太平洋戦争の始まりとなる「真珠湾攻撃」、ここで艦上機の主力を張った飛行機には、のちに「九九式棺桶」と不名誉な称号を得ることになる、九九艦爆もいました。アナログ設計が特徴の同機、実は結構有能です。

飛行中もだらりと垂れ下がり続ける脚…

1941(昭和16)年12月7日(日本時間8日)、アメリカ・ハワイの真珠湾へ、日本海軍が攻撃を仕掛けました。かの太平洋戦争の始まりを告げる「真珠湾攻撃」です。

このとき、旧日本海軍艦上機の主力であったのが、九七式艦上攻撃機(通称九七艦攻)、零式艦上戦闘機(通称零戦)、そして九九式艦上爆撃機(通称九九艦爆)です。大戦前半の快進撃を支えたこの三機種ですが、九九艦爆は他の二機種とは異なるルックスと、はなはだ不名誉なニックネームを持ちます。

九九艦爆のルックスの特徴は、飛行中もダラリと垂れ下がり続ける脚。これは引き込み式の脚を備える九七艦攻や零戦と異なり、固定式の脚を採用したためです。そして不名誉なニックネームは大戦中期以降に広まった、「窮窮式棺箱」という衝撃的なもの。ただ、実態は本当にそうだったのでしょうか。

ダラリと垂れ下がった脚は、どうしても「旧式」「鈍い」ともとられがちで、それがある意味で、不名誉なニックネームの説得力を強めてしまっているといえるでしょう。なお、この機構が採用された理由のひとつとして、飛行機による攻撃方法のひとつである「急降下爆撃」を担当する機種であるため、固定脚とすることで、急降下時において、空気抵抗によりスピードを適切に保つことがメリットでした。

ただ、この九九艦爆の固定脚は、製造・整備のしやすさを向上させることにもなりました。

「九九式棺桶」の実際の所

真珠湾攻撃はもちろんのこと、サンゴ海海戦や、ミッドウェー海戦でも、旧日本軍の空母から発艦した九七艦攻、そして九九艦爆による攻撃部隊は、零戦による援護により、アメリカの空母やイギリスの空母を沈め、戦果を収めることができました。

なかでも急降下爆撃は、水平爆撃より命中精度を高めるために、目標に対して機首を向けて降下し、中型爆弾を投下するため、目標からの銃撃にさらされます。そのようななか九九艦爆は、セイロン沖でイギリス艦隊を急降下爆撃により沈めた際は、82%という非常に高い命中率を達成したのです。

軍用機の性能は、単に飛行機スペックだけではなく、操縦者の能力、グループとしてどう使用するかなどでその後の評価が大きく変わります。太平洋戦争を見ると、開戦時には旧日本軍全盛期を迎えていたものの、その後”打倒日本”へ大いに注力した米軍が、総合性能を著しい勢いで向上させたといえるでしょう。

超不名誉なニックネームはなぜついた?

九九艦爆スペックは、最高速度が時速400km程度。時速500km以上を出すことが出来た零戦と比べても、アメリカの戦闘機からみれば「九九艦爆=足の遅い軍用機」に映ったでしょう。

また、零戦もですが、開戦前の旧日本軍による軍用機の要求仕様では、機体の軽量化により速度、搭載量が重視されました。そのため、装甲板は最小限で、燃料タンクへの防弾も考慮されていなかったのです。防御力は無いに等しかったと言えます。

そして、太平洋戦争中期には、アメリカ軍も性能の高い戦闘機を投入した一方で、日本は後継機となる「彗星」の開発が遅れ、スペックの劣る九九艦爆で出撃しなければならない状況が続きます。――「窮窮式(九九式)棺箱」の名前は、そのようななか、搭乗員から自虐を込めて生まれたものだそうです。

日本ではよく聞く話のような気がしますが、上層部が長期的な視野に欠けたばかりに、そのしわ寄せが、懸命に戦う現場(搭乗員たち)にくるという、悲しき実例のひとつといえるでしょう。

ただ先述のとおり九九艦爆太平洋戦争前半でそれなりの成果を挙げています。一定の条件下であれば、「窮窮式棺箱」は結果を出すことのできる“隠れ名機”なのかもしれません。

九九艦爆は、いまや日本国内はもとより、世界を見渡しても機体の一部だけが残っているだけです。先の真珠湾にあるパールハーバー航空博物館にも、九九艦爆の展示機はありません。ただ、将来、この“隠れ名機”がどこかの水底から見つかるといいな――と筆者(種山雅夫、元航空科学博物館展示部長 学芸員)は考えています。


※誤字を修正しました(12月8日11時45分)。

九九式艦上爆撃機(画像:オーストラリア戦争記念館)。