(柳原三佳・ノンフィクション作家)

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 10月19日午後、JR新富士駅において、本連載の主人公である「開成を作った男、佐野鼎(かなえ)」の顕彰碑除幕式がとり行われました。

 お披露目された碑の前には『祝 富士市が生んだ開成学園創立者 佐野鼎先生顕彰碑除幕式』と記された看板が、晴れ晴れしく掲げられています。

 今年、創立150周年を迎える「学校法人開成学園」によって建立されたこの顕彰碑には、佐野鼎の故郷のシンボルである富士山と、遣米使節として乗船した米軍艦「ポーハタン号」を背景にしたレリーフ、そして佐野の49年間の生涯を記した撰文が刻まれています。レリーフは開成学園の美術教諭で日展特別会員の大友義博氏、撰文は同学園の教諭で歴史学博士の松本英治氏によって制作されました。

 実はこの日、富士市では朝から強い雨が降っており、誰もが「今日は土砂降りの雨の中、傘をさしての除幕式になるかもしれない・・・」と覚悟していました。それだけに、午後から予定されていた式典の前に雨が上がり、うっすらと冠雪した富士山が見事な姿を現してくれたことには驚きを隠せませんでした。

 除幕式に出席した富士市長の小長井義正氏は、祝辞の中で、

「顕彰碑の中の凛々しい佐野鼎先生のお姿、その背景には富士山が描かれています。どの時代、どの場所においても、富士山というのは人の心のよりどころであったのではないかと改めて思う次第です」

 と述べ、この顕彰碑にかける思いについてこう語りました。

「今回、この地に顕彰碑が建立されたことで、佐野鼎さんという偉人がこの富士市で生まれ育ったということを市民の皆様が知ることとなり、それが郷土愛、そしてこの地域への誇りにつながっていくものと確信しております」

富士市で生まれ育った幕末の偉人・佐野鼎

 佐野鼎の顕彰碑が富士市に建立された理由については、2021年4月に執筆した本連載(第51回)をご覧ください。

(参考)今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65000

 この記事でもお伝えした通り、開成学園の創立者である佐野鼎は、幕末の文政12(1829)年、駿河国富士郡水戸島村(現在の静岡県富士市水戸島)に生まれ、17歳で江戸へ出るまでこの地で過ごしました。

 佐野鼎の足跡は、日本のみならず世界各国に残っていますが、出身地はあくまでも富士市です。

 今年4月、富士市と開成学園の間で締結された協定書には、

富士市と開成学園が連携し、それぞれの資源や機能などの活用を図りながら幅広い分野で相互に協力し、人材の育成に寄与することを目的とする』

 そして連携協力事項として、

『教育・文化、佐野鼎に関する研究を通じた関係者等との人的交流の推進』

 などが掲げられています。

 今回の顕彰碑建立は、その取り組みの大きな一歩として、「静岡県東部開成会」「駿河郷土史研究会」、そして開成OBを主要メンバーとして構成される「佐野鼎研究会」の後援を得て実現したのです。

開成OBの岸田文雄首相からもメッセージが

 除幕式には、開成学園の卒業生として、今月、初の内閣総理大臣に就任した岸田文雄氏からもお祝いのメッセージが寄せられました。

「佐野鼎先生は、幕末の混沌とした時代に、遣米使節、遣欧使節の一員として海を渡り、帰国後、開成学園の前身『共立(きょうりゅう)学校』を作った人物として知られており、生誕の地が富士市であることが縁となり、富士市と連携協定が結ばれたと伺っております。このたび、この地に顕彰碑が建立されることは、将来にわたり、両者のよりよい関係を築くうえでも大変意義深いものと感じております。私も開成高校OBとして大変嬉しく思うとともに、今後も応援してまいりたいと考えております」

 岸田氏の言葉にもある通り、佐野鼎は日本初の万延元年遣米使節、文久遣欧使節の両方に随行し、異国の地で見聞を広めた数少ない日本人(6名)の中の1人です。

 現在放送中のNHK大河ドラマ『晴天を衝け!』では、1867年、主人公の渋沢栄一が遣欧使節としてパリ万博を見学する場面が描かれていましたが、佐野鼎はその7年前、すでにワシントンホワイトハウスに足を踏み入れ、フィラルフィアやニューヨークで最先端の教育制度を視察していました。そして、1862年にはロンドン万博を視察し、当時世界から注目されていた「アームストロング砲」の設計図まで入手していたのです。こうした事実はあまり知られていないのではないでしょうか。

 佐野鼎顕彰碑は、東海道新幹線のJR新富士駅、北側出口を出てすぐ左側の富士山口構内に建っています。改札口から歩いて1分で到着しますので、ぜひ一度、見学してみてください。

 幕末から明治期を生きた佐野鼎の人生については、彼の傍系子孫にあたる筆者が3年前に上梓した『開成を作った男 佐野鼎』(柳原三佳著/講談社)でも詳しく紹介しています。この本を片手に、生誕地である富士市から世界へと羽ばたき、現在の開成学園につながる学校創立までの激動の足跡を辿ってみていただきたいと思います。

<佐野鼎先生顕彰碑の撰文(開成学園教諭 松本英治氏)>

 佐野鼎先生は、文政十二年(一八二九)駿河国富士郡水戸村(現静岡県富士市)に生まれた。長じて江戸に出て幕臣下曽根信敦の塾で西洋砲術を学び、その塾頭を務めた。また、長崎海軍伝習に参加し、蒸気船の運用や航海術を学んだ。

 安政四年(一八五七)加賀藩に召し抱えられた。万延元年(一八六〇)遣米使節に随行して渡米し、ついで文久二年(一八六二)遣欧使節に随行して渡欧した。両度にわたる海外経験を経て、帰国後は新進気鋭の洋学者として加賀藩に重用された。

 維新後は、明治三年(一八七〇)兵部省に出仕した。明治四年(一八七一)神田淡路町に共立学校を創立し、英語教育を中核に据え、新たな人材の育成に心血を注いだ。しかし、明治十年(一八七七)病に倒れ、志半ばにして死去した。

 共立学校は、佐野鼎先生の死後、高橋是清先生がその運営を継承した。明治二十八年(一八九五)校名を開成と改め、大正十三年(一九二四)校舎を日暮里に移転し、現在の開成学園に至っている。

[もっと知りたい!続けてお読みください →]  今年も東大合格首位の開成、富士市と協定結んだ理由

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