ゲーマーであれば、ことの大小を問わず「ゲームに救われた」経験のある方は少なくないのではないかと思う。
 ところで、あなたが救われたそのゲームは「日なた」「日陰」か、どちらに属するだろうか?

 まったくの主観的な意見で恐縮だが、ゲームに限らずこの世の作品は「日なた」に属するか、「日陰」に属するかという二分法で分けることもできるだろう。
 そう区分したとき、暗く、そして決して前向きとは言えない物語を表現する「日陰の作品」に心を救われる、という体験は一見理解しづらいことかもしれない。

 しかし、日陰に生きる者にこそ、そうした「日陰の作品」が必要なのである。日陰に生きる人間にとって、日なたの作品はあまりに眩しすぎるのだ。それは言い換えるなら、「昼の光に、夜の闇の深さがわかるものか」ということでもある。

 次世代のゲームクリエイターにスポットを当てる連載「新世代に訊く」の第5回は、学生時代を“日陰のゲーム”に救われ、自らもまた日陰に生きる人々の心を動かすためにゲームクリエイターとなった男の話だ。
 
 お話を伺ったのは、フリュー株式会社でオリジナルゲーム制作を手がける林風肖氏

林風肖氏

 学生時代は文字どおり「ゲームに生かしてもらった」と語る氏は、なんと中学3年生からゲームを制作する筋金入りのゲームクリエイターだ。
 現在ではプロデューサー、ディレクター、企画、シナリオと、ゲーム制作におけるさまざまな行程を引き受け、20代の頃からフリューのオリジナルゲームの制作をけん引してきた。

 そんな林氏が手掛ける完全最新作が、2021年10月14日に発売される学園RPG『モナーク/Monark』だ。

 精神を狂わせる謎の霧と不思議な力場によって外界から遮断された「新御門学園」を舞台に、主人公は学園の異常事態を解決するために発足された「真生徒会」の副長として「バディ」とともに戦う。
 「エゴに従え。狂気を統べろ。」という挑戦的なテーマも特徴だ。

 林氏は「この世はひねくれていて、理不尽で嫌なことしかない」と語る。もちろん、そうとは感じない方もいるだろう。
 しかし果たして、そう思っている人に「頑張っていれば、きっといいことがあるよ」という類のメッセージがその人の心の奥底まで届くのだろうか。そうした言葉や表現では救われない人々が、この世にはたしかに存在するのだ。

 『モナーク/Monark』は、そんな人々に向けて作られたゲームだ。ひとは闇のなかだからこそ輝く。闇にいるからこそ輝く光が尊くみえる」。そう語る林氏は、まさに新世代の光と言えるのかもしれない。

聞き手/TAITAI
文/tnhr
編集/実存伊藤誠之介

『モナーク/Monark』公式サイトはこちら連載企画「新世代に訊く」記事一覧はこちら

※この記事は『モナーク/Monark』の魅力をもっと知ってもらいたいフリューさんと電ファミ編集部のタイアップ企画です。

文字通り「ゲームに生かしてもらった」中学時代

──林さんはかなり若い頃からゲームを制作していたとのことですが、いつ頃からゲーム制作に関心を持ったのですか?

林氏:
本格的ではないですが、ゲーム制作は中学3年生の時から行っていました。そのころに遊んだゲームの影響を受けて作り始めた感じです。

──具体的にどのようなゲームに影響を受けたのでしょうか。

林氏:
 特に影響を受けたのは真・女神転生if…ドラッグオンドラグーンKanon『月姫』です。まあ『Kanon』と『月姫』は際どいラインですが……(笑)。

 中学生の時は人生のなかで最も辛い時期で、学校や家の中で嫌な思いをたくさんすることがありました。
 実際に起きたことを口にするのもはばかられますが、学校では同級生とかに半殺しの目に遭ったり、殺されかけたりしていました。口にすると単純になってしまって凄く嫌ですが……。

──半殺しというのは、物理的にですか?

林氏:
 物理的にですね。

──いわゆる不登校になったりというのはなかったのですか?

