◆安倍・菅が壊した総理大臣の「当たり前」

 衆参両院の代表質問を見ていて驚いたことがある。

 与野党の質問者が議場中央の演壇で質問演説をするあいだ、岸田文雄首相が顔だけではなく体ごと演壇に向け、質問者の顔を見ているのだ。しかも、時折、うなずいたり首を横に振ったりしながら質問に対する傾聴姿勢を体全体で表現している。なんということだ。内閣総理大臣が、国会の質問を真剣に聞いているではないか!

 安倍・菅両政権のこの9年間、代表質問の際の内閣総理大臣といえば、退屈そうな顔をしてペンで指あそびをしたり手元の紙を弄ったりするのが常態化していた。そしてこの醜悪な総理の態度を「総理大臣は多忙を極める。その総理が退屈な国会審議に臨んでいるんだから退屈そうな顔をして当然だ」という声や「総理大臣ともあろうお方の貴重なお時間を、国会審議ごときの非生産的な時間に費やすとは何事か」との声で擁護する向きさえあった。

 しかし本来は違うのである。過去の国会審議動画を見て再確認したのだが、総理大臣がこのような態度で国会に臨むようになったのは、第二次安倍政権以降に過ぎない。傲岸でならす麻生太郎でさえ、総理大臣時代は、今の岸田首相と同じく、顔を演壇に向け頷いたり首を捻ったりして傾聴姿勢を表現している。ほんの10年前まで、それが当たり前だったのだ。

 国会は国権の最高機関。主権者たる有権者が選出した代表たちが座る場所なのだから当然だ。その国会議員たちが国権の最高機関たる国会の議事運営を円滑なからしむるために議長を互選し、然る後、国政の執行分野を担当する公僕の長としての内閣総理大臣を選出する。あくまでも、議員が主人公。そして議長がコンダクターである。

 いかに権限や権力があろうとも、内閣総理大臣は国権の最高機関たる国会にその職務内容を報告しその報告内容を吟味“していただく”下僕にすぎない。それが議会制民主主義と議院内閣制の根幹思想だ。衆参両院の本会議場における閣僚席が国会の主人公である議員席から見て左側、つまり下手側に設置されているのはこの根幹思想を具現化しているからに他ならない。だからこそ歴代の内閣総理大臣は、代表質問の際に全身で傾聴姿勢を表現した。それが当たり前なのだ。

 安倍内閣・菅内閣の9年間でその「当たり前」が崩れた。しかし逆に言えば、「当たり前」が崩れたのは安倍・菅たった2代の話であり、安倍・菅の9年間が異常だったに過ぎないということでもあろう。ただ、この9年間でその異常さが常態化してしまった。国会を見ている我々が異常さに慣れてしまったのだ。だとすれば、本当に驚くべきことは、代表質問に傾聴姿勢を示す岸田首相の姿ではなく、その姿を見て驚いてしまっている自分自身の姿なのだろう。当たり前の職責を果たす内閣総理大臣を見て驚くほどまでに、劣悪な状態に慣れきってしまっていたのだから。

◆岸田内閣の支持率が低い理由

 岸田内閣の支持率は低い。報道各社は50%台の数字を報告している。新内閣誕生直後にここまで内閣支持率が低いのは麻生内閣以来のこと。これではとても「ご祝儀相場」とは呼べない。しかしこれを不思議に思う必要もないだろう。

 この9年間、内閣総理大臣といえば、目つきと態度が悪く、教養なさげで、落ち着きのない、いわばゴロツキのような人間が就任するものと相場が決まっていた。内閣総理大臣だけではない。大阪を見よ。名古屋を見よ。テレビメディアが「辣腕政治家」として取り上げる連中はみな同じようなキャラクターだ。ゴロツキのような連中が政敵や反対勢力をダミ声で攻撃することが政治であるとされ、安倍晋三のように内閣総理大臣でありながら閣僚席から国会議員に対してヤジを飛ばす分を弁えない無礼な人間こそを「改革者」として持て囃すことが通例となっていた。およそ自分の会社にいるはずのない、まともに会社勤めなど続きそうもない、下品で無教養な人間こそが政治の世界では栄達するという相場感が、この10年で出来上がってしまっていた。

 そこに岸田文雄が総理に就任した。自分の会社にもいそうな、近所にもいそうな、そして良き社会人でありそうな政治家が総理になったのである。人の話を聞き、手元の紙を読まずとも正しい日本語で会話ができる最低限の知性を有した人物が総理に就任した。この10年間の相場と大違いではないか。この10年で出来上がった相場から有権者はそこに驚いているのだろう。驚きのあまり、“ご祝儀”を払い忘れてしまっているのだ。

