新たな人事制度の仕組みとして、職務内容(ジョブ)を特定して、必要な人員を採用・配置する「ジョブ型雇用」という言葉がブームになっている。

これまでの日本の大企業正社員は、新卒一括採用で職務内容を限定せずに採用し、定期的に職務内容を替えていく「メンバーシップ型雇用」が主流だった。賃金の値札も、ジョブ型はジョブに貼り、メンバーシップ型はヒトに貼るものであり、両者は概念的に大きく異なる。

メンバーシップ型雇用は人事評価の難しさから、年功序列に陥りやすく、いわゆる「働かないおじさん」を生み出してしまうことや、会社都合の異動などでキャリアの自律性が乏しくなる、などの理由でこの数年、「ジョブ型雇用」を推進する流れが強まってきた。

しかし、「メンバーシップ型雇用」「ジョブ型雇用」の名付け親でもある労働政策研究・研修機構(JILPT)の濱口桂一郎研究所長は新著「ジョブ型雇用社会とは何か:正社員体制の矛盾と転機」で、「おかしなジョブ型論ばかりが世間にはびこっている」と批判している。濱口氏のインタビューを前後編に分けてお届けする。(編集部:新志有裕)

●発信する側が、かなり意図的に曲解している

――新著では、ジョブ型雇用が「労働時間でなく、成果で評価される」と説明されることを批判していますが、どういうことでしょうか。

ジョブ型とは最初に職務(ジョブ)があり、そこにジョブを遂行できる人をはめ込みます。評価はジョブにはめ込む前におこなうものであって、後は遂行できているかどうかを確認するだけです。普通のジョブ成果主義はなじみません。例外があるとすれば、経営層に近いハイエンドのジョブについてです。

――では、なぜ「ジョブ型=成果主義」という誤解が生じてしまうのでしょうか。

誤解というよりも、発信する側が、かなり意図的に曲解している面がありますね。特に、私が槍玉にあげている日経新聞です。

最近亡くなられた中西宏明・前経団連会長は、本気でジョブ型を導入して、雇用システムを変えたかったはずです。ところが、周りにいる人たちはそう思っていなくて、ズレがあったのではないでしょうか。

本気でジョブ型を入れようとしているのかどうかの判断ポイントは、入口(採用)の改革です。メンバーシップ型とジョブ型というのは、「就社型」、「就職型」という概念に近いものなのですが、それだと入口を意識することになるため、多くのジョブ型論者はその言葉に触れたがりません。

しかし、結局、入口が新卒一括採用のままだと、メンバーシップ型雇用がベースになっていることに変わりはありません。

中西氏は、そこも含めて本気で変えようとしていましたが、中西氏以外の人たちは、入口に手をつけるつもりはなく、単に中高年の「働かないおじさん」が問題になっているから、年功序列をやめて賃金を抑制するための新制度として、ジョブ型を入れよう、としたのではないでしょうか。

それは、20年前に成果主義を導入したのと同じ狙いですね。ただ、成果主義は失敗して、印象が悪い言葉になっているので、ジョブ型という新鮮なイメージがする言葉を同じ文脈で使おうとしているのでしょう。

――なぜ、入口を含めて、全体を変えようという話にならないのでしょうか。

自社だけでは如何ともしがたいからですね。会社も大学もたくさん並んでいるOne of themに過ぎません。自社や自分の大学だけが行動パターンを変えても、仲間外れにされて損するだけです。社会制度はみんなが一斉に変えないことにはどうしようもないのです。

社会制度というのは、法律の素養のない人ほど誤解しがちなのですが、国家が法律によって押し付けている制度のことではなく、みんなの行動によって成り立っている制度のことです。「新卒一括採用をしなさい」なんて、法律のどこにも書いていません。

社会の無数のアクターが、それぞれお互い行動することによって成り立つ制度なので、みんなが作り上げる制度の中で1人だけが違う行動をとると、その人が損するだけなのです。

多くのジョブ型論者は、どうせ入口を変えようとしたところで無駄に終わるとわかっているので、できるところからやろう、と考えています。それは自社の社内制度の話ですね。つまり、年功序列の廃止だったり、「働かないおじさん」の扱いをどうしていくかという話です。しかし、これは、社会全体をジョブ型雇用社会にすることとは全く異なるものです。

●欧米のジョブ型でキラキラしているのは上澄みだけで、大半はノンエリート

――ジョブ型雇用は、キャリアの自律的な選択という観点から肯定的に語られることも多いようです。典型的なものは、社内でいえば、ポストの公募に手をあげることであり、社外でいえば、自分の新しいジョブを求めて転職することですが、これも間違いなのでしょうか。

