叔父さんがあまりに偉くなってしまったので一生、翻弄(ほんろう)されたのが豊臣秀次です。豊臣という名字からもすぐ、お分かりだと思いますが、豊臣家の一族であり、秀吉の姉・智(とも)の子どもです。

 智が年頃の時期は秀吉の出世前でしたので、智は普通の農民、弥助と結婚しています。弥助は名字を持てない、農民の中でも下層の身分でした。ところが、秀吉が織田信長の家臣として頭角を現し始めると、秀次は子どものいない秀吉から、子ども代わりに使われるようになります。

小牧・長久手では大失態

 秀吉が1570(元亀元)年から翌年にかけて、北近江の浅井長政の家臣に寝返り工作を仕掛けたとき、秀次は人質のような位置付けで、浅井家の重臣だった宮部継潤(けいじゅん)のもとに送り込まれます。形の上では養子ということで、秀次は1568(永禄11)年の生まれですので、まだ、わずか3歳か4歳でした。

 ただし、この養子縁組はその後すぐに浅井氏が滅ぼされ、解消されています。次いで、1581(天正9)年9月から11月ごろ、秀次は今度は阿波の三好康長のもとに養子に出されています。やはり、三好康長を自分の陣営に取り込むために秀吉が進めた養子戦略でした。この後、しばらくの間、「三好孫七郎」と名乗っています。1584年6月の文書に「羽柴孫七郎」とみえますので、その頃には養子関係が解消されていたものと思われます。

 秀次は数少ない身内として、秀吉の期待を一身に背負うことになりますが、武将としての資質を身に付ける余裕がないまま、一手の大将を任される形でしたので、同年の小牧・長久手の戦いでは、自身の作戦ミスで2500人の犠牲者を出し、秀吉の叱責を受けています。

 しかし、秀吉としても秀次に期待しないわけにはいきません。翌年の紀州攻め、同年の四国攻めでは、秀吉の弟・秀長が総大将になり、秀次は副将を務め、勝利に貢献しています。1590年の小田原攻めのときには、病気で出陣できなかった秀長に代わって豊臣軍の主力を率い、その前哨戦にあたる山中城攻めでは、総勢6万8000の大軍の大将として山中城を落とし、その後、奥州平定でも活躍しています。

 居城である近江八幡城(滋賀県近江八幡市)の城下町の整備に力を発揮したことも認められ、小田原攻め後の論功行賞では尾張を与えられて、清洲城主になりました。与えられた環境のもとで、着実に武将として力をつけてきたことがうかがわれます。

秀頼誕生で運命狂う

 ところがこの後、秀吉の2人の子どもとの関係で秀次の人生の歯車が狂い始めます。秀吉には、側室・淀殿が産んだ鶴松という男の子がいたのですが、1591年8月5日、わずか3歳で早世してしまったのです。「もう、子どもはできない」と考えた秀吉は秀次を養子に迎え、同年12月28日に関白職を譲りました。秀吉が太閤(たいこう)と呼ばれるのはそれからです。

 そのまま推移していれば問題は起きなかったのですが、1593(文禄2)年8月3日、淀殿が2人目の男子を出産したことで雲行きが怪しくなってきました。秀吉が養子・秀次ではなく、実子・拾(ひろい、後の豊臣秀頼)に家督を譲りたいと考えるようになり、「秀次事件」が起きます。

 この秀次事件は「秀次に謀反の疑いあり」ということで、秀吉から高野山への蟄居(ちっきょ)を命ぜられ、そこで切腹させられたとされる問題です。最近、「秀吉は切腹まで命じていなかった。秀次が勝手に切腹したのではないか」との説も出て、謎多き事件です。筆者は秀次が謀反を企てたという点には疑問を持っています。冤罪(えんざい)だったのではないでしょうか。

 悲劇的な最期を迎えた秀次ですが、同時代を生きたイエズス会宣教師ルイス・フロイスには「万人から愛される性格の持ち主であった」と評され、町づくりに尽力した近江八幡では今も名君としてたたえられています。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

滋賀県近江八幡市にある豊臣秀次像