2019年、91歳で惜しまれつつこの世を去った国民的作家・田辺聖子さん。没後2年の今年、1945年から47年までの青春期を綴った日記が発見されました。

 記されていたのは、「大空襲」「敗戦」「父の死」「作家への夢」……。戦時下、終戦後のままならない日々を、作家志望の18歳はいかに書き過ごしたのでしょうか。日記をまとめた『田辺聖子 十八歳の日の記録』(文藝春秋)より一部抜粋して、戦時中の日記を紹介します。(全2回の1回目/後編を読む

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なにを書こうか

5月25日 金曜日

 用紙がたくさんあるので、私はノートを妹といっしょに作った。3、4冊出来て嬉しい。これだけはどうかして焼きたくない。なにを書こうかとたのしく迷っている。

 お祖母さんが福知山から帰っていらっしゃる。妙ちゃんも家にいるので久しぶりに7人になり賑やかだ。「お祖母さんは、服部へ行っても福知へ行っても結局はこの家が一番いいんやろう」とお母さんが言っていた。そのくせに、家へ来ると、服部へ物を持って行ったり、福知へ持って行ったり汲々(きゅうきゅう)としている。あちらこちらに心を置いて結局その中のどれ一つにもおちつけないのであるから、どこへ行ってもいやがられるらしい。私の家へ来ても、服部の叔母へパンを運んだり、何やかや遣(や)る。お母さんは慣れているが、服部の叔母や福知の叔母たちは、それを快く思わない。お祖母さんもじきに喧嘩して気が合わず、蒼惶(そうこう)と帰ってくる。

 あの子も、この子も、で、服部と家と福知と京都との間を、いい年をして幾度も往来し、かてて加えて、この頃はボケて色んなものを忘れたり落したりして苦笑している。私達が大騒ぎするのを抑えて強いて何でもないもののように言っても、その口の下から「しもたことした」と呟くのだから、さすがに年寄りだ。

劇団へ入った従姉

 ところで面白いことがある。

 服部の叔母の長女で私の従姉のことである。

 ロッパ(※古川緑波。喜劇俳優。「昭和の喜劇王」と謳われた。昭和10年に東宝に入り、古川ロッパ一座を組んだ)か東宝かよく知らんけれども、何かそういう劇団へ入ったらしい。「ずっと前から、そればかり考えていて、希望していたけれど、家の問題もあるし……」というそうだ。田原さん(※同級生)に私はこの話を面白おかしくはなしてやったら、田原さんはきゃらきゃら笑っていた。私はありのままに言ったら家の恥だから脚色したのである。

「遠縁の人だけれどね、ロッパ一座に入りたいといいだしてね。親族会議で怪(け)しからんことをいうと𠮟られたの」

 私は言いながら、嘘だと思って自分自身がいやになった。

 今日、お祖母さんが、服部から帰って来て、

「梅田の地下かなんかへ試験うけに行って通ったそうな」

「どんな試験ですの」

 とお母さんはパンを焼きながら鼻でけずったようにいう。

「歌、うたうのや」

 お祖母さんは、けろりとしている。

「へえ」

 とお母さんは意外そうにいった。

「そいで、こんどは東北の方へ巡業に行くんやて。何でも物資(もの)があるそうやな」

 お祖母さんは気楽なことばかり並べている。もはや、お母さんは返事もしない。

の犠牲になる、といって

「家の犠牲になるとかなんとかいって」

 とお母さんが笑った。

「今まで犠牲になったンやから、というてた」

 お祖母さんがいう。するとお母さんが、

「そりゃ、30にもなるまで犠牲になるのが、ほんとの犠牲やな」

 とかるく一蹴した。ここの照ちゃんは、いい縁談を断ったそうなので、お母さんは止(とど)めをさすように言った。

「ええところで勤めをやめて、いいかげんに嫁入りしたらいいのに」

 この服部の家へ物を疎開すると、何でもどしどし使うほどルーズな家庭である。叔母さんも従姉達もそれが普通のように思ってしまっている。よその家から疎開していたミシンを、使って下さいと言われたからと言って平気で使ってしまう。潰れそうになるまで使うから、その家の人は驚いて早々に舟をもって帰った。すると叔母は、薄情だといってぷんぷん怒っている。また、ほかの人があずけた着物を、叔母は得々と着て歩いたりする。私の服でも預けると早速、私と同い年くらいの従姉がいるから、すぐやられる。

