選挙の投票に行っても「政治に参加した」という実感を得づらいのはなぜなのか。政治学者の藤井達夫さんは「現代の選挙制度はエリートによって支配されている。代表制民主主義は改革が必要だ」という――。

※本稿は、藤井達夫『代表制民主主義はなぜ失敗したのか』(集英社新書)の一部を再編集したものです。

■代表制度は政治権力の私物化への対抗手段

現代の民主主義諸国では、代表制度が正常に機能していない。正常にというのは、代表制度が民主主義の制度として求められる機能を果たすことができていないということだ。そればかりか、今後もそれは正常には機能しえない。もちろん、日本も例外ではない。

現代の代表制度が機能不全に陥っていることを赤裸々に物語っているのが、代表者の中でも、政府を構成する政治家──大統領もしくは首相に当たる──による政治権力の《私物化》である。

そもそも近代に復活した民主主義では、政治権力の私物化を禁じ、自由を蹂躙する専制に対抗する手段として代表制度が導入された。もちろん、それ以外にも法の支配や三権分立などが存在してきた。しかし、代表制度こそ、民主主義の理念を実現する上での基幹となる制度であったことは間違いない。国民によって直接選挙で選ばれた代表者からなる立法府、すなわち議会が法律や憲法を制定し、それによって、執行権力の担い手である行政府をコントロールする。これが、その制度の核心となる構想だ。

この構想を「立法権の優越と執行権の権利否定」と説明する人もいれば、端的に「議会主義」と呼ぶ人もいるだろう。しかし、いずれにせよ、この核心的な構想によれば、代表制度が民主主義の制度として機能するには、社会にしっかりと根を張った大衆政党と定期的に行われる民主的な選挙が不可欠となる。

これに対して本書では以下の二つの事態を繰り返し指摘してきた。一つは、現代の多くの民主主義国において、政党が多くの有権者との結びつきを失い、社会の諸集団を代表する機能を喪失したこと。もう一つは、定期的に実施されてはいるものの、選挙は社会の多数派に共有された意思を表明したり、時の政権の業績を評価したりする機会ではなくなったことだ。

これら二つの事態が進む一方で、現代の政党は、強大な権力を有する一部の利益団体や富裕層との結びつきを強めつつ、執行権力を行使する政府に従属するようになっている。また、現代の選挙は、セルフ・ブランディングが巧みな政治家人気投票か、あるいは有権者が自身のアイデンティティを追認する行為になっている。この結果、代表制度は、民主主義の制度として要請される機能を果たすことができなくなってしまった。

■代表制度が本来の姿を現しつつある

前章では、こうした事態が出来した根源的な背景を検討した。その背景こそ、現在の主要な民主主義諸国における社会の変化、すなわち工業化社会からポスト工業化社会への転換であった。そこでの議論によれば、工業化社会は、代表制度が機能するための条件を用意した。

しかし、1970年代以降、徐々に進んだポスト工業化の中で多くの民主主義国は、代表制度が民主主義の制度として機能する条件を喪失し、その形骸化は誰の目にも明らかとなった。それに伴い、不確実で安全を欠いた世界の中で各国の政府はいま、民主的なコントロールから自由になることを公然と欲し、また確実に自由になりつつあるというわけだ。

しかし、この現状を前にして、驚いたり怯んだりする必要はない。なぜなら、私たちは代表制度が本来の姿を現しつつあるのを目の当たりにしているに過ぎないのだから。その姿とは、政治エリートによる大衆支配だ。民主主義の理念から切り離されてしまえば、代表制度などは少数のエリートによる多数者の支配という寡頭政治を支えるのに相応しいやり方なのだ。このことを思い起こせば、代表制度に対するルソーの酷評を繰り返す必要はないだろう。代表制度はいまや、民主主義の理念を妨げる手段に、エリートが権力を私物化し専制を敷くための手段になり下がったようにさえ見える。

代表制度の改革に対する理論と実践は、こうした現状を打破するために要請される。しかしそれと同時に、代表制度の改革は、民主主義に対するオルタナティブとなった中国モデルの誘惑に対する喫緊かつ実行可能な対抗策になるとも考えられる。人びとが中国モデルに誘惑される原因の一つに現在の民主主義への疑念や失望があり、それらの疑念や失望は代表制度の堕落に由来する。だから、代表制度を改革することは、中国モデルの誘惑に対抗するための最も現実的な取り組みとなる。

