戦国時代、出家して僧侶になった武将は何人もいます。しかし、僧侶だった者が戦国武将になったというケースはそんなに多くありません。その一人であり、大和国(奈良県)を支配したのが、筒井順慶です。

僧兵から武士へ

 大和の筒井氏は興福寺に属する僧兵から身を興し、興福寺衆徒(しゅと)の棟梁(とうりょう)的な地位を築いていました。順慶の父・順昭(じゅんしょう)のときには既に、大和を代表する武士となっていました。

 順慶は1549(天文18)年の生まれですが、翌年、順昭が没してしまい、家督を継ぐことになったものの、まだわずか2歳でしたので、しばらくはひっそりと暮らさざるを得なくなりました。しかも、その頃から、松永久秀が大和支配に乗り出してきて、1565(永禄8)年には、久秀によって、居城だった筒井城も攻められています。

 1568年、織田信長足利義昭を擁して上洛(じょうらく)したとき、久秀が信長に名物茶器として名高い「九十九髪茄子(つくもなすび)」という茶入れを献上し、本領を安堵(あんど)されてしまったため、順慶は宇陀(うだ)郡(奈良県宇陀地方)に逃れています。

 しかし、順慶は諦めませんでした。この辺りの、諦めない生き方は学ぶべきだと思います。1569年には十市(とおいち)城(奈良県橿原市十市町)に入り、さらに、翌年には大和郡山城(同県大和郡山市)に入り、久秀の軍勢と戦っています。順慶がそうした軍事行動をできたのは、畿内の政治情勢と密接に関わっていたからです。

 三好三人衆が河内に侵入してきたことと、大坂本願寺の門主・顕如が織田信長と敵対し始めたことによって、久秀がいつまでも順慶だけに関わっているわけにはいかないだろうと、順慶は読んでいたのです。この先読みの姿勢も評価すべきでしょう。1571(元亀2)年、久秀の軍勢主力が河内に出陣している隙を突いて、順慶が逆襲に転じます。

 久秀軍を打ち破った際、順慶は久秀方の兵の首500を信長のところに送りつけました。この段階では、久秀はまだ、信長陣営ですので、順慶がなぜ、このようなことをしたのか、よく分からない側面もありますが、順慶なりに久秀の行動を読み、久秀が足利義昭武田信玄らとひそかに通じているという情報をキャッチしていたのかもしれません。

 事実、この2年後の1573(天正元)年、久秀は信長に反旗を翻していますので、順慶にはやはり、先見性があったのかもしれません。その後はまさに、順慶の予想通りに、久秀は信長に背いて失脚し、大和は順慶に与えられ、「近畿管領(かんれい)」などといわれた明智光秀の与力となります。

「洞ケ峠」の誤解

 ところで、筒井順慶というとよく知られているのが、本能寺の変の後の、例の「洞ケ峠(ほらがとうげ)の順慶」といわれたエピソードでしょう。明智光秀羽柴秀吉が激突した山崎の合戦に際し、順慶が山崎近くの洞ケ峠まで出てきたところで、そこから兵を進めることなく、光秀の陣営に加わらずに日和見(ひよりみ)を決めこんだという伝説です。

 これによって、「日和見順慶」といわれ、日和見主義の代名詞のようになっています。ところが、この「洞ケ峠の順慶」のエピソードは誤りなのです。順慶は洞ケ峠まで出ていません。むしろ、洞ケ峠まで出てきて、順慶に出陣の催促をしたのは明智光秀の方でした。このとき、順慶は大和郡山城にいて、最初から山崎の戦いには出陣していないのです。

 順慶が光秀に味方しなかった理由として、光秀に勝ち目がないと先読みした点も挙げられますが、家臣の中に光秀に心を寄せる者もいて、うかつに動けなかったというのも理由の一つと考えられています。結果的に、中立を保ったことが評価され、秀吉から大和一国支配を安堵されました。

静岡大学名誉教授 小和田哲男

浮世絵「太平記英勇伝 十一 筒井陽舜坊順慶(部分)」(東京都立中央図書館特別文庫室所蔵)