(乃至 政彦:歴史家)

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上杉謙信は何回出家した?

 享禄3年(1530)寅年生まれの上杉謙信は、幼名を「長尾虎千代」といい、7つで元服して「長尾平三景虎」の名乗りを得た。長尾は名字、平三(へいざ)は仮名(けみょう。通称のこと)、景虎が実名(じつみょう。諱)である。

 謙信は寅年生まれなので、これに因んで幼名と実名に「虎」の一文字が入ることになったという。武家政権時代にはよくあることである。

 元服した年齢は早いが、これもこの時代の上級武士には、まま見られることである。巷説には謙信は14〜15歳で元服するまで林泉寺に預けられたというが、一次史料二次史料のどちらにもそのような記録は認められない。

 ちなみに仮名の「平三」は変わらなかったが、天文21年(1552)、足利義藤(後の義輝)の斡旋により朝廷から「弾正少弼」の官職を授かると、自他ともにこちらの称号を優先することになった。景虎は越後に在国しながら、官職を得たことを感謝して上洛を志す。

 翌年、その長尾弾正少弼景虎が上洛した。景虎は、京都大徳寺で法号「宗心」を授かる。ここで景虎は、公的には「長尾弾正少弼入道宗心」に名乗りを改めることになった。官職のあとに「入道」がつくのは、「もはや出家の身となるので、その任を正式に続けているわけではありません」という立場を示すことになる。

24歳で引退希望

 宗心の法号を得た時、謙信は三帰五戒という修行僧としての誓いも立てており、入道の名乗りを得ていることと併せて考えると、単なる気まぐれで名乗りを改めたのではなく本気で出家を考えていたと思われる。わずか24歳(数え年)で、隠遁を希望したのだ。

 その後、31歳で上杉憲政の養子となり、「上杉政虎」の氏名を得てから、すぐ将軍の偏諱を受けて、「上杉輝虎」と名乗りを改め、元亀元年(1570)に北条氏康の息子である三郎(彼も寅年生まれ)を養子にして、この少年に「上杉三郎景虎」の名乗りを与えたあと同年末、ようやく初めて「上杉謙信」の名乗りを得ることになる。謙信が謙信になったのは、41歳になってからのことなのである。

 少し重苦しくなるが「弾正少弼入道謙信」「不識庵謙信」と呼ぶのが正式な名乗りとなる。だが、『謙信公御年譜』(『上杉家御年譜』)によると、謙信が剃髪するのは、天正2年(1574)末のこととされ、謙信と名乗ってから4年後のこととなる(この直後、養子の上杉景勝に家督を譲る)。

 おそらく黒衣と袈裟を着用したのもこの時期からであろう。謙信が武士らしい格好を保持していたのはこの頃までと思われる。謙信は天正6年(1578)3月に49歳で亡くなるから、坊主頭であったのは、たった4年近くだけだったことになる。

川中島の上杉謙信

 このためであろう、ある名場面の謙信の姿が取り沙汰されるようになった。

 永禄4年(1561)9月の第四次川中島合戦である。

 この時、白い頭巾の上杉政虎(謙信)が武田信玄に斬りかかるという歴史的名場面がよく知られている。この時謙信は、出家しておらず、坊主頭ではなかったはずだから、僧兵みたいな白い頭巾姿ではなかったはずだと言われるようになったのだ。

 このため、大河ドラマ『天と地と』(1969、演・石坂浩二)では頭巾姿にされていたものの、同『武田信玄』(1988、演・柴田恭兵)では飯綱権現前立の兜を被って太刀打ちが演じられ、また同『風林火山』(2007、演・GACKT)では、被り物なしの長髪姿で信玄に太刀打ちを行なうことになった。

『甲陽軍鑑』における上杉政虎

 もっともらしい演出の変化である。だがこの通説への疑義には疑問を覚える。一応、政虎の白頭巾姿には、文献史料に出典があるからだ。『甲陽軍鑑』である。

 同書は少し前まで偽書説が根強かった。ページをめくってみると、たしかに部分的に問題のある記述を散見する。ただ、もともとこれは武田信玄ならびに勝頼の重臣として著名だった香坂虎綱(高坂昌信)が用意していたテキストである。それが虎綱没後に原稿を受け継いだ小幡景憲らが手を入れて、編集してしまった。そのため、見るべき記述とおかしな記述とが混在することになってしまったのである。このことさえ留意すれば、歴史研究に活用できなくはない──という見方が、近年の主流と化している。