そこで、本記事では、現在世界中で実際に行われている民主主義のイノベーションにフォーカスする。そこからポスト工業化社会に適合した形で、代表制度を民主主義の制度として復活させる道筋を検討する。

したがって、以下の議論では、現行の代表制度を全廃するべしというような思い切った提案はしない。それは、代表制度なしの民主主義が非現実的だというよりは、代表制度には参加のコストを削減する上で、あるいは市民の意思決定の正統性を高める上でいまだに存在意義があるからだ。こうして、今後の議論のポイントは、代表者たち──特に、政府として権力を行使する代表者──による政治権力の私物化を許さず、専制の芽を摘むための方法を探し出すこと、そしてそれを代表制度に接続することにある。

■競争こそ民主主義の本質という理解

代表制度の改革の狙いは、代表制度を再び民主主義の理念に奉仕する制度に作り直すことにある。では、その改革の手掛かりはどこにあるのだろうか。ここでは、シュンペーターの民主主義モデルを検討することから始めよう。

シュンペーターが提起した民主主義モデルは、しばしば「競争的民主主義」と呼ばれてきた。しかし、その内実は、政治エリートによる寡頭的支配を実現するための代表制度の構想という点にある。

実のところ、現代の代表制民主主義は、シュンペーターのモデルにますます似通ってきているように見える。民主主義の理念から切り離され、執行権力を行使する代表者が民主的なコントロールから自立しつつあるからだ。そこで、彼のモデルを参照することで現代の代表制度に欠けているものがいったい何であるかを類推してみたい。

シュンペーターのモデルを簡単に説明してみよう。それは、まず、ルソー的な民主主義理論、すなわち、ある政治体に共有された利益としての「公益」──ルソーの一般意志であり、規範的な政治学ではしばしばそれは共通善とも呼ばれる──を想定する古典的民主主義学説を否定することから出発する。公益なるものは、そもそも存在しない。仮に存在したとしても、それを発見し表明する方法などないし、有権者もその表明に必要な自立性や能力、技量を持ち合わせていないとシュンペーターは指摘する。

だとしたら、公益にせよ、一般意志にせよ、存在しえないものに依拠する古典的民主主義学説など、机上の空論にすぎないことになる。このように古典的民主主義学説を退けた上で提示されるモデルが、政治決定を行う上でのリーダーシップを獲得するために、代表者たちが有権者の支持を求めて行う「競争的闘争」というものである。ここに表れているのは、競争こそ民主主義の本質だという理解だ。

さらに、このモデルの核心には支持を求めての競争がある以上、その具体的な手続きは選挙ということになる。ここから、シュンペーターが民主主義を代表制度と同一視していることもおのずと分かる。なぜなら、選挙とは代表制度を構成する一手続きだからだ。むろん、代表制度と民主主義との間には何ら本来的な関係がないことは本書で繰り返し指摘してきた通りだ。

■政治エリートによる権力の私物化を防ぐことは困難

シュンペーターは民主主義の本質を競争と見なすことで、民主主義を有権者が信任もしくは不信任を表明する選挙の機能に切り詰めてしまう。本書で掲げた民主主義の理念から見た場合、こうしたモデルの最大の問題は、政治エリートによる政治権力の私物化や専制の可能性を防ぐことができるかどうかにある。

もちろん、この問いに対する回答は否定的なものとならざるをえない。その理由としてまず指摘できるのが、選挙が常に競争的であるとは限らないことだ。それが競争的であるためには、多くの条件が必要となる。例えば少なくとも候補者が二人以上必要であるし、その候補者間の経済的な力、あるいは社会的な力がある程度均衡している必要もある。選挙制度のあり方によって競争の度合いは異なってくる。また、競争が行われる外部環境、例えばメディアの中立性も不可欠だ。

さらに、選挙時の競争だけでは、代表者の行為を監督するには不十分であるという理由もある。これらは多くの権威主義体制においてだけでなく、現代の民主主義諸国でも実際に観察されている事態だといえよう。つまり、代表者は選挙と選挙の間の任期中に民主主義を破壊してしまうことは可能なのだ。

しかし、最も看過できない問題は、シュンペーターのモデルでは選挙が、そもそも政治エリートを民主的にコントロールするという目的ではなく、もっぱら政治エリートに政治的決定権力を占有させることを、したがって、そのリーダーシップを民主的コントロールから解放することを目的にしていることにある。ここから、シュンペーターのモデルでは、政治エリートによる権力の私物化や専制の可能性を防ぐことは困難であると考えられるのである。