先ほど説明したように、ジョブ型はハイエンドとローエンドで全然違うんですよ。ジョブ型のマジョリティであるローエンド層は、どういう仕事をするかを選択するという意味でのキャリア自律はありますが、その仕事を選んでやり始めたら、ひたすら続けるだけです。

このポストが空いたから応募して上がっていく、そんなふうにキャリアを上げていくのはマイノリティです。このことをキャリア自律というのであれば、それはジョブ型の社会ではありません。ジョブ型は、選んだ仕事以上に面倒なことはしない、ということでもあります。ジョブ型であっても、キャリア自律のない人たちに「勉強してよ」と言っても、しないのが当たり前です。

最近は慶應義塾大学の鶴光太郎教授が日経ビジネスの記事で「ジョブ型雇用はキラキラしてカッコいい」という考え方は大きな誤解だと言っていましたが、キラキラするのは上澄みだけです。本来は地味なんですよ。大半はキャリア自律なんかない。

逆に日本はすごく皮肉ですが、ジョブ型社会の一部のハイエンド層がたどるような道筋を会社の人事命令でみんなが歩まされます。

メンバーシップ型の日本では、新卒一括採用でスタートして、みんなが少しずつキラキラしながら動いていくわけです。ジョブ型の場合、中高年になっても昇進しないし、相対的にいうと日本のメンバーシップ型の方が年齢とともにキャリアが上がっていきます。そこを抜きにしたジョブ型論はナンセンスだと思うんですよ。

社会システムをジョブ型にするのは、実は大部分がノンエリートとして上がっていかない社会にしていくということです。その覚悟がジョブ型を唱える人にはないので、困ったものです。

ウーバーイーツのような「タスク型就労」が、ジョブ型雇用を直撃する未来

――ジョブ型雇用、メンバーシップ型雇用のどっちがいいのか、といったことが語られがちですが、テクノロジーの進化により、ウーバーイーツの配達員のように、機械的な指示で動く、全く新しい「プラットフォーム労働」と呼ばれる働き方も出ています。このような流れの中で、「ジョブ型雇用」をどう位置付ければいいのでしょうか。

はっきり言って、ジョブ型が新しいなんてとんでもなくて、古臭いんですよ。人類歴史的なレベルでいうと、産業革命でできたジョブ型は、AIやプラットフォームの出現で、大きな変動期を迎えているかもしれないのです。

ジョブとは何かというと、タスクの束なんですよ。なんで企業がタスクジョブにまとめて、労働力を調達して企業活動をするかというと、いちいち細かいタスクを指揮命令してやらせるのは取引コストがかかるからなんです。

ところが、情報通信技術が大幅に進歩して、AIで誰にどのタスクをやらせるかを割り振れる時代が見えてきました。プラットフォーム型というのは、人間がいちいち指揮命令せずに、タスク単位でコントロールする仕組みです。雇用でもないので、「タスク型就労」とでも呼べばいいでしょうか。

今後、会社で働く労働者の行動を全部AIが指示できるとすれば、大激変になります。まとまったジョブをやるという雇用契約で安定した生活を送れたのが、バラバラタスクになってしまいます。

今はウーバーイーツの話だけれど、AIが個々の労働者タスクの指揮命令をすることになると、中・長期的なジョブという契約に立脚して成り立っている社会は崩れるのではないでしょうか。

――その流れで考えると、ジョブ型にこそ大激変が起きるということでしょうか。

そうですね。要するに、あなたの仕事を一つずつ外注に回しますから、というふうになっちゃうかもしれない。「ジョブ型vsメンバーシップ型」なんてレベルの低い議論です。

ある意味、産業革命以前に戻るともいえます。一つのタスクを課せられて、ある程度請け負った期間はその仕事をする。終わったら、別のタスクをやる。職人や日雇い就労はまさにそういう社会ですよね。

上のレベルでは、大きなタスクを請け負い、たくさん稼ぐ人がいる一方で、下のレベルでは、バラバラタスクを日々その都度請け負って日銭を稼ぐという、産業革命以前の社会に近づくんじゃないでしょうか。

インタビュー後編「なぜ人事査定があるのに『働かないおじさん』が生まれるのか?」はこちら

流行りの「ジョブ型雇用論」が間違いだらけの理由 濱口桂一郎氏に聞く