■「90年前後はアナログ放送の絶頂の時代」
津田: ということで、時間もないので本編に入っていきたいと思うのですが、まず、これまでのテレビの歴史をひも解いてみたいと思います。ここに一応フリップがあります。全部言っていると長いので抜かしていくと、テレビはまず1953年に国産第一号の白黒テレビが発売されて、2月1日にNHK東京テレビジョンが放送をスタートして、最初の番組は歌舞伎中継だったそうです。1955年には衆議院の選挙で開票速報を放送したのと、TBSが開局。そしてテレ朝、フジテレビが59年に開局し60年にはカラーテレビがスタートすると。
そのあとテレビアニメがスタートしたり、カラーテレビ放送といったものがあったりした。そして69年には、甲子園でおこなわれたプロ野球の阪神対広島戦。テレビ史上初めて試合開始から終了までを完全放送し、アポロ11号の月面着陸の様子がやはり69年に放送されたということです。この頃テレビ普及で、力道山というのが街頭テレビとして有名ですが、あれって何年くらいになるのですか、力道山の頃というのは。
池田: あれは、昭和でいうと30年代半ばくらい...だから西暦でいうと1960年頃ではないですか。
津田: 本当にテレビが開局した直後くらいにだったんですね。
池田: そうそう。
津田: すみません。がんがん歴史を見ていきますが、1974年。僕が73年生まれなんですが、石油ショックの影響により1月から約半年、NHKは23時で放送終了。民放各局も深夜番組を自粛。・・・こんなことがあったんですね。へぇ。なんか今の計画停電みたいな、それの走りみたいなそういうのがあったと思います。そして78年には有名な番組「24時間テレビ・愛は地球を救う」が放送され・・・まだ「24時間テレビ」は続いてますね。そして1988年、高校野球で初のハイビジョン生中継を実施。池田さん、これはアナログハイビジョンですか。
池田: そうそう。このころ僕、ハイビジョンの番組を作っていたんです。
津田: このころの思い出はありますか?
池田: マイナーで全然放送されない番組ですからね、この高校野球は例外で。僕らはNHKで本当に関係者しか見ない番組を延々と作っていたわけですよ。まあ、画面は綺麗だけど、1回撮影に行くのに、すごくでっかい中継車と電源車とがあって、電源を入れてから2時間くらいしないとカメラが映らないという状態で、それが今小さいカメラの性能よりはるかに悪い性能だったわけだが・・・。
津田: このアナログハイビジョンというのは、今のこの地デジのハイビジョンとはまったく違うものだった。
池田: 全然違うもの。カメラは同じなんですが、要するに伝送方式はまったく違うものなんです。今のデジタル放送の規格というのも当初はHDTVという風に言っていたが、NHKもなんとなく「ハイビジョンが死んでしまった」というのは格好悪いから、(今は)「デジタルハイビジョン」という名前にしてごまかしているが、実は今のデジタル放送というのは、僕が20年前に作っていたハイビジョンとはまったく違うものなんですね。
津田: 民放にいらして、吉田さんとかはNHKのああいったハイビジョン化の動きみたいなものは、どういう風に見てらっしゃるんですか。
吉田: いずれ来るだろうなと。NHKがやって、あとから真似をする。「やれと言われるかも知れない」みたいなことだったと思いますけどね。
津田: いつぐらいに来るかみたいな、そういうのもNHKを見ておけばよかったみたいな感じだったんですね。
吉田: そうですね。
津田: なるほど。ちょっとまた歴史に戻りますが、1989年には昭和天皇が崩御されて、NHKと民放5ネットワークが同日と翌日に渡り特別編成を実施し、民放がCMを自粛しました。やはり89年というのが、メディアとしても変わり目でしたね。ちょうど平成になった年だと思うんですが。「スペースシャワーTV」とか、「朝日ニュースター」など多数のCS局が都市型ケーブルテレビ向けに放送や、配信。いわゆる日本のテレビもアメリカ型の様に多チャンネル時代への幕開けではないかということが、ここ20年くらいで開始されたということですね。
95年には阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件、そして同事件等に絡むオウム真理教、麻原彰晃容疑者逮捕など、非常に大きな事件や事故、震災が起きて、そういった長時間の報道特番が多く組まれました。そして、野茂英雄投手がドジャースに行ってメジャーリーグでデビューしたことをNHKの衛星第1テレビが生中継して。これをきっかけに同局がメジャーリーグの中継を定期化した、と。なるほど。この95年の時には池田さんは・・・。
池田: もうNHKを辞めていた。辞めていたんですが、辞めてからもフリーのディレクターとしてまだ仕事していました、このころは。
