《20年以上前から指摘されている衝撃的事態》世界中で毎年「1億人以上」の女性が消えている“恐るべき現実”を知っていますか? から続く

 裁判に訴える動機は、勝って自分の主張を認めてもらいたいからと考えるのが一般的だろう。ところがインドの一部では、勝ち負けよりも、裁判に訴え出ることに価値があるという風潮があるという。

 長年、インドの社会・文化人類学的研究を行ってきた京大准教授の池亀彩氏は、その背景には、インド社会における「メンツ」意識があると説明する。ここでは、池亀氏の新著『インド残酷物語 世界一たくましい民』(集英社新書)の一部を抜粋。同氏が調査でインドを訪れた際に体験したエピソードから、インド社会の意識を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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スレーシュが刑務所に行くことになったわけ

 「マダム、僕ね、刑務所に入っていたことがあるんですよ。隠しておいて後でバレて、お互い気分が悪くなるなんてことになるより、最初からはっきりさせておいた方がいいと思いましてね。刑務所に入っていたドライバーは嫌だっていうなら、他のドライバーを呼びますから。僕は全然気にしませんから、はっきり言ってくださいね

 運転手のスレーシュから突然そう切り出されたのは、いつの頃だったか。おそらく2度目に彼に運転を頼んだ時ではないかとおぼろげな記憶をたどる。

 公共の交通機関が発達していない農村部を調査するには、あらかじめ車を用意していくのが便利である。そうでなければ、延々と来ないバスを小さな町のバス停コーヒーをすすりながら待つか、あるいは農村部で奇跡的に車を持っている超大金持ちとなんとか知り合いになることを夢見るしかない。インドでは車だけ借りるという日本でいうところのレンタカーシステムは一般的ではない。そもそも運転免許を持っていない私には無理な相談だ。だからドライバー付きで車を借りることになるわけだが、それをどこで調達するか。これはそう簡単ではない。農村部の調査を始めた当時、ほどほどに若い女が1人だけで安全に調査するというのは、インドではかなり緊張を伴うものであった。今もその状況はさほど変わっていないと思う。これには地方差もずいぶんとある。治安の良い南インドでは女性が1人で調査することは容易とはいえないまでも不可能ではないのだが、女性が1人で外を歩くことさえ眉をひそめられるような北インドでは、ずっと難しいだろう。

殺人の濡れ衣を着せられる

 農村部へ行き始めてからようやく分かってきたのが、ドライバーは単に車を運転してくれる人ではなく、調査者にとっては時にボディーガードのような存在でもあるということだ。前科者のドライバーは果たしてボディーガードとして信頼できるだろうか。強面を連れているのは有利に働くかもしれないが、同行者に襲われてしまっては元も子もない。スレーシュの告白に際して、こういう冷静な計算を私はすべきであったかもしれない。だが、ついついいつもの好奇心が勝ってしまい、「なぜ刑務所に行く羽目になったの? 一体何をしたの?」と私は半ばワクワクして聞いた。

「容疑は殺人だったんですよ」

 えー! こうなるともう心臓がバクバクしてきてしまう。

 私の興奮を知ってか知らずか、スレーシュは淡々と答えていく。

「私の妻がね、自殺したんです。首をくくってね。実は前から恋人がいたみたいで。薄々気づいてはいたんです。でもそのうちおさまるだろうと思って、ほうっておいたんです。それがある日突然死んでしまって」

「それは本当に不幸なことだけれど、それならあなたが捕まる理由はないでしょう?」

「彼女の両親が、僕が殺したんだって訴えたんですよ。もちろん彼らも真実はどこにあるのか分かっていたんですけど」

「え? どういうこと? 彼女の両親は自殺だと分かっていたのにあなたのことを殺人で訴えたの?」

「そうですよ。彼らはそうせざるをえなかったんです。実は後で謝られましたよ。でも分かってくれ、こうするしかなかったんだってね」

 もちろん真偽のほどは分からない。私は亡くなった妻の両親からは話を聞いていないのだ。だがそんな濡れ衣の罪で刑務所まで行った割に、スレーシュは妻の両親に怒りを覚えているようでもなかった。

 スレーシュは裁判の際に裁判官に言ったそうである。「あなたが、僕が殺人を犯したと思うのなら有罪にしてください。そのことであなたを恨むことはしません。でも僕はやってません」と。その堂々とした態度が功を奏したのかどうか分からないが、その裁判官は無罪と判断した。だが、その判決が出るまでの数ヶ月間、スレーシュは刑務所に入れられていたのである。

 なぜ、スレーシュの自殺した妻の両親はスレーシュを殺人で訴えたのか?

裁判所の判断は「どちらでもいい」?