■代表制度の改革に必要な三つの観点

民主主義を競争=選挙とすることで政治エリートリーダーシップを民主的なコントロールから解放すること。これがシュンペーターのモデルの狙いであった。そんな彼のモデルに欠けているものを考えることで、政治エリートとしての代表者を民主的なコントロールの下に置く手掛かりの見当をつけることができる。

これについては、シュンペーターのモデルに対して繰り返されてきた批判が参考になる。それによれば、シュンペーターのモデルには、二つのきわめて重要な政治的活動が欠如している。その一つが市民の参加であり、もう一つが市民の間での熟議である。

そこで本記事では、代表制度に市民参加と熟議という活動を組み込むことで、現行の代表制度を民主主義の制度として再建するための実行可能な具体策を検討する。その際、市民という言葉を多用する。民主主義のイノベーションでは、人びとは公共の制度を利用しつつ、特に政治的活動にコミットする主体としての役割、すなわち市民としての役割を担っているからだ。そこで、まずは具体策を評価するための三つの観点を提起することから始めよう。

代表制度の改革では、何より、権力の私物化を禁じ、専制政治に対抗するための具体的な取り組みにフォーカスする必要がある。冒頭で述べたように、近代に誕生した民主的な代表制度の核心には、人民主権論に基づいて立法権力が法律をとおして政府による権力行使──執行権力の行使──を民主的にコントロールするという構想が存在していた。そして、その構想を政党と選挙によって具体化することで、反私物化による専制政治への対抗という民主主義の理念が実現すると考えられた。

しかし、こうした試みを成功させる条件は喪失されており、もはやうまくいかない。したがって、政党政治の下での選挙に加えて、市民参加と熟議をベースにした新たな取り組みが、私物化を防ぎ専制に対抗するために不可欠となっている。

■代表制度を民主化する二つの方向性

多くの民主主義国ですでに着手されているそうした試みを参考にすると、現行の代表制度をさらに民主化する取り組みには二つの方向性があることが分かる。第一が、重要な決定に市民が直接参加することによって、市民の政治的決定権力を強化する方向性である。第二が、市民が直接、代表者を監視し、説明責任を果たさせるという方向性だ。代表者の民主的コントロールはこれらの二つの方向性で強化され始めている。

国家の独立などの主権に関わる決定や憲法改正、選挙制度改革など政治的な重要度がきわめて高い争点に関して市民の声を直接聞くという取り組みは近年、増えている。しかも、国家や州といった大規模な政治体において実施され始めている。これは第一の方向性に従った取り組みだ。

2014年スコットランドイギリスからの独立を問うた住民投票やEUから離脱の是非をめぐり2016年に実施されたイギリス国民投票──いわゆるブレグジット──は日本でも話題となった。

ただ注意すべき点がある。近年のそうした試みの中のいくつかのものは、代表制度を迂回し、市民の生の声を直接政治的決定に反映させようとしているだけではないということだ。そこでは、十分な情報に基づいた議論を経た上での理に適った市民の判断を政治的決定に反映させようとしている。このため、レファレンダムを実施する前に市民間の熟議の手続きが設けられている事例が少なくない。

また、たんに代表制度を迂回するのではなく、政治家たちと協働し、代表制度を活用する工夫もそこには見られる。いずれにせよ、この方向性は、現行の代表制度では近代民主主義の人民主権的構想を十全に実現することが不可能となったという現状認識から生じている。その上で、主権者の意思に基づいて政治を行うというこの核心的構想が、新たな仕組みで再活性化されているといえる。

第二の方向性は、いわゆる「カウンター・デモクラシー」と関連する。カウンター・デモクラシーとは、代表制度への全般的な不信が行き渡った現代において、政治権力を行使する者たちを投票以外の方法で民主的にコントロールするための制度や活動を意味する。それは、監視、差し止め、そして審判の三つの形態から構成されている。これらの形態は、古代アテナイの民主主義を支えた500人評議会や民会、そして民衆裁判所に確認できるものである。

他方で、近代以降の民主主義では、政府から独立した専門家委員会や民間のさまざまなアドボカシー・グループ──専門的な政策提言をしたり、ロビー活動をしたり、メディア・キャンペーンをしたりする利益集団──、市民組織による監視活動や、ストライキやデモによる直接行動による拒否権の表明、弁護士や市民による行政裁判の実施などが盛んに行われてきた。