 叔母は洒落者で、子供の着物は質に置いても自分を飾ろうとするのだから、従姉たちもつまらないらしく、それに、叔母は口ぎたなく子供たちを罵(ののし)ってコキ使う人だから、従姉や従兄も面白くないのであろう。

「思(おも)や、こどもも可哀想や。叔母ちゃんがきついんで、いやなんやろう。あれで叔母ちゃんがもちっと子供を可愛がってたら、お母ちゃんが苦労して育ててくれはるという気もするけど、ああこどもを憤(いきどお)ってたら、子供もつまらんのやろう。こんなに一生けんめい働いても、お母ちゃんに𠮟言(こごと)いわれると思うと、ついふらふらと女優でもなろうかという気がするんやろかい」

 と母は言っていた。

徹底した仕事嫌いのお父さん

 このところ、お父さんはどうも仕事せず、あそんでいる。町会のしごとが忙しいらしく、家の仕事は手に着かぬらしい。折角写しに来たお客さんに、

「出来るの、遅おまっせ。7月だっせ」

「あはあ、宜しおま、どうぞ」

 とお客がいささかも動ぜず、とことこと2階へ上ってゆくと、お父さんは苦笑して、

「こらあかん、この頃は平気でいつまでかかっても写そうとしよる」

 といっているから、仕事嫌いは徹底している。ほとんど御飯を食べるためのみのように、ときどき家へ帰ってくる。夜は夜で家の店はクラブのように、煙草のけむりが込め、賑やかな笑声が渦まいている。我々が筑前守(ちくぜんのかみ)といっている蓄膿(ちくのう)症のブラシ屋氏か、親戚のおじさんに似た上久保氏とか、吝嗇(りんしょく)家の大家とか、また平家蟹に似た、われわれが「醜」とよぶ小父(おじ)さんとかが定連(じょうれん)である。

「もう、通知簿なんかどうでもいいわ

5月31日 木曜日

 午前3時間勉強して、午後3時間労働している。

 その労働たるや、カチンコチンの運動場を深さ30センチくらい掘りおこさねばならぬ。そこへ芋を植える。10年来ふみかためた運動場であるから、その固いこと。薄い、妙に鋭角の鍬(くわ)などてんで受けつけず、カチンコとはねかえしてしまう。なさけない。

 腰が痛くて起き上れない。とうとう今日は休んでしまった。

 昨日、母といさかいした。お母さんは、

「通知簿はどうなったの」

 という。私は暑い道をてくてく帰って来たばかしで、その上、整地開墾作業でくたくたになっているから、いらいらしている。つい、つっかかる様な口調で、

「もう、通知簿なんかどうでもいいわ。こんな時節にそれどころやない」

「そう、捨て鉢にならんでもええやないか」

「今、そんなことを考えてられへん」

「そんなこと言うては上の学校受けられへんやろう。働く働くでそんなに働きたかったら、学校やめてどこかへ働きに行ったらええやないか。つっかかるように、ものを言うて、ほんとに可愛げのない子や」

 そこまでで母がやめてくれれば好かったのに、ミシンをふみながら、まだいうのである。

「だいたい、うちで学校へあげるような事は出来(でけ)へんのやけど、まあまあとおもってやっと専門へ上げてるのに。何や、そのいい方は。そんなに仕事したかったら、もうどこかへ勤めたらええやないか」

 私は憤然として、新聞から顔をあげた。

母はどうもけしからない

 どう考えても母のことばに無理があると思う。ひどいことを言う、と思う。

 するとまた母はつづけた。

「高い月謝払うて、なんのために学校へ行かしてるのや。学校へやってる以上、通知簿のことは気にするやないか。聖子はほんとに可愛げがない。親の手伝いもろくにせず遊ばしてるくせに、なにをえらそうにへりくつを並べるのや」

 私は誇りを大いに傷つけられて咽(のど)がつまった。

 勿論、母にも一面の真理はある。けれども、高い月謝云々ということばは私の乱れた脳神経の網目に引かかった。

 大体、私は、親は子を教育する義務があると思っている。親が苦しい中をきりつめて子を勉強させるのは当然だという気がしている。

 勿論それに対して子は感謝すべきであるが、それについて親は誇る権利は薄いと思う。

 私の月謝が高いなら、どうして父も母もあんなに闇のものを買いこむんだろう、どうしていろいろ乱費したり、多額の小遣いをくれたりするのだろう、また父はどうしてああ仕事を嫌って働かないのだろう。それに母は、そんなに私に偉そうに言ったって仕方がない。

