代替テキスト
(C)JMPA

出会いから実に9年、婚約内定から4年―――。10月26日、ついに眞子さま小室圭さんとの結婚を成就させる。

しかし、小室家の金銭トラブルが未解決ということもあり、秋篠宮さまは小室さんに対し厳しい姿勢を崩していない。小室さんは18日と24日にも赤坂御用地を訪れたが、いずれも秋篠宮家のお住まいではなく赤坂東邸に通されたという。小室さんは秋篠宮邸に入ることを許されなかったようだ。

秋篠宮ご夫妻の姿勢とは対照的に、眞子さまを温かくもてなしたのは天皇皇后両陛下だった。10月22日の夕方、眞子さまは両陛下との面会のため御所へ。宮内庁によると、面会時間は1時間10分ほどだったという。

「途中で愛子さまや犬の由莉も加わり、とても和やかな雰囲気だったそうです。とりわけ雅子さまは、長らく適応障害の療養を続けていらっしゃるため、眞子さまの状況は気がかりだったでしょう。アメリカでの生活についてアドバイスされるなど、親身に相談に乗られたのではないでしょうか。帰りの眞子さまの表情が晴れやかだったのは、両陛下の思いやりをお感じになったからかもしれません」(皇室担当記者)

眞子さまは、雅子さまとはあまり接点がなかったようにも見える。だが、皇室ジャーナリストによれば、眞子さまと秋篠宮さまとの“亀裂”の原点には雅子さまの存在があったという。

「雅子さまは’03年12月に体調を崩され、翌年には適応障害と診断されました。療養のためにご公務への出席を控えられるようになりましたが、その期間が長引くにつれ、一部から“皇族の義務を果たしていない”“遊んでばかり”などと心ない批判を浴びる事態となりました。眞子さまは当時、雅子さまへのバッシングに非常に傷つかれていたようなのです」

秋篠宮家の側近の皇嗣職大夫は、眞子さまの複雑性PTSD公表に際して「中学生のころから、身近な方々やご自身に対する誹謗中傷と感じられる情報を日常的に目になさり、精神的な負担を感じておられた」と話している。

眞子さまが中学生だった時期は、ちょうど雅子さまが適応障害での療養を始められたころと重なる。

■雅子さまを苦しめた皇室の“不自由”

ご療養の初期、天皇陛下(当時は皇太子)は会見で「雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」とご発言。外務省での経験を生かした国際親善より“お世継ぎ”を産むことばかりが求められ、雅子さまが苦しめられていたと示唆されたのだ。

また陛下は「新しい時代を反映した活動を行ってほしい」と、雅子さまの個性を生かしたご公務のあり方も提言されていた。

だが、秋篠宮さまの反応は冷淡だった。「せめて陛下(いまの上皇陛下)とその内容について話をして、その上での話であるべきではなかったか」と、記者会見での発言に苦言を呈された。さらに「公務というものはかなり受け身的なもの」と、新たなご公務についても否定的な発言をされたのだ。

皇室は、国民に寄り添うことが第一とされてきた。上皇陛下は美智子さまに、結婚に際して「公的なことが最優先であり、私事はそれに次ぐもの」と告げられたという。だが、眞子さまはそんな皇室のあり方に疑問を持つようになっていたのかもしれない。

「皇族は“私”を抑えつけてまで“公”に奉仕しなければならないのか――。雅子さまへのバッシングを目の当たりにして、中学生の眞子さまはそうお感じになったのではないでしょうか。そして、どん底にいらした雅子さまを助けようとされる陛下に対し、はしごを外すような発言をされた秋篠宮さまのお考えにも、納得されていなかったはずです。

そのころから眞子さまは、皇室の中にいては自由に生きられないと考え、結婚して皇室から“脱出”することを思い描かれていたのかもしれません」(前出・皇室ジャーナリスト)

象徴天皇制を研究する名古屋大学大学院准教授の河西秀哉さんは、皇室のあり方も時代に合わせて変わるべきだと語る。

宮内庁には、よりきめ細かな情報発信が望まれます。ネットの声に対しても、場合によっては情報開示や提訴など、積極的な対応が必要かもしれません。私たち国民も、皇族の“私”があることを意識するべきだと思います。もちろん天皇制がある以上“公”の役割は残り続けます。私たちにとって象徴天皇制はどうあるべきなのか考え、公私のバランスを問い直す必要があると思います」

皇室からも、日本からも離れて、「小室眞子さん」は何にも縛られず羽ばたいていく――。