林氏:
 なかったです。「憐れまれたくない」という気持ちが先回りしてしまって。だから、自分が辛い状況にあることを相談することもできなかったです。

 端的にいうと中学生時代はすごく辛くて、本当に死んだほうが楽なんじゃないのかと頭をよぎる瞬間もあったんです。でも、なぜか「死んでたまるか」とも思ったんです。
 死にたくなる毎日なのに「生きる意義」はあるのかなと、ふわふわと考えていました。辛いけど目的もなく、なんのために俺は生きるのを耐えているんだろうと思っているときに、少なかった友達から「これ面白いよ」とゲーム機を借りたんです。

 その時に遊んだゲームが『真・女神転生if…』と『ドラッグオンドラグーン』、『Kanon』、『月姫』でした。
 『真・女神転生if…』のハザマや『ドラッグオンドラグーン』のカイムが、自分の抱えていたストレスの代替行為をしてくれる存在になってくれたんです。結論からいうと、それにすごく救われました。

──当時はゲーム以外のコンテンツには惹かれなかったのですか?

林氏:
 小説とか映画とかマンガも好きだったんですけど、終わったあとに号泣して、それがしばらく残るくらいの体験は、ゲーム以外になかったんです。

──これまでにない最大の感動がゲームだったと。

林氏:
 そうなんです。特に人生の最大の感動体験を与えてくれたのが『Kanonだったかなと思います。『月姫』も同様に感動したし、何よりこれが個人制作で作られたというところに衝撃がありました。

──その感動がゲーム制作につながっていくんですね。

林氏:
 はい。それまでは、ゲーム制作というものは一般的なプレイヤーには手が届かない存在で、どう作ればいいのか全然わからないものだと思い込んでいたんです。
 けど、ごく少数で作ることもできるんだというところに感銘を受けて。中3ぐらいから勉強をしはじめてゲームを作ろうとしていました。

 これだけ感動できることがあったり、遊んだあとに救われることがあるものに携わることができて、その感動を自分でも再現できるようになれば、生きる意味があるし、今は辛くても生きる価値があるんじゃないかと思えたんです。

 こういうゲームを作れる人間になって、今の自分と同じような人間の背中を少し押してあげられたり、少し救いを与えられるような、そんな存在になれる可能性があると思うと、「生きなければいけないな」と決心できたんです。

「エンタメで救われる」とは、いったいどういうことなのか

──少し話が戻るのですが、『真・女神転生if…』のハザマがどのように林さんの気持ちを代替してくれたのか、具体的にお聞きしたいです。

(画像は真・女神転生if… | ソフトウェアカタログ | プレイステーション® オフィシャルサイトより)

林氏:
 『真・女神転生if…』を遊んだ時の最初の印象は、「すごくエキセントリックなゲームだな」というぐらいでした。

 当時の僕にとって、「学校は理不尽の巣窟だ」ということが当たり前だったんですよね。自分で選んで入った場所でもないのに、いろんな人がいてそれに苦しめられていたので。

 そんな中で『真・女神転生if…』の「学校を舞台に突然悪魔がわいてきて、突然理不尽に戦う」というシチュエーションに、すごく共感できたんです。理不尽にあらがいつつ戦う主人公たちのことを「わかるなぁ」と思いながら遊んでいました。
 そして、ハザマの過去がレイコルートでわかるんですけど、それを見たときに、今までにやった行いが正しいとかいいとかぜんぜん思わないんですけど。ポロポロと涙が流れてきたんです。

 『if』ってタイトルは言い得て妙だなと思いました。「自分も確かにこうなる可能性があるかも」と感じたんです。僕はあの時に、追い詰められた人間の魂を見たんですよね。
 ハザマの中に、思いつめられた人間が露出する人の本当のあり方、本物の気持ち、本物の感情みたいなものが見えたんです。それにすごく感銘を受けるほどの衝撃がありましたね。

──林さんが救われたそのエピソードが、明るい話ではなくむしろかなり暗い話なのが興味深いですね。 

林氏:
 日の当たっているものに触れる余力がないくらい、当時の自分が日陰に追い詰めらていたんです。
 自分には日陰からはじまる物語というか、闇の中で輝く話のほうが共感できて触れやすかったというのがありましたね。

──そのような日陰の作品に共感する人は一定数いると思うんですけど、自分は日なたの作品に共感することのほうが多くて、なんでなのかなと疑問に思うことがあるんです。
 具体的にどういったところに共感しているのか、どこに感情移入しているのかというのを詳しくお聞きしてもいいですか。

林氏:
 これは当時の僕の話なんですけど、何か辛いことがあるときに、触れるものの後ろに辛いものの影が見えると、嫌だなと思うんですよね。
 たとえば当時の僕でいうと、嫌な思いをさせてくる相手が好きだったものには触れたくないというのがありました。

 週刊少年ジャンプでやっている王道な作品の後ろとかにも、その存在の影がチラチラと見えると素直に楽しめないんです。そういった影がなくて、自分に寄り添ってくれるコンテンツを欲していたというのはありますね。

──エンタメに触れるときって、主人公や設定のことを「どれだけ自分ごとのように思えるか」というところで、作品への思い入れに差がつくじゃないですか。林さんはかなり自分ごとに思えるタイプですよね。そうであるがゆえに、最初の入り口の条件が重ならないと入り込めないのかな、とも思います。

 だからこそ、『真・女神転生if…』の話はすごく納得がいくんです。林さんにとっては『真・女神転生if…』の物語と同じように、「学校そのものが異世界のようなもの」という感覚があったんですよね?