これらの活動は、政治権力を行使する者に対して情報公開と説明責任を課し、政治責任を明確にさせ、必要があれば処罰を迫る。世論に対して常に敏感であるように代表者に対して求めることによって、民主的なコントロールの強化を目指しているのだ。

このように、現行の代表制度を民主主義の制度として再建するための実行可能な具体策は、何よりも権力の私物化を禁じ、専制政治に対抗するためにどの程度有効なのかという観点から検討される必要がある。

■社会を私物化した新自由主義

代表者を民主的なコントロールの下に置くための新たな取り組みを行うことで、政治という共有のものの私物化を防ぐ。これだけで、代表制度の改革を終わりにはできない。異なる人びとの間に、協働の機会や枠組みを提供することも重要な任務となる。

すでに論じたように、新自由主義化した多くの民主主義国では、代表制度が機能不全に陥ることで政治の私物化が進んでいるだけではない。新自由主義によって社会が私物化されているのだ。すなわち、新自由主義は、年齢や性別、所得、民族、宗教などを異にする人びとが、ともに暮らしていくために不可欠な共有のものを市場で売り買いされる商品に貶めることで破壊し尽くした。

この結果、匿名の人たちの間の相互依存関係としてイメージされた社会は消失してしまった。それに代わって現れたのが、万人の万人に対する競争としてイメージされた社会であった。そんな社会の中で相互に反目し合い、孤立し、惨めになっていった人びとにとって、共通の問題に対する連帯や協力の余地はほぼ存在しない。

こうした現状を前にして、代表制度に接続される新たな取り組みには、蝕まれた共有のものへの働きかけが含まれるべきだ。元来、民主主義の信奉者たちが富者や権力者の支配から死守しようとしてきたのが共有のものであった。そしてその信奉者たちによれば、共有のものによって可能となるのが、民主主義の根源的な価値、すなわち、自由であった。

とするなら、細分化され、互いに反目し合う現代の人びとの間に共有のものを復活させようとする働きかけが、代表制度を民主主義の制度として再建する際に避けて通れない課題となっても何ら不思議ではない。

しかし、だからといって、利害関心や価値観アイデンティティに関してこれほどまでに多元化した世界で、そのような働きかけが実を結びそうにないこともまた確かだ。したがって、現代世界の多元性という事実を前にした私たちにとって、共有のものへの働きかけがいかなる制約の下にあるのかを確認しておく必要がある。

■共有のものを取り戻す方法

まず、共有のものに対する努力は、古くから政治学において共通善(common good)と呼ばれてきたもの、あるいはルソーが一般意志と呼んだものを出発点とすることはできない。換言すれば、そのような努力において、人びとの間に利害関心や価値観などの同質性が前もって存在すると想定することはできない。これは私たちの暮らす世界が多元的であるという事実を尊重することから必然的に帰結する。

なぜなら、この想定を許してしまえば、異なる人びとの間に存在する、利害関心や価値観アイデンティティにおける差異が軽視されたり、あらかじめ排除されたりすることになるからだ。しかも、この軽視と排除は多くの場合、マイノリティの利害関心や価値観アイデンティティに対して行われる。これは、現代世界の多元性が、権力関係からニュートラルなものではなく、支配と被支配、抑圧と被抑圧との関係に貫かれているためである。

また、共有のものに対する努力は、同質性を人びとの間に発見することや、共有された利益に対する合意に到達することを目標にするのにも慎重であるべきだ。というのは、その想定には、人びとの間の差異は乗り越えるべきもの、あるいは乗り越え可能なものという予断が存在するからだ。このような予断によって、現代世界の多元性の事実が歪められたり、否定的に見なされたりしてしまう可能性が生じることになる。

では、中産階級の消滅に伴い、社会経験や日常生活は同質的であるという共同幻想──日本では、それは「一億総中流」という形をとった──もすっかり霧散してしまい、利害関心や価値観アイデンティティにおいて多元化したこの時代に、共有のものを取り戻そうとする努力は、どのように行われるべきなのか。そこで重要となるのが、人びとの間の差異をあらかじめ排除したり、事後的に克服されたりする対象として見るのを控えることだ。その上で、共通の課題を遂行すべく異なる人びとが集まり、一緒に活動する協働の機会や枠組みを模索することである。

