文=吉村栄一

JBpressですべての写真や図表を見る

 この『スターダスト』という映画に関しては最初にデヴィッド・ボウイを主人公にした映画が企画されていると聞いたとき、ちょっと怖かった。誰がボウイを演じるのか、そしてどういう物語になるのか。

 もうすぐ死去5年となるデヴィッド・ボウイは、その実在自体がどんなフィクションよりも華麗でドラマティックなロック・スターであり、誰がどう描こうと本物を超える物語にはならないのではないか。

 実際、これまでいくつものボウイを主人公とした映画は企画されてきたが、ボウイ側の徹底した非協力もあり頓挫してきた。

 やがてこの『スターダスト』という映画にまつわる噂もちょっとずつ出回り、同時にボウイを演じる主役も明らかになった。

 これらに関する世界中のボウイ・ファンのSNS上での反応は微妙なものだった。

 それは、まず第一に主演俳優であるジョニーフリンがボウイに似ていないのではないかというものと、物語が描くのはボウイがスターとなる直前の時期だということ。

 つまり、あまりボウイには見えない俳優を主役とした、華やかならざる地味な時代を描く映画だということでもある。

 やがてボウイの権利管理団体から、この映画に対してもボウイ側は一切の協力をせず、ボウイの楽曲の使用も許可しないという発表もされた。これは映画への期待を決定的に打ち砕くものだった。ボウイの曲が一切使用されないボウイの映画? 

 多くのボウイ・ファンは映画への関心をこの時点で失ったかもしれないが、ぼくは逆にこのことで映画が楽しみになってきた。ボウイが主人公なのに、ボウイの曲が使われないボウイ映画という不可思議な作品。中庸な伝記映画には絶対にならないはずだ。

 この映画のストーリーはこうだ。

 1970年に3枚目のアルバム『世界を売った男』を発表したボウイだったが、評判はさんざんで、そもそも注目もされない。とくにアメリカではそうだ。

 この時点でのボウイは1969年アポロの月着陸にタイミングを合わせた宇宙飛行士の歌「スペイス・オディティ」と、変調加工された声を使ったコミック・ソング「ラフィング・ノーム」がかろうじてヒット曲と呼べるもので、それも主に本国イギリスでの話。アメリカではレコードこそ出ていたものの、ほぼ無名の存在だ。

 アメリカのレコード会社のマーキュリーは「スペイス・オディティ」のようなポップな曲を期待してボウイと契約したものの、契約後に出来上がったアルバム『世界を売った男』は暗くてヘヴィなサウンドとやはり暗く哲学的な歌詞が乗ったアート作品だった。

 このアルバムの制作時期はボウイにとっていろいろ悩みが多く、ドラッグの影響もあってこのような作品になった。後年ニルヴァーナカヴァーして話題になったアルバム・タイトル曲など、いい曲もあるが全体的に地味で暗い。

 当然レコード会社からは不評でアルバムのプロモーションは皆無に近く、シングル「オール・ザ・マッドメン」もプレスまで終えた段階で発売中止になってしまう。シングル曲がないということはラジオでもかからないので、絶望的な状況だった。

 この事態に対して、ボウイのマネージメントが起死回生の手として打ったのがアメリカでのソロ・ツアーだった。ソロ・ツアーといっても大袈裟なものではなく、アコースティック・ギター一本を持って小さなクラブやパーティーで弾き語り演奏をするというもの。合わせて全米各地で雑誌やラジオの取材を受けてアルバムの宣伝につなげるという思惑だった。

 映画は、このアメリカに向かう飛行機内のボウイの観る夢から始まる。不穏な夢だ。

 案の定、入国審査ではこのビザでは商業的な公演はできないと言い渡され、さらに手荷物にあったこの頃のお気に入りだった男性用ドレスで怪しまれる。

 おもしろい。のっけから物語に引き込まれていく。

 ボウイを演じるフリンも、似ていないといえば似ていないのだが、ボウイの所作や言葉遣い、イントネーションを相当研究したようで、似ていないのにふと本物のボウイがスクリーンの中にいるように錯覚してしまう。

 物語は、空港に迎えに来ていたレコード会社の冴えない宣伝マンのロン・オバーマンとの全米のプロモーション・ツアーが主軸となり、そこにロンドンでのボウイの暮らしや悩みがフラッシュバックとしてインサートされていく。

 この映画はいろいろな制約がある中で随所に創意工夫と仕掛けがある。

 主な対象であるはずのボウイのファンに向けては、ボウイのファンにしかわからないような小ネタ、ギャグが仕掛けてある。それはセリフに後のボウイの代表曲の歌詞のフレーズがさりげなく紛れ込ませてあったり、サントラ音楽の一部がボウイの有名無名の曲のいくつかのコードと、楽器の音色を利用した、ボウイの曲ではないのに、ボウイの音楽のように聞こえるとかもろもろ。