 さて、問題の川中島における上杉政虎の本陣討ち入りシーンを見てみよう。これを同書は次のように描写している。

「萌黄色の陣羽織を着た武者が、白い手拭いを頭に被り、クリーム色の馬に乗って、刃渡り90センチほどの刀を抜き放ち、軍用の椅子に腰掛けておられる武田信玄さまのもとへまっしぐらに駆けてくるなり、その刀先で三回、切り付けてきた」(【原文】「萌黄の胴肩衣きたる武者、白手拭にてつふりをつゝみ、月毛の馬に乗り三尺斗の刀を抜持て信玄公床机の上御座候へ一文字に乗よせ、きつさきはづしに三刀伐奉る」)

 ここで政虎は、たしかに白頭巾の姿で描かれている。

 石坂浩二石原裕次郎松岡昌宏ら名優たちが演じた名場面は、この記述をベースにしてきたのだ(ただし松岡は黒頭巾)。

 このように政虎の白頭巾には出典があるのだから、理由のないことではない。これを是とするか非とするか難しいところだが、想像力を働かせれば、肯定することもできなくはない。ヒントは「宗心」の名乗りにある。

「宗心」時代の戦争

 先述したように若い頃の謙信は「宗心」として、僧侶見習いの身になったことがある。米澤藩上杉家の『[羽前米澤]上杉家譜』によると、宗心時代の記事に「弘治二年六月、景虎薙髪シ、国ヲ逃レ」とあり、髪を剃っていたとする解釈が見える。宗心時代の謙信はこの通り、剃髪していたのだろう。

 この時、その軽装ぶりがすっかり気に入ってしまったのではないか。

 宗心時代の謙信は、越後善根の乱に赴いて、軍勢の指揮を執っている。おそらく出家した姿のままであっただろう。同年中には第二次川中島合戦にも赴いている。対陣中、武田の総大将を罠に嵌めて、討ち果たすことを企んでいた形跡もある。

 そこで狙っていたのは、一般に「車懸り」と俗称される「自身太刀打ち」戦法であろう。この戦法は、敵軍を壊乱させた後、反撃の危険がほとんど無くなった敵地へ謙信自ら馬を乗り入れ、斬り込みを仕掛けるというものである。なかば追撃戦のような一方的戦況に、防具など無用の長物であろう。「その際に我が身が重武装である必要などない」と悟ったのではないか。普通の大将なら安全安心のため兜を着用するところである。

 だが、弾丸の飛び交う最前線にも軽装で乗り込む謙信にすれば、重くて視界を狭める鉄製の兜より、布製の頭巾のほうが使い勝手がいい。「これは便利だ。死中に活を求めるようで、みんなも格好いいと思ってくれるだろう」と考えたかもしれない。

還俗と出家と還俗を繰り返す

 ところで謙信が「宗心」の法号を授かったのは、引退を願ってのことだった。

 実際に越後へ帰国した宗心は、翌年の天文23年(1554)春にいきなり「御隠居」を主張して「諸公事」を停止する事態を引き落こしている。

 それほど思い詰めていたのだろう。

 しかし何らかの理由により、弘治元年(1555)に宗心は還俗し、再び「長尾景虎」の名乗りに復している。

 なぜ還俗したのか詳らかでないが、この背景には、兄・晴景の子である「猿千代」の「早世」があったのかもしれない。

 謙信は『謙信公御年譜』『平姓長尾系図』などに、兄から「御旗ヲ預リ」という形で家督を譲り受けたと伝わっている。越後国主となった当初から謙信の跡継ぎは決まっていたのだ。申年(1548)生まれであろう猿千代は、謙信が宗心を名乗った翌年(1554)、7歳となっていたと考えられる。7歳といえば、景虎が元服した年齢である(『謙信公御年譜』等)。

 早期の引退を望む謙信は、後継体制が安定に近づいていたことから、宗心の法号を求めたのだろう。差し当たって考えられるのは、猿千代の病気または死去である(猿千代は「早世」したというが、没年は不明である)。