 これはインドの「裁判文化」を知らなければ、理解できないだろう。

 インドでは裁判所が処理しきれないほどの民事・刑事裁判が行われている。しかも、そのほとんどが何年もダラダラと引き延ばしにされて、結論が出ていない。ごく明白な犯罪が絡む刑事裁判を除いて、多くの裁判事例は、裁判すること自体に意義があり、勝ち負け(あるいは裁判所の最終判断)はどちらでも良いと思われている節がある。スレーシュの例はその典型的なケースである。妻の両親は、スレーシュが娘を殺したとは思っていない。どうも娘の不倫も知っていたようでもある。そしてスレーシュに殺人の罪を着せられるほど証拠も何もないことも分かっていたはずである。それでも、訴え出た理由は、一言でいえば「メンツ」である。

 直接的には死んだ娘の名誉を守るためだ。不倫をしていて自殺したと思われるよりも、夫に殺されたというストーリーの方が名誉が保たれるというのは、女性は貞淑であるべきという文化においては当然なことなのだろう。だがこれは彼女個人の名誉にとどまらない。実のところ彼女個人のことなど二の次である。重要なのは、不倫し、自殺するような女性がいる家の評判である。彼女に未婚の兄弟姉妹がいれば、彼女の行為は彼らの結婚に確実に影響する。今でも結婚は、個人だけでなく家族全体がその財産や社会的地位を押し上げるための梃子のようなものである。だからこそ、家族の名誉を損じることは何が何でも避けなくてはならない。例えば不倫した女性の妹ということが分かれば、嫁にもらってくれる男性の収入レベルは必然的に下がってしまうし、あるいは不当に高額な持参金を要求されるかもしれない。インドの結婚は極めて複雑な計算の上に成り立つが、少しでも不利な点がない方がいいに決まっている。

 「だからね、彼らのやったことの意味がよく分かるんです。刑務所に入ったことで数ヶ月間稼ぎがなかったし、母親に死なれてしまった(当時まだ三歳だった)息子の面倒を自分の年老いた母親に頼まざるをえなかったし、いろいろと大変でしたよ。でも特に恨むという気持ちはないです」とスレーシュは物分かりの良い口調で言う。しかし、こんなに穏やかに裁判や刑務所での体験を受け止められる人ばかりではない。

個人的な信頼関係が何よりも大切

 彼が刑務所に行く羽目になった話を聞きながら、私は彼の正直さに驚いていた。いや正直さ以上に、インド社会の理不尽さを冷静に理解し受け入れた上で、自らの生活を向上させることに真正面から立ち向かう潔さに感心していた。最終的に罪に問われなかったとはいえ、逮捕され刑務所に入っていたことを顧客に話すことは、その顧客を失いかねないリスクを背負う。しかし正直に話せば、より強固な信頼関係をその顧客と結べるかもしれない。

 スレーシュのようにタクシー会社から仕事を請け負っているドライバーにとって、顧客との信頼関係は重要である。インドタクシーは、車はタクシー会社が所有している場合もあれば、ドライバーの持ち物である場合もある。いずれにせよ、客側はどういうタイプの車がいいか、何日(あるいは何時間)必要かを会社に伝え、会社はそれに合った車とドライバーを手配する。料金は距離と車のランクによって決められていて、それは会社が違ってもほとんど変わらない。このようなシステムにおいては、ドライバーは顧客に気に入られれば、次もあのドライバーで、とご指名が入るし、あわよくばタクシー会社を通さず直接仕事が入ってくるかもしれない。そうすればタクシー会社が天引きするコミッション(手数料)を自分のポケットに入れることができる。

 顧客との信頼関係は、仕事を確保することだけにとどまらない。後述するように顧客は、誰かを紹介してもらったり必要な時に借金をお願いしたり、さまざまなサポートを得る後ろ盾となりうる。国家による社会保障がほとんどないインドにおいて、こうした個人的な信頼に基づいた関係性は何にもまして重要である。

ただのドライバーから「相棒」に

 スレーシュほどそのことをよく知っている人はいないかもしれない。インフォーマルな関係こそが財産であることをよく認識し、誰とそのような関係を築いていくか、冗談ばかり言う明るい性格の下で冷静な計算をしている。彼はベンガルール市で「タタ・インスティテュート」と呼ばれ親しまれている超エリート校、インド理科大学院(IISc:Indian Institute of Science)の教授たちからよく仕事を受けていた。そのため家賃が少々高くとも、IIScのそばにあえて住むようにしていた。私がスレーシュを紹介されたのも、IIScの敷地内にある国立高等研究所(NIAS:National Institute of Advanced Studies)の教授を通じてであった。

 ヒンドゥー僧院とその長であるグルのフィールド調査に出かけるたびに、私はスレーシュをドライバーとして指名するようになり、すぐに直接彼と契約するようになった。彼は安全運転を徹底する優秀なドライバーであるばかりでなく、どこへ行ってもすぐ友達を作り、打ち解ける明るい性格の持ち主であった。私は彼のこの性格にずいぶんと助けられている。彼はすぐに私の調査内容を理解すると、私がインタビューを行っている際に、他の村人と話をしたり、グルのドライバーと仲良くなったりして、私が聞けなかった「裏話」をよく仕入れてくれた。私が建前の話だけを聞いてそれをすっかり信じていたりすると、後からそっと「マダム、実は僕が聞いたところによると」と私の間違いを指摘してくれる。今やスレーシュなしではフィールド調査を行うのが難しいほど、我々はチームのようになった。もはや私にとってスレーシュは単なるドライバーではなく、仕事の相棒なのである。

【前編を読む】《20年以上前から指摘されている衝撃的事態》世界中で毎年「1億人以上」の女性が消えている“恐るべき現実”を知っていますか?

(池亀 彩)

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