文=難波里奈 撮影=平石順一

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遠くの山より近くの純喫茶

 あまり経験は多くないが、何度か登山をしたことがある。今より若く体力もずっとあった頃に、富士頂上からの景色もこの目で見た。登山に夢中になっている友人からたまに聞く「山頂で飲む珈琲」の話はいつもとても魅力的で、「いったいどれだけ美味しいのだろうか」と想像してはうっとりしている。

 できることなら今すぐ近くの山へ出掛けていって、その味わいを試してみたい衝動にかられるが、そうもいかない勤め人ゆえ労働を終えたあとに中央線に揺られて御茶ノ水駅へ向かい、ある純喫茶を目指す。

 改装工事を経て新しくなった聖橋口改札を出て左側へ少し歩くと、山小屋のような外観が視界に入る。それは1955年から営業している「穂高」である。マスターの粟野芳夫さんご一家が営むアットホームな店で、粟野さんのお母様が山好きだったことから、中部山岳国立公園の飛驒山脈にある奥穂高岳を主峰とする山々の総称の「穂高」と命名されたそう。

 人気の窓際席からは眼下をせわしなく通り過ぎる電車たちや駅のホームを眺めることができ、手前の庭にはもみじ、桜、橘と季節によって違った表情を見せる樹木や、たまに出没する蛇やとかげたちとの遭遇を楽しむことができる。控えめな照明の中で若草色のソファに沈み込んでふぅと息を吐くと、都会の真ん中にも関わらず、静かな山の中に佇んでいるような穏やかな気分になる。

 メニューにはさまざまな種類の飲み物があるが、迷ってしまったならまずは自慢の珈琲を一杯。ネルで一度に30~40杯たてられ、注文が入ると都度温め直すという今では少なくなったスタイルを守って淹れられている。珈琲豆の焙煎は外注しているが、ブレンドは穂高で行っているというこだわりも。

 粟野さんのお母様の好みで、コロンビア主体の、ブラジル、マンデリン、キリマンジャロ、グァテマラという配合。苦味は強くなく酸味が強い「昔ながらの変わらない味」。かつて割合を少し変更したことがあったが、毎日のようにこちらの珈琲を飲んでいる常連たちによる「この味がよくてここに来ているのだから変えてほしくない。」という言葉によって、現在も当時の味が守られているそう。

 また、水にもこだわりがあり、利根川ではなく多摩川の水を使用しているようで、粟野さん曰く「この辺りは江戸時代から将軍さまと同じ水を飲んでいる」のだそう。

 本棚には山にまつわる書籍が多数並んでいる。自分の好きな本を読んで過ごすのもよいが、普段手にとらない新しい世界に出会えるのも醍醐味。

 粟野さんは御茶ノ水の生きる辞典、といっても過言ではないほどこの地域の歴史や出来事に詳しい。どこかに発信された情報ではなく、このときしか聞けない話を対面で伺うのも大変貴重な経験なので、お店が忙しくない時間帯であれば粟野さんと会話しながら珈琲を味わうのはいかがだろうか。まるで晴れた日の山頂で語り合うみたいに爽やかな時間を共有できるかもしれない。

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1955年(昭和30)創業の「喫茶 穂高」。山小屋を彷彿とさせる店内。