 大名が出家して隠居するには、後継体制が万全に整っていなければならない。それが頓挫すれば、現役復帰するのみである。

戦場の宗心

 善根の乱や第二次川中島合戦では、薄い短髪頭で安定しない兜を使わず、白頭巾のままでいたかもしれない。

 それでその後、また宗心の法号に戻り、さらに景虎へ戻ったあと、「ただでさえ名乗りを改めているのに、見た目まで変えるのはよくないのではないか」と考えたのではないだろうか。味方たちにとって総大将は、どこにいるのか瞬時にわかる装束でいるのが合理的である。だから有名な武将たちは個性的な鎧兜を愛用して、それをトレードマークにしていた。こうして謙信は、髷を結えるまで髪が伸びてからも、頭巾スタイルを継続したと考えれば、永禄4年(1561)3月の小田原攻めや同年9月の第四次川中島合戦でも白い頭巾姿であったことが首肯できるであろう。

再び出家した理由は?

 謙信が再び宗心の法号に戻った理由もよくわかっていないが、同年中、謙信は猿千代のほかに別の後継者候補と巡り合うこととなる。「六月朔辰刻」(『謙信公御書集』)、または「弘治元年乙卯年十一月二十七日辰刻上田城ニ於テ」(『景勝公御年譜』)、姉婿の長尾政景夫妻に「卯松」なる男子が誕生したのだ。後の上杉景勝である。

 ここは確証を得られないが、その後の宗心が、自分がいなくても「譜代家中の者たち」が団結してうまくやるだろうと楽観的に述べて出奔していることと、これを引き止めた中心人物が長尾政景その人だったことから、なんらかの心理的影響を与えている可能性はある。

 ともあれ謙信は還俗してからまだ毛髪の生え揃わないうちに、早々と「宗心」の法号に復し、出奔を試みたあと、長尾政景に諫言されて、現役復帰し直した。そこからは東国各地を縦横無尽に駆け巡り、合戦を繰り返している。

実は僧兵姿ではなかった

 最後に、いま一度『甲陽軍鑑』の記録を見てもらおう。今度は川中島合戦ではなく、その半年前の小田原攻めである。 

「兜を着けずに白い布の手拭いを使って〈桂包み〉というもので頭を包み、朱色の采配を執って、(関東諸士のいる)前線を駆け巡り、人を生きた虫ケラほども思わない様子で命令していた(【原文】「甲を脱、白布の手拭をもつて桂包と云ふ物に頭を包み、朱さいはいをとりて諸手へ乗まわし下知し、人をいきたる虫程共思はざる景虎」)」

 ここでも謙信は、白い手拭いを被って戦場を疾駆している様子を臨場性高く記録されている。それだけ印象深い光景だったのだろう。

 ただ、ここで気になるところがある。謙信の格好を「桂包」としているところだ。桂包とは、室町時代の物売りの女性がやっていた頭巾の被り方である。「謙信は出家だからそういう行人包み(僧侶の頭巾の付け方)の格好をしていた」という書き方ではなく、京都の庶民女性たち(「桂女」たち、当然、毛髪は豊かであろう)がするようにしていたと書き伝えようとしているのである。

 謙信の姿をその目で見た武田・北条の侍たちは「兜も着けずに雑兵や女みたいな布巻きで合戦に出てくるとは」と驚嘆するともに呆れる思いでその姿を眺めたのだろう。

 僧兵の頭巾を着用する武士は、当時の言葉では「裹武者(つつみむしゃ)」と呼ばれていた(北条家の古文書にそう記されている)。だからもし謙信が僧兵大将を気取って動いていたなら、『甲陽軍鑑』もそう記したに違いない。あえて、これを「桂包」としているのは、やはり意味があろう。そもそもまったくの僧兵姿では、ほかの「法師武者」と見分けがつかない(山本勘介や真田一徳斎など、老体で出家してからも合戦に従軍する武将はたくさんいた)。武田信玄などは、それを利用して周囲に法師武者をたくさん並べて、謙信襲来に備えることがあった。

 すると謙信は、白い頭巾で戦場を駆け巡っていたが、その姿は「戦へる僧」というものではなく、創意工夫を施していたと見るべきだろう。そしてそれは独自に洗練されていき、晩年期までには謙信研究者である布施秀治が図説したような形に落ち着いたのではないだろうか。

 

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