林氏:
 そうなんですよ。それで言うと、「世の中は理不尽で狂っている」ということを大前提にさまざまなことに共感ができるものというのが、僕が共感して好きになってきたコンテンツだし、僕の作り続けるものなんだろうなと思いますね。

 その意味では『Kanon』とかも理不尽なところがあると思っています。そもそもルート分岐って、リアルな理不尽さだなと思うんですよ。
 あるルートではそのヒロインは救われるけど、別のルートでは救われない。それって残酷じゃないですか。そこがこの世の理不尽をそのまま映し出しているなと思っているんです。

 極論を言うと、「ひとつを選んだら、もうひとつは得られない」というのが、この世の本来のありかたで。それは変えようのない普通の理不尽だと思うんです。そういうのを無視して最初から大団円みたいなのって、やっぱり冷めちゃうんですよ。
 それは僕の知っている世の中の常識ではないというか。僕が知っているこの世の中って、もっとひねくれていて、理不尽で、嫌なことしかないものなので。

──エンタメにおいて「救われる」ってよく使われる言い回しですけど、そのメカニズムって、なかなか言語化されづらい部分ですよね。林さんとしては「救われる」ってどんなイメージなんでしょう。

林氏:
 いろんな救われ方があると思いますが、人の魂を揺さぶるもの、たとえば強い熱量、強い刺激そのものが救いになるはずです。相手を尊重する刺激であれば、それは充電するエネルギーになるはずだと思っています。

 僕のケースで言えば、「前に向かおう」とポジティブに思う以前に、心が落ち続けてどうしようもなかった。そんなときに、ハザマのあり方を見て、なぜか心が落ち着いたんですよね。ゲームをプレイして、心の狂乱が治まったんです。

──なるほど。

林氏:
 モナークのコンセプトにも近いものがあるんですけど、何かのコンテンツに触れることによって、自分の中で荒れ狂っていた“狂気的なもの”に、調和がもたらされたというのがあった気はしますね。

電気ショックのような刺激で、生きていることを思い出す

──たとえば『ジャンプ』のような王道マンガは、基本的には前向きじゃないですか。一方で『ドラッグオンドラグーン』などのヨコオタロウさんの作品なんかは、受け手を必ずしも良い気持ちにさせようとはしていないと思うんです。

 以前ヨコオさんに「ゲームを作る目的は何なのか?」というお話を聞いたときに、「結局どうであれ、感情が動くことが目的である」と語っていたんですよ。
 もちろん、できれば「感動した」とか「気持ちいい」とか「嬉しい」とかに持っていきたいと思う一方で、ポジティブでなくてもそれはそれで救われることがあるはずなんですよね。

(画像はドラッグ オン ドラグーン | SQUARE ENIXより)

林氏:
 どういう形であれ、感情が動けば救われるひとがいるのって不思議ですよね。

 これは自己分析になるんですけど、辛いときは心が死んでいくというか、心が動かなくなることがあるんです。そういうときに、人が蘇生する時にAEDや電気ショックを受けるような感じで、感動が動く体験が生きてくるんだと思います。

──とにかく反応させる、みたいなことでしょうか?

林氏:
 そうですね、「生きろ!お前は生きているんだ!」みたいな。ビンタでもなんでもいいから、「お前は死んでないぞ」ということに気づかせてくれる刺激ですね。

 自分は死んでいない、生きているんだとハッとさせてくれる体験の数々が、日陰のゲームにはあったんだと思います。

──そう言われると説得力がありますね。それがどういうベクトルだろうが、電気ショックを受けてハッとするみたいな経験ですか。

林氏:
 「生きていた、これが現実なんだ」という瞬間ですね。ゲームをクリアした後って、夢の中にいたような気分なのに、世の中の解像度が上がっていると感じる瞬間が多いじゃないですか。その理由もそこにある気がします。

──それは知識が得られるとかいうことではなくて、感覚が戻るとか、感覚が自分の中で動くことによって得られる体験ですよね。

林氏:
 覚醒体験みたいなものですよね。衝撃による心の覚醒というのは、確かにあると思います。

──嫌な思いをするエンタメやコンテンツって何なんだ? というのがずっと疑問だったんです。でも一方では、それにも価値があるということも、肌感覚としてはわかっていたんですが。

林氏:
 ショック療法的に気持ち良さを得るんですね。電気ショックでしか救えないから、死にかけのものにこそ効果が発揮するのかもしれませんね。

ゲームとは、人間じゃない相手だからこそできる対話である

──林さんにとってそのような感覚は、ゲーム以外では得られなかったのですか?