◆変わらない野党支持者たち

 一方、文字通り十年一日の如く、変わらない人々がいる。野党の皆さんである。いや、もっと厳密に書こう。野党ではない、野党支持者の皆さんである。

 政党としての日本共産党はこの2年で大変革を成し遂げた。日本一の老舗政党が老舗政党とは思えぬ柔軟さで全く別の姿になった。もはや志位氏の言動など、往年の自民党ベテラン議員の如く柔軟であり味わい深いものになっている。

 立憲民主党も同様。確かに枝野代表の煮えきれない態度に様々な批判はあろう。だが少し考えてほしい。立憲民主党は昨年、国民民主党および社民党と部分合併した。それに伴い、多種多様な人々が党内に流れ込むことになった。政治家はまだしも、党本部の事務職などはさらに苦労が多い。なにせ組織文化の違う三つの政党が部分合流したのである。あたかも第一勧銀・富士銀行・興銀の三行が合併した直後のみずほ銀行のような様相を呈している。

 さらに見落とされがちなのは、今我々が目にする「立憲民主党」なる政党は確かに野党第一党ではあるものの、これまで一度も国政選挙を経験したことのない政党であるという点だ。2017年衆院選で生まれた立憲民主党は、昨年の国民民主党との合流の際、法人としては消滅している。

 今ある立憲民主党はあの時にできた新法人であり、この新法人は、直近の国政選挙である2019年参院選さえ経験していない。生まれたばかりの組織に、組織文化の違う多種多様な人々を満載しながら、立憲民主党は、左に共産党、右に連合を睨みつつ、全国でいわゆる「野党共闘」のために候補者調整をする必要に迫られていたのだ。難事業であることは間違いあるまい。

 しかしこの難事業はなんとかして決着を見た。全国289の小選挙区のうち220の選挙区で野党側の候補者が一本化することとなったのだ。一本化比率は76.12%。民主党政権を産んだ2009年衆院選挙の候補者調整比率よりも高い水準である。定量的に見れば、野党間の選挙協力は目標を達成したというべき水準だ。政党としては、立憲民主党共産党も、大人になったのだ。

 だが、子供のまま、十年一日のごとく、今回の選挙を戦おうとしている人々がいる。共産党立憲民主党の執行部がそれぞれ己を虚しうし、あえて白黒はっきりつけないことでいわば“なーなー”のうちに協業協議を進めることに「煮えきらない」「はっきりしない」「決断が見えない」と騒ぎ立てる、野党支持者と野党周辺の政界のハイエナたちのような連中のことである。

 今回の選挙でも、小池都知事の周辺をはじめ、選挙直前になって新党を結成しようとする動きが複数あった。またぞろ「第三極で有権者の選択肢を増やす」というロジックである。そしてこの種のロジックを振りかざすハイエナのような連中はこの10年ほとんど固定化している。

 一般の支持者も同じ。一部ではあろうが「枝野が悪い」「山本太郎が悪い」「共産党が悪い」と、選挙目前になっても騒ぎ立てる不心得な支持者があまりにも多い。せっかく、政党間の協議が“大人ベース”の話で進んでいるにもかかわらず、現場の支持者たちがこうでは、選挙の実務は思いやられる。

 実務が滞る選挙はいかに熱気が生まれようと、必ず負ける。このままいけば、いまだに第三極を模索する愚劣な政界ハイエナと子供のような支持者たちのおかげで、この選挙における野党共闘の実はあがらず、野党側の議席は伸び悩むだろう。

 有権者は冷静に見ている。

 あれだけの激戦であったにもかかわらず、自民党の総裁選の後、自民党から内紛の話など聞こえてこないではないか。それぞれの総裁選の候補者の支援者が他の候補者をいまだに悪様に罵るなどという姿は自民党では見かけないではないか。むしろ自民党は「選挙は選挙、一丸になって頑張ろう」と一致団結を見せているではないか。

 翻って野党は、いまだに第三極を模索するハイエナのような連中が跋扈し、支持者同士はそれぞれの党派性に依拠して仲間を背中から撃つことをやめない。

 こうした姿を有権者は、冷静に見ている。

 衆院解散総選挙スタートした。泣いても笑っても、10月31日に投開票が行われる。

 この分だと、組閣直後に“ご祝儀”を払い忘れた有権者が、「やはりこっちの方が、大人としてマトモだね」と、岸田文雄に遅まきながら“ご祝儀”を手渡すことになるであろうことは、必定だろう。

<初出:月刊日本11月号

菅野完氏】
著述家。’74年生まれ。サラリーマンの傍ら執筆活動を開始。『日本会議の研究』は、第1回大宅壮一メモリアル日本ノンフィクション大賞読者賞受賞

―[月刊日本]―