2021年11月23日、韓国の全斗煥(チョン・ドファン)元大統領が死去した。90歳だった。

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 陸軍士官学校の同期で大統領職を継承した盧泰愚(ノ・テウ)元大統領の死去からわずか1か月だった。

 韓国経済にとってはきわめて重要な時代に大統領に就任し、空前の好景気を演出した。

 7年半も大統領の座にあった90歳の元独裁者の死去。生前には強い批判を浴びたが、死亡ニュースでは功罪をそれなりのバランスで紹介するのか。そう思ったが、そうではなかった。

死んでもなお強い批判

 どのニュースも、「罪」が大半だった。

 与野党を問わず、政治指導者の弔問も少なかった。ほとんどの経済団体も沈黙した。

 遺体が安置されている病院前にはデモまであった。

 全斗煥氏は晩年になっても、多くの市民が犠牲になった光州事件などについて謝罪の言葉を口にすることはなかった。

 多額の追徴金を未払いのまま放置し、一方で昔の側近と会食したり、ゴルフに興じる姿がメディアに出て、最後まで国民の反感を買ったまま世を去ってしまった。

 寝たきりになった盧泰愚氏は、家族を通して光州事件について謝罪し、追徴金を全額支払った。

 だから、功罪取り混ぜた報道になり、政府が関与した葬儀になった。これとは対照的だった。

テン・チョンニュースの時代

「何と言っても、テン・チョン・ニュースだなぁ…」

 1980年代初めに大手放送局に入り、全斗煥時代をテレビ記者として過ごした知人は「あの時代」をこう振り返る。

 当時は午後9時に、KBSとMBCという2大放送局が競ってニュース番組を放送していた。

「テン!」――9時の時報が流れると、どんな大きなニュースがあっても、毎日、トップニュースは「チョン大統領は今日、…を視察しました」というような内容だった。

 何が何でも大統領の動静だった。

 いつの間にか、放送局内部密かに使われていた「テン・チョン・ニュース」という言葉が、じわじわと外部にも漏れていった。

 強権的な全斗煥政権の統制下におかれたニュースの限界と現実を表す言い方になってしまった。

 筆者が初めて韓国で生活したのは1980年代、全斗煥大統領時代だった。

 ソウル市内の中心部のあちこちに警官がいた。普通に歩いているだけでも、「鞄の中身を見せて」と頻繁に警官に言われた。

 筆者がいた下宿に日本から来る郵便物の多くに一度開封された痕跡があった。

 1年余りの留学生活を終えて帰国する直前に下宿の主人に「実はね…」と言われたことがある。

「毎週1回、刑事が来てあなたの動静を聞いて行った。夜早く帰ってくるか、ちゃんと学校に行っているか、訪ねてくる人はいないか、こう聞かれたけど、まさか、毎晩明け方まで飲み歩いて朝寝坊する。部屋で友人と酒盛りもしている、なんて正直に答えるわけにもいかず、苦労した」と笑われてしまった。

 そういう時代だった。

正統性に欠けた大統領

 盧泰愚氏とともに、2人続けて大統領を輩出した「陸士11期」は、初めての4年制正規教育を受けたエリート集団だった。

 朴正熙パク・チョンヒ)政権時代に高速出世を重ね、1979年10月26日大統領暗殺事件が起きると決起した。

 この年の12月12日に、上官を逮捕して軍内部の権力を掌握した。クーデターだった。

 1980年5月には非常戒厳令を拡大し、民主化を求める「ソウルの春」の動きを封殺した。さらに光州事件だ。

 1980年9月に全斗煥氏は大統領に就任した。それから盧泰愚氏による1987年6月の「民主化宣言」までの7年間、事実上、最高権力の座にあった。

 クーデターと、多くの市民を犠牲にした光州事件によって、だが、全斗煥氏は正統性に欠ける独裁者となってしまった。

 今から2年程前、全斗煥氏が裁判で光州を訪問した。もう80代後半。謝罪を求める市民の抗議デモが起き、本人ももみくちゃになった。

「もうすぐ90歳。あんな目に遭って…」

 翌日会食をした光州出身の大企業役員にこう話したら、強い口調で言われた。

「当然です。あんな事件を起こして謝罪もしていないのだから!」

 日頃は温厚なこの役員の発言に驚いたことがある。

 全斗煥氏に対する歴史的な評価は、今後さらに定まるだろう。

 11月24日の朝、ある放送で、司会者が全斗煥氏の「歴史の罪」を延々と話し、「一部の保守メディアは、独裁者である一面と経済成長を実現したという一面を両方とも報道している」と批判した。

経済を知らない軍人出身大統領

 それでも、ここでは韓国経済にとって、全斗煥時代はどういう意味だったのか整理してみたい。

 軍人出身で「経済は知らない」を公言していた全斗煥氏だが、在任期間中は韓国経済の黄金時代になった。

 韓国経済の成長の基礎を作った権力者と言えば朴正熙氏であることは間違いない。

 だが、全斗煥時代も、これに劣らぬ高度成長時代だったのだ。

 朴正熙氏は、ゼロから韓国経済を成長軌道に乗せた。インフラを整備し、企業人と二人三脚で基幹産業を育成した。

 その過程で、日韓国交正常化、ベトナム戦争への派兵、西ドイツへの炭鉱夫、看護師の派遣という苦悩の選択決断も重ねた。

 朴正熙時代に韓国経済は、年率平均10%という高度経済成長を実現した。「漢江(ハンガンの奇跡)」と呼ばれた成長ストーリーだった。

 ところが、政権末期には様々な課題が表面化していた。

 重化学工業政策を進めたが過剰投資という問題を抱えることになった。経済成長と国際化の副作用で、インフレと対外債務の増加という問題も出ていた。

 開発独裁型成長モデルに構造的な問題が生まれていた。さらに原油価格の高騰も、韓国経済を直撃していた。

マイナス成長、消費者物価は28%上昇

 朴正熙氏が暗殺された翌年の1980年。全斗煥氏がソウルの春を弾圧し、光州事件で多数の死者を出し、これを乗り越えて大統領の座に向かった年の韓国経済はマイナス成長(-1.6%)に陥った。

