのは出撃当日。4月29日飛行機に乗ったときです。「分隊士(隊長)、突っ込むときは笑って死にましょう!」。18歳の電信員が私に言ったんです。年下なのに肝が据わっているなと。これでふっ切れました。この戦友たちと一緒なら、死ねる。むしろ、彼ら以外と死ぬのはいやでしたね。

―特攻機はどんな装備ですか?

江名 訓練でずっと乗ってきた九七式艦上攻撃機です。私の搭乗機は昭和12年採用の耐用年数がとっくに過ぎた古い機体でした。それに戦艦でも一発で沈められる800kg爆弾を抱いての出撃です。でも、出撃後すぐにエンジンが不調になってしまいました。

爆弾を投棄して不時着?

江名 いいえ。爆弾を捨てる場所がないんです。地上には民家がいっぱいありましたから。そこで、一番近くにあった陸軍の知覧基地へ不時着することにしました。800kg爆弾を装着した着陸は困難でしたが、操縦員の技量のおかげで事に着陸しました。

映画などでは地上スタッフが滑走路へ集合して、大感動のお出迎えになるシーンですね!

江名 そうはならないんですよ。基地の令官から「おまえ、この基地を破壊しに来たのかッ!!」とすごい怒られました。何も反論できませんよ。滑走路を破壊するのに十分な威のある爆弾を抱えたまま不時着しましたから。

―ますます陸軍に対するイメージが悪くなりましたね。

江名 その逆です。

―え!?

江名 上の人たちは激怒していましたが、ほかの兵士たちは本当に親切でした。ご飯もおいしかったし、何より陸軍には女性も働いていたんです。これは驚いた!! 部下たちと「陸軍はいいな!」って(笑)。でも、当時の陸軍と軍は本当に仲が悪かった。

―どのぐらい険悪なのですか?

江名 陸軍の飛行機軍の飛行場に着陸したときに、帰りのガソリンを少ししか入れなかった。そうしたら陸軍機はまた不時着しちゃった。セコい話ですよね(笑)。でも私の飛行機は陸軍にちゃんとガソリンを入れてもらえましたよ。

事に帰還した江名さんだが、2回の特攻がすぐに決定した。出撃は5月11日

江名 またエンジン不調なんですよ。が見えましたが着陸できる地がありません。なので800kg爆弾を投棄後、面への不時着を行ないました。

への不時着って相当な衝撃がありそうですが!?

江名 すごいですね。衝撃がドーンッ!ときて圧でプロペラが一気に内側へ曲がってしまう。後方に座っていた電信員は衝撃で顔面を線機にぶつけて血まみれ。私が一番最初に飛び出して操縦員と一緒に電信員を引きずり出しました。脱出後、私たちはに乗っていましたが、1分ほどで機体は没しました。

―その後、どのように?

江名 800mほど前方にが見えました。ただ、潮の流れがとても速い。ダメかと思いましたが、操縦員が漁師のせがれだったんです。潮の流れが読めるんですね。彼の示で事、まで泳ぎ着くことができました。

―どこのについたのですか?

江名 鹿児島県三島近くにあるでした。

での生活はどうでした?

江名 の皆さんがとても親切でした。

―なぜですか?

江名 当時、男性がみんな出征してしまい、ほぼ女のコしかいませんでした。だからモテましたね。部下に「女性には等に接しなさい」と注意したほどです。ひとりの女性情を傾けると、ほかの女性から妬まれますからね。

彼女はできたのですか?

江名 いません。私たちと同時期に陸軍のパイロットも不時着していたんです。彼はイチ美人とできちゃったというウワサがあったんですが、どうやら事実は違って潔癖な男だったようです。

―ちなみに、内地にいたときはモテたんですか?

江名 まったくモテませんよ。

での生活はとても楽しそうですが、このときは戦争のことを忘れられたのでしょうか?

江名 理ですね。ちょうどの上が特攻機の飛行経路だったんです。毎日軍歌を歌いながら特攻機を見送っていました。部下が「く内地へ帰らないと間に合いませんよ!」と言うんですが、どうしようもなかった。がゆかったですね。







終戦日本人が失ったこととは?

―その後、2ヵ以上にわたりでの生活を送った江名さんは7月30日、陸軍の小潜水艦に救出され内地へと戻った。

江名 長崎県佐世保鎮守府へ行ったら「大分へ行け!」と言われ、大分へ行ったら「原隊へ帰れ!」となって茨城県里原(ひゃくりはら)航空隊へ向かいました。その最中の8月7日、私は広島にいました。原爆が落ちた翌日の広島です。

―どのような状況でしたか?

江名 10万人以上の都市が何もなくなった。焼け野原で遺体を跨いで歩く。この戦争は勝てない。戦争はもうダメだ。そう思いました。

茨城県の基地にはいつ到着したんですか?

江名 8月9日です。上官から「ごくろうさま!」と言われる前に、「広島はどうだった? 新爆弾を防ぐにはどんな装がいいんだ?」と質問攻めですよ。上官が一番驚いていたのは、広島に何もなくなってしまったこと。「江名少尉、この戦争は大変だな」と言っていましたから、敗戦を覚悟していたと思います。

昭和20年8月15日終戦の日はどちらに?

江名 基地の療養所のあった茨城県の袋田温泉です。玉音放送はここで聴きました。「江名くん、これからはが変わるから憲法を勉強しなきゃだな」と戦友に言われたのが印的でした。

―その後は?

江名 基地へ帰ったら「もうすぐ米軍が上陸する。特攻作戦に参加したものはどうなるかわからないから、郷里へ帰れ、すぐ姿を消せ!」と言われました。基地では焼却される書類、プロペラが外された飛行機を見て「敗戦とは惨めなものだ」と実感しましたね。

―復員後はどうしたのですか?

江名 すぐに大学へ戻りましたよ。キャンパス生活を楽しみたかったから(笑)。ただ、親しい友人の悲報にはこたえましたよ。

戦前戦後で、最も変わったことは?

江名 日本国民としての祖国が薄れました。ジープに乗ったアメリカ兵がガムとかチョコ子供に配っている。それを子供が大喜びで拾う。ただ情けなかったですよ。マッカーサー天皇陛下が並んだ写真開されました。あれを見たとき、日本アメリカの占領下なんだと実感しました。

山本太郎参院議員が天皇陛下手紙を直接手渡してました。このようなことは戦前には考えられたのですか?

江名 私たちの時代はに乗った天皇陛下を行進するときずっと頭を下げていましたから、手紙を渡すとか考えられませんよ。

中国韓国など、いまだに戦中の謝罪と賠償を訴えています。このようなクレームには、どのように対応すればいいでしょうか?

江名 彼らが言う、侵略されたという歴史は今世紀中に忘れてくれることは難しいです。なので、実に受け流す。受け流しましょう。

―最後に江名さんにとっての戦争体験とは?

江名 とにかく劇的でしたね。2回も特攻出撃して、さらに広島で被爆もしましたから。

戦争で失ったものは多い。しかし、戦争で得たものもあった。戦後も江名さんを“分隊士”と親しみを込めて呼ぶ戦友たちとの交流はずっと続いている。

(取材・文/直井裕太 構成/篠塚也 撮影/村上

現在、『週刊プレイボーイ』では「元・特攻隊員だけど何か質問ある?」を短期集中連載中です。

特攻隊員として2度の出撃を経験した江名武彦さん(90歳)