この協働こそ《差異化された共有のもの》が、構築されるかもしれないその可能性にとって絶対的な条件といえる。なぜなら、異なる人びとが市民として出会い、互いを知ることになる協働の枠組みや機会がなければ、現代に相応しい共有のものの構築の可能性などそもそも探求のしようもないからだ。

もちろん、仮に構築されたとしても、その共有のものは限られた市民の間での、束の間のものかもしれない。むしろ、そもそもそうした程度のものさえ構築できるとは限らない。しかし、いずれにせよ、多元性の事実を前にしたとき、共有のものへの働きかけはこうしたアプローチをとらざるをえない。

こうして、代表制度に接続される新たな取り組みのもう一つの任務が明確になる。それは、共有のものを想像=創造するためには欠かすことのできない、協働の機会や枠組みを提供することである。

■エリート以外が政治に関わるのは有害という批判

代表制度の改革には、市民の参加と熟議が組み込まれるとなると、選挙で投票して終わりという現行の代表制度よりも、市民が政治で果たす役割や労力は増大する。このため、改革された代表制度がその機能を十全に発揮しうるかは、これまで以上に市民のパフォーマンスにかかってくることになる。ここから、こうした改革に対しては必ずといってよいほど次のような二つの批判が投げかけられる。

まず一つは、市民のコミットメントに関わる批判だ。多くのデータが示すように、現代の民主主義諸国の有権者はそもそも政治に参加する意思などない。半数近くの有権者はたかだか選挙に参加することさえ拒否をしているのが実情だ。その理由は、忙しかったり、時間の無駄と見なしたりと人それぞれかもしれない。あるいは、ただ関心がないだけかもしれない。しかし、いずれにせよ、実情に鑑みるなら、代表制度の改革が求めるような、より多くの参加などそもそも不可能だという批判だ。

もう一つは、市民の資質に関わる批判だ。それによれば、エリート以外の大多数の普通の人びとは、日常生活を営む以外の能力、特に公共的な活動に携わるのに必要な能力を欠いているため、そうした人びとを政治に関与させることはむしろ有害となるというものだ。

このエリート主義的見解は古代ギリシアから現代に至るまで、綿々と生き続けている。先に参照したシュンペーターのモデルからも分かるように、可能な限り市民の参加と熟議を制限する方向でなされる代表制度の擁護論のほとんどが、どのような理屈を持ってこようが、こうした愚民論的見解を根底に据えていることは疑いようがない。すなわち、政治はエリートあるいは専門家の仕事であって、愚かな素人は手を出すなというわけだ。

■重要なのは政治への関心を喚起させること

以上の二つの批判には数多くの反論が民主主義の信奉者からなされてきたが、ここではそれらを参照することは控えよう。その代わりに、これらの批判から出発する。すなわち、現代の民主主義諸国の有権者のほとんどは政治に参加し熟議をしようとする関心もなく、そのために必要となる知識も能力もないという批判をひとまず受け入れよう。その上で、もはや役に立たなくなりつつある代表制度を前にして、ただ手をこまねいているのではなく、改革しようとするなら何が必要になるかを考えてみよう。

その答えは明らかだ。政治に対する関心を喚起させること、政治争点を理解し解釈するための情報を提供すること、他人との協働をとおして政治的有効性感覚(political efficacy)を育成させること。これらが必要となる。ただ、はっきりしていることがある。それは、現行の代表制度における選挙に限定された政治参加だけでは、これらは望むべくもない、ということだ。

選挙権だけ与えて、普段の生活の範囲内で情報を収集し、せいぜい家族や友人と意見交換して、期日までに投票しなさいというのでは、十分な情報も有効性感覚も得られる可能性はほとんどないに違いない。

だとすれば、関心を喚起させ、情報を提供し、有効性感覚を付与するよう仕組みや働きかけ、すなわち、人びとを市民としてエンパワーする仕掛けを綿密に設計し手続き化した上で、既存の代表制度に組み合わせればよいのだ。

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藤井 達夫ふじい・たつお)
政治学者
1973年岐阜県生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科政治学専攻博士後期課程退学(単位取得)。同大学院非常勤講師などを経て2022年から東京医科歯科大学教授。近年の研究の関心は、現代民主主義理論。共著に『公共性の政治理論』(ナカニシヤ出版)、共訳に『熟議民主主義ハンドブック』(現代人文社)など。

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※写真はイメージです - 写真=iStock.com/bizoo_n