 音楽に関しては、ボウイの曲が使えないので、劇中の人前で歌うシーンでも工夫している。当時、ボウイが好んでカヴァーしていたジャック・ブレルやヤードバーズの曲の演奏シーンを作り、言葉は悪いがうまくごまかして雰囲気を作っている。また、ここでもボウイの曲にしか聞こえないボウイにあらざる曲を主演のフリン(ミュージシャンでもある)が作って歌っている。

 その他、ボウイはあまり似ていないのにロンドンのシーンに出てくる当時の妻のアンジーやギタリストのミック・ロンソン、プロデューサーのトニー・ヴィスコンティ、マネージャーのトニー・デフリーズは似ている。とくにジェナ・マローンが演じるアンジーは、姿形だけでなくボウイ・ファンなら知るあの強烈なキャラクターも再現されて、それが物語の展開の大きなフックになっているところなど、脚本と演出が本当によく練られている。この映画の感想を存命のアンジー・ボウイ、トニー・ヴィスコンテンティにぜひ聞いてみたいものだ。

 このようなボウイ・ファンだけにわかる細工があった上で、実はこの映画はボウイに詳しくない人、それどころかボウイという名前も知らないような人が観たら、そちらのほうが主演がボウイに似てる似ていない、曲を使っていないなど(あえて)余計なことを考えずにすむ分、おもしろく観られるかもしれない。

 ボウイという強烈なキーワードを横に置くと、この映画で描かれているのはこういう物語だ。

 憧れのアメリカにやってきた繊細でトラウマを抱えた不遇の若者ミュージシャンが、相棒のアメリカ人とともに生のアメリカに触れ、挫折と失意を積み重ねる中で新しい自分を見つけていく。

 そう、この映画の本質はバディ・ムーヴィーであり、ロード・ムーヴィーだ。それもかなり良質の。

 1971年ロンドンとアメリカの習俗、音楽シーンを舞台にしたふたりの男の友情物語でもある。観ているあいだ、近年の映画では1960年代に黒人ジャズ・ピアニストと用心棒兼運転手の白人が一緒にアメリカを旅する『グリーンブック』(2018年:ピーター・ファイリー監督)を思い出した。

 この映画をボウイの一時期を描いた伝記映画だと思って観にいくとおそらくびっくりすると思う。がっかりする人ももちろんいるだろうけど、多くの人は予想の斜め上をいくおもしろい映画だと思うのではないだろうか。

 映画の最初に「事実にほぼ基づく物語」と示されるが、この“ほぼ”の部分がすばらしい。実在の人物であったデヴィッド・ボウイのはずなのに、この映画で描かれるボウイは文字通り“ほぼ”ボウイだ。本人だけでない。たとえばこの映画の中で宣伝マンが持ち歩くアルバム『世界を売った男』のレコードのジャケットは一見すると似ているけれど、よく見ると本物ではない“ほぼ”『世界を売った男』のジャケットだ。シングルのカンパニースリーヴ(昔のアメリカではシングルにはジャケットがつかずその会社の共通のスリーヴ〜袋に納められて売られた)も同様に“ほぼ”。ジギー・スターダストになってからの稲妻マークも、よく見るとちがう“ほぼ”マークだといった具合。

 なので、映画の中のいろいろなシーンも史実そのままとは思い込まずに、“ほぼ”だと思って観たほうが楽しめる。

 ニューヨークヴェルヴェット・アンダーグラウンドを観にいき、アフター・パーティーでルー・リードに賛辞を贈るというようなシーン(71年のヴェルヴェッツにルー・リード? と思うロック・ファンなら最高に楽しいシーンだ)やイギー・ポップを知ったきっかけも“ほぼ”史実だろう。でも楽しい。

 映画では描かれていないが、この1971年のアメリカ旅行では、ボウイはロスアンジェルスでレコード会社の地域担当のロドニー・ビンゲンハイマーにジーンヴィンセントアンディー・ウォーホールを紹介され、それがボウイの後のジギー・スターダストへの変身の大きなきっかけのひとつにもなった。その様子の一部は後にロスの音楽界の顔役になったロドニー・ビンゲンハイマーのドキュメンタリー映画『メイヤー・オブ・サンセット・ストリップ』(2003年:ジョージ・ヒッケンルーバー監督)で触れられている。ほんの一瞬、このときのロスでボウイが弾き語りをしたときの演奏の音も出てくる。機会があればぜひ。

 以下余談。

 この映画ではイギリスのシーンで、ミック・ロンソンらと共同生活を送っていたベックナムのハドン・ホールや、ジギー・スターダストが誕生したアイルベリーがうまく再現して出てくる。ハドン・ホールがあった地の現在の様子は『音楽遠足』第4回で紹介しているので、ぜひ見てみてください。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  若き日のデヴィッド・ボウイの足跡

[関連記事]

水俣の人々に寄り添う映画には坂本龍一による美しい音楽が流れる

ペット・ショップ・ボーイズの未来予想図