 1956年以来の「大事件」だった。さらに消費者物価が前年比で28%も上昇してしまった。

 朴正熙時代は年率平均10%の高度成長が続いていた。それが突然のマイナス成長だ。そこに追い打ちをかけたインフレ

 力ずくで権力を握った全斗煥氏だったが、最悪の経済状況だった。

「経済のことは分からない」と公言していた全斗煥氏は、エコノミストや経済官僚の話を聞いて、信じて任せる以外に選択肢はなかった。

 低成長、インフレ、賃金上昇、対外債務増加、企業経営の悪化、過剰投資…。

 数多くの問題で、スタートしたばかりの全斗煥政権にとって最も頭が痛く、最も重視した問題がインフレだった。

インフレ退治に強権、マイナス予算編成

 1981年も消費者物価上率は21%を記録してしまったのだ。

 庶民生活にも直結するこの問題を最優先で解決しなければ、政権が持たない。こう考えたのだろうか。強権発動に出る。

「予算凍結」

 全斗煥政権が打ったインフレ対策のうち、いまでも語られることが多い措置だ。

 1984年の国会予算編成作業にあたって「予算凍結」の指示を出したのだ。

 韓国経済は、インフレなどの問題を抱えながら1980年以降、高度成長に戻りつつあった。1983年には12%もの高成長を記録した。

 そんななかで、予算の伸びをゼロにせよという指示だったから大騒ぎになった。

インフレを撲滅しろ」

 全斗煥氏はこう指示したのだ。こんな政権の奇策に政府与党内からも批判が噴出した。

 公務員賃金凍結に加えて防衛予算は削減…軍幹部が予算編成をする担当部署に乗り込んで激しく抗議する一幕もあった。

 1985年には国会議員選挙も控えていた。選挙前には、積極財政で有権者にアピールしたい。こうした政権与党も唖然とした。

 全斗煥氏は、こうした「抵抗勢力」を一掃した。

 結局、予算凍結どころか、マイナス予算を編成した。絶対権力者だったからできたことだ。

 政府の姿勢を見て、民間企業にとっても賃上げできるような状況でなくなった。便乗値上げなどもってのほかだ。強権で値上げ賃上げを抑え込んだ。

 その頃、世界的なインフレの大きな要因だった原油高が収まり、下落に転じていた。

 韓国のインフレは、嘘のように収まった。

インフレ収まり、3低好況に

 消費者物価上昇率は、1985年2.5%、1986年2.8%となった。

 さらに、金利安、ウォン安も重なった。

 原油安、金利安、ウォン安、同時に吹いた韓国経済への強烈な追い風だった。

 韓国では「3低時代」と呼ぶ時期の到来だった。

 輸出に一気にドライブがかかり、韓国経済の成長率は1986年12.2%、1987年12.3%となった。

 1985年に300億ドルだった輸出は、1988年には600億ドルへと倍増した。1986年には史上初めて貿易黒字に転じた。

 結局、全斗煥時代の韓国経済は、朴正熙時代と並ぶ年率平均10%前後の高度成長を実現した。

 さらに、「高成長、高インフレ」というサイクルから脱皮して「高成長、低インフレ」までも達成した。

 全斗煥時代の韓国経済は、空前の好況と体質改善が同時に進んだ時期だった。

 本人が経済をどこまで理解していたのかは分からない。ただし、だからこそ専門家に任せて実績を上げた部分はある。

光があれば影も

「軍事クーデターと光州事件を除けば、全斗煥氏は政治をうまくやったと評価する人も多い」

 2021年10月、野党「国民の力」の大統領候補である尹錫悦(ユン・ソギョル=1960年生)氏はこう発言して、世論の強い批判の集中砲火を浴びた。

 後でこの発言を謝罪したが、同氏がこういう発言したのは、「うまく部下を使って経済を運営した」という評価を聞いたからかもしれない。

 プロ野球を創設し、アジア大会ソウル五輪を誘致することに成功したのも全斗煥時代だった。

 強い権限を持つことで、どんな無理なことでも超スピードで実現できる、ただし、その影には多くの問題があった。

 経済についても、決してバラ色だけの時代だったわけではない。

 インフレファイターで、これを抑え込むことはできた。だが、緊縮財政の後遺症でインフラ投資などが遅れたとの批判はいまもある。

 過剰投資などによる業績の悪い企業を整理したが、その基準が明快ではなかった。

 全斗煥氏には、労働組合、労働運動への理解が、根本的に欠けていた。

 経済や企業が成長するうえで、労働者がどれだけ貢献したのか。あるいは、犠牲になっている面はないのか。

 こういう視点がなく、力で抑え込んだ。高度成長期に、健全な労使関係の構築ができなかったことの後遺症はいまにつながる問題だ。

 さらに、企業から不正資金を集めた。その金額は、数千億ウォンと巨額だった。

 全斗煥氏も、盧泰愚氏もどうしてあれほど天文学的な不正資金をかき集めたのか。

 その後の保守政権に付きまとった「政経癒着」というイメージがこの頃、形成されてしまった。

 大きな光があれば、大きな影もあった。その両方を含めて、韓国経済にとって極めて重要な時代であったことは間違いない。

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囚人服で法廷に出廷した全斗煥元大統領(右)、左は後継者となった盧泰愚元大統領(1996年8月26日撮影、写真:YONHAP NEWS/アフロ)