 私の性質のゆがみはもちろん私自身の不修養でもあるけれど、足が悪いからこんなに引込思案にひねくれたのかもしれない。すると母も責任の一半(いっぱん)は、負うべきである。どうもけしからないと思う。

 それに帰ったばかりで疲れて暑くて、泣きたくなっているのにもってきて、時代おくれな認識不足の通知簿のことなど言い出されると甚(はなは)だじれったい。実際、母は家庭と町会に沈湎(ちんめん)していてなんにも分らないのである。

 学校では問題外である。通知簿なんぞ話題に上らない。このごろ忙しくて、母は感覚や感受性が鈍くなっている。私は母と話していると、とんちんかんなので時々じれったくて、つっかかるような口ぶりにならざるを得ない。いくら急がしくても、子供の話ぐらいには、てきぱきと答えるほどの新鮮な気持ちをもっていてほしい。お母さんも私に対して不満があるだろうけど、私もお母さんに不平をもっている。お母さんは「忙しいから、何を言ったかおぼえてないよ。そっちで判断して」というが、私はそういうルーズなやりとりはきらいである。

防空壕でむしやきにされた、人間の死屍

 町会でやっている畠(はたけ)のつい向うで、さきの3月13日の大阪罹災(りさい)の時(※第一次大阪大空襲のこと)、防空壕でむしやきにされた、人間の死屍(しし)が発掘された。

 はじめ、私と弟と祖母が、畠の整地をしていると、防空壕を掘っていた人々の間で、「肉」だとか、「死人」だとかきこえる。戦災地あとを掘って、逃げおくれた死人が出てくるのは、この頃ままある習いである。

 私と弟は怖いもの見たさで、好奇心いっぱい、先を争って壕の上に走り上った。

 まだ何にも見えない。

 凹字形に掘られた壕の中で勤労奉仕の人々が、てんでにシャベルや鶴嘴(つるはし)を杖にして、沈重な顔をしたり、何かを期待するように好奇的な目を光らした人など、とりどりに立っている。女連は壕の中へよう入らず、土を山積して固めた上で話し合っている。

赤い土まみれの一塊の肉

「どこなの、どこ」と私が言うと「お嬢ちゃん、それ、そこ、そこ」と隣の人があわてて指さした。ぎょっとして思わず飛び退(の)く。土運びの蓆(むしろ)の上に、土にまじってなるほど、牛肉の筋に似てぶよぶよと赤い土まみれの一塊の肉が見える。

 私は息をつめて見入った。弟は腰をかがめて仔細に観察を下している。私の目はまだ肉から離れない。黒こげではなくて、こんなにも生々しくあざやかな血汐の色を有している、ということが不思議なのである。

 このときくらい、人間がいかにも物質的に思われたことはない。

「ええ肥料になりますやろ」

 と、おばさんが残忍な諧謔(かいぎゃく)を弄してエヘヘと笑うと、日よけの手拭をかぶり直した。そうかと思うと、

「肉の特別配給だっせ。御馳走したげまひょう」

 と年よりまで言う。あたりの人は胸わるそうに顔をしかめたが、年より婆さんは、きゃらきゃらと笑った。

 壕の中の男連中はしきりに死体の位置と発掘後の処置について論じあっている。

「お嬢さん、もう止めときなはれ、御飯食べられしまへんで」

 隣組長のおじさんが、スコップでよい土を畠へ投げながら、汗のしたたる顔で笑った。眼鏡がきらりと光っている。私も笑って頷き、壕から退いた。

「どこの人やろう」

 ということが、人々の疑問と話題の焦点になっていた。

【続きを読む】「お宅、焼けましたなあ」灰になってしまった家を前に、涙がぽとぽとと…作家・田辺聖子が記した、「空襲」と「家族」

「お宅、焼けましたなあ」灰になってしまった家を前に、涙がぽとぽとと…作家・田辺聖子が記した、「空襲」と「家族」 へ続く

(田辺 聖子/文藝出版局)

田辺家所蔵/撮影:文藝春秋