「さあ、いくべ」「無理するこたぁねえシャ」動物文学作家が同行した“マタギ”の狩猟…野営地で過ごした一晩の出来事 から続く

 秋田県秋田市根子(ねっこ)。令和3年4月1日時点で56世帯120人が暮らす小さな農村は、阿仁(あに)マタギ発祥の地として知られる地域だ。現在、同地でマタギを専業とする者はいないが、この地でかつて暮らしていたマタギたちの伝説はいまも語り継がれている。

 ここでは、動物文学の第一人者・戸川幸夫氏が昭和20~30年代秋田県の阿仁マタギに密着した『マタギ 日本の伝統狩人探訪記』(山と溪谷社)の一部を抜粋。驚異の狩猟技術で、その名を轟かせていた伝説のマタギたちについて紹介する。(全2回の2回目/前編を読む

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一発の弾丸で3頭のクマを仕とめた15歳の竹五郎

 根子に幕末のころ村田竹五郎という名マタギがいた。12歳で既に一人前のマタギに伍して山入りをしていたという。15歳で元服(編集部注:成人として認められるために行う通過儀礼)したが、その年に彼は一発の弾丸で3頭のクマを射とめている。そのころの鉄砲は火縄銃だったから一発射てばすぐには射てない。だから彼は3頭のクマが遊んでいるのを発見したときすぐには射たないで、3頭が彼の方から見て一直線上に重なるのをじっと待った。3頭を重ね射ちにするつもりで火薬の量も多くした。とても15歳の少年とは思えない大胆さである。そしてとうとう3頭を仕とめた。後に彼はマタギの王といわれるほどになった。

 戌辰の役のとき、久保田(秋田)の佐竹藩は奥羽列藩同盟からはなれて官軍側についたというので、周囲から総攻撃をくった。このとき秋田のマタギたちは新組隊というゲリラ隊を組織して、日ごろ世話になっている秋田藩のために闘った。

 竹五郎も大いに奮戦したが、彼は射ってはねころんで弾丸をつめ、つめては起き上がって射つという射撃をした。それがまるで連発銃を発射しているように速かったという。

投でクマを滝壺に投げこんだ、竹五郎の孫・酉松

 竹五郎の孫の酉松も祖父の血をひいて名人だった。38、9歳の頃、山本郡と西津軽郡の境の山に雉(きじ)を射ちにいって大クマにばったり出あった。弾丸をつめかえる間がないので雉弾で射った。クマは崖下に落ちた。その下は滝壺になっていた。酉松はクマが死んだと思って降りていった。するとクマはむっくりと起き上がって咬みついてきた。酉松はこのクマを巴投で滝壺に投げこみ、重傷を負いながらひきずって帰ってきた。

 軍隊でも鉄砲の腕では彼の右に出る者がなかったが、名うての乱暴者で酒乱だったので営倉(編集部注:懲罰用の収容施設)に入れられることもしばしばだった。村でも鼻つまみだったが、佐藤忠俊さんに日本刀で脅かされて以来、彼には頭が上がらなかった。能代の女に騙されて怒り、村を出奔、マタギ特有のネバリで捜して歩き、数年後に、女が大阪で情夫と暮らしているのをとうとう見つけて山刀で叩っ斬って自首した。晩年は悪く、盲目になって東京にいたのを連れ戻され、淋しく死んだ。

傷あとをつけないよう鹿を射止めた「一発佐市」

 佐藤佐市は竹五郎時代の者だが、たった一発で獲物を斃(たお)して仕損じることがないので「一発佐市」の呼び名がついていた。無口で、向こうがものを言わなければ一日でも黙っていた。喜びも悲しみも顔に表わしたことのない男だった。

 佐竹の藩主が彼の評判を聞いて、その腕前を見たいと思い、藩主所有林で大シカ3頭を射とめてこいと命じた。佐市かしこまって退出しようとすると、敷物にするのだから弾丸の傷あとがあってはならぬ、傷あとをつけないように射とめてこいとの難題。

 殿様の方では難題を承知で出したわけで、佐市がどうするかと愉しみにしていた。数日たつと佐市は注文通りの大シカ3頭を車に乗せて運んできたので、調べてみるとなるほど弾丸あとがない。こんどは殿様の方がわからなくなった。