林氏:
 得られなかったですね。たぶん、没入感がぜんぜん違うからだと思います。その理由もシンプルで、自分が操作するわけじゃないから、その世界で生きている感じを得ることができないんです。
 ゲームは唯一、生の体験ができる場所なんだなと僕は思って、救われてきました。

──さっきの電気ショックの話で言うと、アニメとか映画とか小説とかでは届かないショックの切り口が、ゲームにあるという話だと思います。それは具体的に言うと、ゲームのどのような特徴が該当するんですか?

林氏:
 「自分の選択に責任が伴う」ということが、大きな特徴と思います。自分の選択次第で人が死んだり死ななかったりするのは、なかなか大きなインタラクティブだと思いますから。

──『モナーク』でも、主人公のセリフはすべて選択制ですよね。能動的であることだけでも十分だと思う部分もあるのですが、なぜあの演出を採用したのですか?

林氏:
 ボタンを押さなかったら進まない」というのも、ひとつの選択だと考えているからです。自分が働きかけることでようやく世界が動くというのは、ゲームならではだと思うところが大きいので。だからこそ、その面白さや責任を強調したということです。
 ゲームで何かを選択するということは、世界の手触りを感じられることなんじゃないですかね。

──選択によるインタラクティブ性が、アニメや小説では刺激されないところに作用するわけですね。

林氏:
 感覚で言うと、ゲームの世界そのものに触っている感じがあるんでしょうね。プレイヤーが神様のような存在になれる点と近いと思います。それこそ1クリック1クリックが、時間を進める行為として世界に干渉できますし。

 でもこれは全能感による強さを味わえるということ以上に、自分を肯定してくれるという感覚のほうが強いと思いますね。対話による肯定が、ここにはあるんです。

──「対話による肯定」とは、つまりどういうことですか?

林氏:
 ゲームって「自分がいるから完成する世界」という側面が強いんですよね。プレイヤーがいないと完成しないし、そもそもプレイヤーがいることが前提の成り立ちなので、その世界に歓迎されているというか、肯定されている感じがするんです。

 ちょうど思い出したんですけど、「命」という字の成り立ちは「人を一叩きする」ってところからきているという話があるんです。ゲームを遊んだ後に、生きている感じを味わえるあの感覚は、その言葉の成り立ちに通じるものがあるのかも……という意識がありました。

──もう少し詳しくお聞かせください。

林氏:
 まず、人間の自我は作用と反作用──つまり、アクションとリアクションの中で生まれるものであるという前提があります。作用と反作用を繰り返すときに相手の感情が動くポイントに触れて、何かを動かすことによって、生きている感覚を味わえることが多いと思うんです。

 僕が、ゲームじゃないと人の心が揺れ動くポイントに触れられないと考えている理由は、「ゲームには裏表がない」ということが大きいと思います。

 ゲームとの対話には裏表がないし、相手を邪推したり、相手におびえることもないと思うんです。だってゲームは突然画面から飛び出して襲いかかってきたりはしないじゃないですか。

──たしかに。

林氏:
 つまりプレイヤーはゲームを遊べば遊ぶほど、そのゲームに対して心を開いていくことが多いんじゃないかと思っているんです。
 ゲームとの対話を通じて、安心して自分の心や魂や感覚と、ゲームとの接点を増やしていくんです。その接点が増えてきたときに、バンと叩かれる。それによって自分の存在や自我を再確認できるという考えです。

──本当に人が落ち込んでるときや鬱のときって、出口がない感じだというじゃないですか。他人と話せないぐらいの状態の人が、ゲームに対してならむしろ壁を突破していけるというのは、すごくよく分かります

林氏:
 実際、自分も人間不信だったときに、ゲームのキャラクターに救われるということがありましたから。人間は怖い、リアルは裏表があって怖い。それに対して虚飾の存在だからこそ、信じることができたんです。
 人じゃないということは、嘘もないということですから。ゲームが人じゃないからこその対話ですよね。