津田: このころの報道で何か思い出は。
池田: このころは、僕のやった仕事はまじめな番組ばかりで申しわけないが、「不良債権」という、今でこそ不良債権というのは皆さん、大変な問題だとわかるでしょうけど、15年前に不良債権といっても一体何のことかということがわかる人がまずいない。しかし後になってみると、これはものすごい大変な問題だったわけだけど、それをNHK の中では僕しかやっていなかったものだから、フリーになってからも僕のところに注文がきて、「NHKスペシャル」とかBSの番組とかをよく作っていましたよ。
津田: 95年というのは、本当に阪神大震災やオウムなどいろいろな事件があった年だったわけですけど、吉田さんは当時、何をやられていたんですか。。
吉田: 僕は編成にいた。僕は80年代は「笑っていいとも!」のAD をやったり「ひょうきん族」のADをやったりして。さっきの年表ではちょっと社会的なところからやっているけど、80年代は我々のテレビ業界ってむちゃくちゃ坂を駆け上がっていくような、すごく楽しかった。90年前後「夢で逢えたら」という番組をやったり、ウッチャンナンチャン(の番組)とかダウンタウンの番組「ごっつええ感じ」もその後始まるけど、とにかく楽しくて楽しくてしょうがない。アナログ時代のある種、絶頂の時代を・・・。ドラマもすごく当たっていましたし。フジテレビは13年間トップをとるが、94年に追い越される。94年に日本テレビに抜かれて、95年(を迎えたわけ)でしたから。
津田: 僕、ちょうどまさに「ひょうきん族」世代で、小学校の時に「ひょうきん族」とTBSの「8時だョ!全員集合」。「全員集合」でドリフがとにかく強い中で、それのカウンターというかアンチみたいな形で、後から出てきて。クラスの中もドリフ派かひょうきん族派かでわかれるみたいなのがあったんですけど、後発だった「ひょうきん族」はどういう風な形でドリフを倒していったのでしょうか。
吉田: 語らい過ぎているかもしれない。ドリフが非常に稽古をしてやる、と。完璧な台本のままにやるというスタイルがあったとすれば、「ひょうきん族」はアドリブでやった。(「全員集合」は)ちゃんと後半に歌謡曲をやるんです。前半コントがあって、タッタタッタタラッタと歌うと回る舞台があって、歌があって、体操したりコーナーになっていくわけ。そこに後半にタケちゃんマン当てたら、上がるじゃないかということで徐々に当たっていく。
でも結局、「ひょうきん族」は「全員集合」を倒すわけですが、その後ちゃんと「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」とスタイルを変えてやられたのに80年代後半は抜かれて、最後は一ケタになって89年に終わりますから。土曜日8時は、とても思い出深い、栄枯盛衰の歴史があったんですね。そこから影響を受けて、みんなその後の「お笑い第三世代」というような人たちが出てきたと。95年って、「めちゃ×2イケテルッ!」とか「SMAP×SMAP」とか、今も続いているものがそろそろ始まろうかという胎動の時期というかチェンジの時期ですよね。番組としては、日本テレビでまさしく「進め!電波少年」が全盛期だったと。
津田: 福原さんは何年入社だったんですか。
福原: 僕は86年入社なんです。だから(吉田氏は)3つ先輩。入って「笑っていいとも!」に研修に行った時に、吉田さんとかがADされてて。「冗談画報」の研修で・・・。
吉田: 内輪の話になるというのは・・・楽しかった時代ですね、80年代というのは。
津田: 実際それで3つ上の近い先輩の後ろ姿を見ていて、どういったものを福原さんは学んだのですか。
福原: 吉田さんはメインストリートをずっと歩いていて、バラエティのど真ん中なんです。吉田さんは、「夢で逢えたら」なんてすごい番組やって、「ほんと吉田さんの作る番組はすごいな」っていう風に言った覚えのあるくらいすごいメインストリート。
吉田: (そんな風に)言われたことはないと思う(笑)。
福原:メインストリートを歩いている人で、僕なんか本当に端っこの方、未だにそうなのだが、ずっと歩いてきた。そういう感じなので。そんなにこう、フジテレビの「良かった時代」と言われても、そんなに恩恵を受けたような気があまりしない。「よかった時代」がその頃というよりも、今も「やっぱりいいな」という風なそういう感じなんですよ。あんまり昔がどうのこうのっていうのなんて覚えてないというか、それが正直なところですよね。
「尾木ママがBPOの委員だった」 アナログ停波特番(2)
http://news.nicovideo.jp/watch/nw91590
(協力・書き起こし.com)
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