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 現在、ミイラは大切に保護されているが、昔からずっとそうだったわけではない。かつてエジプトミイラはヨーロッパの人々によって、学術的な研究のためではなく、実用的であり娯楽的なことに利用されてきた。

 15世紀からエジプトミイラは貿易商によりヨーロッパに持ち込まれ、奇跡の薬として使用されたり、芸術作品の顔料として使用された。

 さらに18世紀になると、上流階級の人々の間で、自宅でミイラの棺を開ける開封パーティーが行われるようになり19世紀には大人気となったそうだ。

【画像】 かつてミイラ奇跡の治癒力がある薬とされていた

 15世紀始めより、商人たちは、エジプトからヨーロッパにミイラを輸入して儲ける「ミイラ貿易」を行っていた。

 当時ヨーロッパでは、防腐処理された遺体には、この世のものではない、奇跡の治癒力があると信じていたようだ。

 ミイラには、古代世界で治療効果があるとされた物質、「瀝青(れきせい)」が含まれているという誤解が、過熱気味のミイラ取引の起源だという学者もいる。

 棺に入っていたミイラは奇跡の薬として服用されたり、粉末にして、顔料などに加工することも多かったという。

 現在、アスファルトとしても知られる瀝青は、有毒の発ガン性物質だが、中世ヨーロッパ人にとっては奇跡の物質だった。

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 天然の瀝青は極めて希少だったので、商人たちは目の色を変えてエジプトの墓を漁ってこれを求めた。

 もちろん、ミイラは無限にあるわけではないため、商人たちは自分の手で現代の人間の遺体を古代のミイラに似せてでっちあげたりした。

1875年のエジプトミイラを売る露店商人

ミイラから顔料を作り、芸術作品にも利用された

 ミイラは治療薬として使われただけでなく、芸術作品にも利用された。少なくとも16世紀には、人間のミイラから顔料が作られ、"ミイラブラウン"と名づけられた。

 ミイラを砕いて粉末にし、石油などを蒸留して残る黒いピッチや没薬と混ぜる。こうしてできた顔料が使われるようになったのはルネッサンス期で、画家たちが多彩で豊かな色合いを求めて、ミイラブラウンをもてはやしたと言われている。

18世紀になると、ミイラを自宅で開封するパーティーを開催

 18世紀になると、ヨーロッパ人たちのミイラに対する考え方が、不気味な魅力の領域へと変わっていった。ミイラを開封するぞっとするようなイベントが、個人宅で行われれるようになり、のちに劇場などで開催される公共の見世物となった。

 19世紀になると、このミイラ開封パーティは、ヴィクトリア朝時代のの興味の中心である科学と病気をアピールするものとして大人気となった。

 このおぞましい見世物は、古代エジプトミイラが大勢の見物人の前にさらされ、包帯を解いて、数千年ぶりにその姿をさらすというもの。最初は個人の家で行われ、その後、社会全体へと広がっていった。

 こうしたイベントを行ったもっとも有名な人物は、トーマス・"マミー"・ペティグリューと言う人物だ。外科医から古美術商に転身し、常にミイラ開封パーティ会場を満員にして、大いに儲けたという。

1898年にマンチェスター大学で行われた英国最後のミイラの開封。初代エジプト学者のマリー博士(左から3人目)と助手のウィニフレッド・クロンプトンによって、科学的条件下で行われた

 1922年、イギリス考古学者、ハワード・カーターツタンカーメン王の墓をする頃には、ミイラに対する人々の考え方が変わっていき、ミイラ開封パーティーは廃れていったという。

1922年に発見されたツタンカーメン王の墓

References:Gruesome mummy 'unwrapping parties' where Victorians smuggled corpses into their homes - Mirror Online / written by konohazuku / edited by parumo

 
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かつてイギリスの上流階級で流行した自宅でミイラ開封パーティー