2000年初頭、北朝鮮の秘密警察、国家安全保衛部(保衛部)の警備隊員が在北朝鮮ロシア大使館に駆け込み、政治亡命を求めた事件があった。亡命を求めたチェ氏は、国家安全保衛部1局に所属する平壌のロシア大使館を警護する隊員だった。彼はなぜ平壌で亡命を試みたのか。

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(郭 文完:大韓フィルム映画製作社代表)

 チェ氏は、咸鏡北道清津(ハムギョンプクト・チョンジン)出身で、出身階級がよかったことから外国大使館を守る国家安全保衛部1局の警備部隊に配属された。亡命を試みた当時は軍服務8年目で、あと2年で除隊になる古参だった。

 入隊した当時には、10年にわたる軍服務は気の遠くなる長さだと感じたが、いつの間に8年経ったのかが分からないほど、ロシア大使館の警備は楽な業務だった。

 北挑戦ロシア大使館の警備は1日3回、2時間ずつ歩哨に立つだけ。一般軍人のような重武装もなく、拳銃一丁を携行すればいい。しかも、対外的権威と威信がかかっていたため、北朝鮮政府は数少ない平壌の外国大使館を守る警備部隊に対しては最上級の補給品と食料を支給した。

 それゆえに、外国大使館を警備する部隊は、競争倍率が10万倍になるほどの人気を誇った。とりわけ、高位高官の子供は金日成金正日金正恩を守る護衛司令部より、外国大使館警備部隊を希望した。

 そういった事情もあり、チェ氏が所属したロシア大使館を守る部隊は、平壌在住の特別階級の幹部の子供が95%を占めており、チェ氏のような地方幹部の子供は少数派だった。

 チェ氏には、それが不満だった。現場の指揮官は平壌幹部の子弟ばかりを優遇し、チェ氏のような古参の幹部を差別していたからだ。そして、その差別は次第に度を越し、朝鮮労働党の入党にも影響を及ぼすようになった。

親の七光りに追い抜かされた地方出身者の怒り

 朝鮮労働党は本人が望んだからといって入党できるわけではない。まず、生活態度などから労働党員としての資格があるかどうかが検討、審議される。ここを通過しても、1年間は候補党員の立場で、正式に入党できるのは1年後だ。党から入党を準備するようにと指示されて初めて入党が実現する。

 軍人の場合、真面目に軍服務に従事すれば、通常は除隊後に朝鮮労働党への入党が叶う。その場合も、入党は軍への入隊順に決まる慣行だ。ところが、部隊の指揮官が平壌の幹部子弟を優先的に引き上げ始めたのだ。軍人にとって、労働党に入党できるかどうかは死活的な問題だ。自分よりも若い人間が自分を追い越していくことに納得ができなかったのだ。

 そしてある日、父親が労働党の高官だという理由で、自分より3年あとに入隊した軍人が入党したことを知り、チェ氏の怒りが爆発した。

 チェ氏は部隊の指揮官を訪ね、「特別な成果があるだけでもないのに、なぜ自分より3年もあとから入ってきた人間が自分より先に入党したのか」と問い詰めた。すると、部隊指揮官は「それがどうした」と言うと、チェ氏を激しく殴打し、悪口雑言を浴びせかけた。

 理性を失ったチェ氏は拳銃を抜き、部隊指揮官を撃ち殺した。そして、そのままロシア大使館に向かったのだった。

 チェ氏がロシア大使館の正門前に近づくと、勤務していた軍人は古参のチェ氏に敬礼した。歩哨に立っているかどうかを検閲しに来たと思ったのだ。

 チェ氏がロシア大使館の出入口の鉄門を開けるように指示すると、歩哨兵は断った。勤務規定ではロシア大使館の外側のみを警護することになっている。大使館の内部はロシア領土と見なされており、誰も入ることができない。

 すると、チェ氏は断った歩哨兵を撃ち殺し、自らドアを開けて中に入った。そして、ロシア大使館経済参事部の建物に入り、ロシアに政治亡命したいと宣言した。

前代未聞の亡命事件に金正日が発した一言

 いきなりの亡命要請に、ロシア大使館員たちは当惑した。相談を受けた在北朝鮮ロシア大使は無線で本国に問い合わせると、「ロシア政府の結論が出るまで何も決定できない」と話した。

 それを聞いたチェ氏は持っていた拳銃を自分の額に当て、「もしロシアが政治亡命を受け入れないなら自決する」と言い放ち、政治亡命の理由は朝鮮労働党への入党問題だと主張した。ロシア人にとっては何でもない入党が、チェ氏にとって死ぬか生きるかの問題だったのだ。

 状況がロシア大使館から北朝鮮政府に報告されると、すぐさま北朝鮮軍特殊部隊ロシア大使館の周辺を包囲した。狙撃手が配置され、チェ氏が入ったロシア大使館経済参事部の建物にライフルの銃口が向けられた。

 平壌のロシア大使館は金正日国防委員長の執務室からわずか300メートルほどの距離である。そのため、金正日氏を守る護衛司令部の警護員もロシア大使館の包囲に加わった。

 チェ氏はロシア領土と見なされるロシア大使館の中におり、突入を強行すれば友好国であるロシア政府の反発を招く恐れがある。そこで、金正日の判断を仰ぐため、軍関係者が金正日氏の元を訪れて状況を報告すると、金正日氏は一言、こう述べた。

「なぜそんなことを私に聞くのか。我が国の、それも革命の首都平壌で、ロシア大使館を守っていた軍人が政治亡命をしたということが世間に知れるとどうなるか」

鳴り響いた一発の銃声

 この一言で、4時間以上にわたってロシア大使館を包囲していた北朝鮮軍特殊部隊ロシア大使館に突入した。窓から外の状況を見守っていたロシア大使館の関係者は、チェ氏一人を部屋に残して外に出た。

 しばらくすると、銃声一発が鳴り響いた。白い布に覆われたチェ氏の遺体が車に積まれて当局に引き渡された。

 事件は一段落したが、国家安全保衛部の関係者の大半が飛ばされ、朝鮮労働党への入党問題が再び注目されることになった。入党過程の不公正な問題が明るみに出て、関与した高位職幹部の子供たちの入党は保留か取り消しとなり、平壌の幹部の子供は外国大使館を守る勤務部隊に入隊できないことになった。

 しかし、完全に解決したとは言い切れない。ロシア大使館亡命事件は、朝鮮労働党の入党制度という現代版身分制度が生んだ悲劇である。

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