 そこでどのようにして獲ったか、との御下問に佐市の答えて曰くには、シカは危険が迫って逃げるときは白扇と称する尾を立ててゆくものである。そのときこちらで大声を発すると、ちょっと立ちどまる。その瞬間に肛門に射ちこんだのです、と。解体してみると佐市のいう通り弾丸は肛門から入って首のあたりで止まっていた。佐竹候は感心して、なるほど汝は評判通りの名人じゃ。一発佐市の名を公然と唱えるがよい。余の所有林(禁猟区)も汝に限り立ち入りゆるすと言ったと伝えられている。一発佐市は別に念入り佐市ともいわれ、自信がなければ絶対に射たなかった。半日狙って仕とめたという話もある。なかなかの堅人で女房以外の女性は知らなかったという。一発佐市が使用した火縄銃は、私が貰っていたが、私蔵すべきでないと思い、山形県博物館に寄贈、そこに展示されている。しかし銃そのものは決して立派な品ではない。こんなものでよく走っているシカの、しかも肛門に命中させたものと感心する。

「疾風の長十郎」「勢子の乙吉」

 山田長吉さんの祖父にあたる山田長十郎は疾風の長十郎といわれるほど足が速かった。戊辰の役のときに沢為量(ためかず)卿の命をうけて根子から久保田(秋田)城まで半日で往復した。途中に二つの山岳があり、直線にしても片道7、80キロある。まるで天狗が飛んでいるようで、途中で出あった木樵が妖怪だと怖れたという話が遺っている。長吉さんの話だと、70幾歳の老齢になってからでも平気で山に登り、野宿してきたそうで、凍りついた絶壁などを金カンジキをはいて木の枝の先を尖らした杖を手に、スキーの直滑降のようにすべってゆくと雪煙りで姿が見えなかったという。

 勢子(編集部注:狩猟において獲物を射手の元に追い込んだり、獲物以外の野生動物を追い出したりする役割)の乙吉は、それ以前の人だった。射撃は下手だが勢子としての追い出しにかけては名人で、まるでマタギ犬のようだった。彼は待ち構えている射ち手に、獲物を追い出すとは言わなかった。

「ここサ、つれてくるから待ってろ」

 と言った。待っていろと乙吉が指定した場所に必ず獲物が追われてきたという。後に旅先の娘に惚れられて、婿となってそこにいつき、根子には戻ってこなかった。

私が知り合った名人たち

 私が知りあったマタギの中にも名人級の人はいた。

 根子の佐藤富松さん(故人)もその一人だ。念入り佐市と同型の人で、クマを見ても決して驚かない。ゆっくり観察したあとで射つ。70歳ぐらいのとき単身ふらりと出かけてはクマを仕とめて帰ってきた。打当(編集部注:秋田県秋田市の地名)の鈴木松治さんはおとなしい人だが、頭射ちの名人で、彼の獲ったクマはどれも頭を貫通している。村田銃を片手にもって、ロープにぶら下がりながら、崖の中腹に牙をむいていた大クマを仕とめたこともある。

 仙北マタギの藤沢佐太治さんはクマとりサン公の名で呼ばれている。彼も名人マタギの一人で、彼がゆくところにクマの方から寄ってくる、といわれるほどクマの習性に通じている。これまで60数頭のクマを仕とめているが、一度も危い目に遭ってない。彼の説によると、

「クマと格闘したりして重傷を負いながら相手を仕とめるのは、ちょっと聞くといかにも勇ましいようだが、クマとりとしては上手なほうではないすべ。本当に上手だら射ちはずしはしないもんです」

 ということになる。彼は今日も健在だが、老齢のため山入りはやめたと聞いている。

頭の皮をペロッと剝がされた松橋三郎さん

 幸屋渡の松橋三郎さんも上手なマタギの一人だ。松橋さんは65歳のときに、きのこを取りに鍰内沢(からみないさわ)に一人で出かけた。

 大きな松の木があって、そこできのこをつんでいると、ホッホッホッとキジが鳴いた。

 これは仔連れの母仔グマだった。クマもきのこを食べにきたらしい。松橋さんがきたので母グマは心配して、仔グマを呼んだ。その声だったのだが、松橋さんはきのこ取りに夢中になっていたので、さほど気にとめなかった。

 すると、いきなり背後からどさっと母グマにかぶさられた。母グマは大きな掌を松橋さんの頭にひっかけた。その爪で、頭の皮がペロッと剝がれた。気丈な松橋さんは、マタギのたしなみで山入りのときには腰から離さない山刀をさぐった。クマは咬もうとする。首を仰向けにされたらひっくり返されるから、懸命に耐えた。ここで慌ててはお終いだと、腰をさぐっていると刀のつかに手がかかった。そこで山刀を引き抜いて腋の下から背後のクマを突き刺した。これがうまく心臓に入ったので、クマは唸りをあげてとび退き、200メートルばかり走ったあとで死んだ。松橋さんはそれを見とどけて、里に降り、人家のところまできて気を失ったという。

【前編を読む】「さあ、いくべ」「無理するこたぁねえシャ」動物文学作家が同行した“マタギ”の狩猟…野営地で過ごした一晩の出来事

(戸川 幸夫)

根子/狭い田ではあるがよく拓かれ、村人の勤強さが物語る('55年8月)