代替テキスト

住んでいた場所は違っても、年齢が近ければ「そうそう! わかる」って盛り上がれるのが、青春時代に家族で盛り上がったクイズ番組の話。各界で活躍する同世代の女性と一緒に、“あのころ”を振り返ってみましょう――。

「’88年に朝ドラ『ノンちゃんの夢』(NHK)でドラマデビューした後、民放初挑戦はフジテレビでした。『君の瞳に恋してる!』『愛しあってるかい!』(ともに’89年)など、トレンディドラマに出させてもらった関係で『なるほど!ザ・ワールド』(’81~’96年)には、番宣のため、何度か解答者として出演しました。一度は優勝して、発売されたばかりのハンディカムを賞品としてもらったんです」

こう語るのは、女優の藤田朋子さん(56)。幼いころから演じることは大好きで、お遊戯会や学芸会を楽しみにしていた一方、アイドルよりもゴダイゴ好きの、ちょっと変わった女のコだったという。

ゴダイゴが音楽を担当していた『キタキツネ物語』(’78年)を学校の行事で見に行ったのが“出会い”。たまたまその日の夜、テレビをつけたら赤いチャイナ服を着たおじさんが『アチャー!』ってシャウトしているのを見て、すぐにファンになったんです」

アイドル全盛期の’80年代初頭、藤田さんはゴダイゴの『OUR DECADE』(’79年)を聴き込んでいたという。

「中学のクラスメートにはマッチやトシちゃんが好きなコが多かったけど、“ちょっと人とは違う”というのがカッコよく思えて、少し遠巻きに見ていた部分が、私にはあったんですよね(笑)」

ゴダイゴへの強い思いから、プロデュースや作詞を手がけていた奈良橋陽子さんが主宰する英語塾の門をたたいた藤田さん。

「中3だったのに、受験塾じゃなく、英語劇をする塾に通い始めたので、友達からはびっくりされました。“タケカワユキヒデさんに会えるかも”って、中学生ならではの勝手な妄想を膨らませていたんです」

■オーディションにはことごとく落選、それでも開いた朝ドラヒロインへの道

英語劇を通じて、藤田さんは演じることへの興味をますます深めていく。

「『De☆View』(勁文社)という雑誌を見て、舞台や映画に出演できるオーディションを中心に受けました。でも、ことごとく落ちてしまったんです」

当時“視聴率100%男”と言われていた萩本欽一の『欽ドン!良い子悪い子普通の子』(’81~’83年・フジテレビ系)、『欽ちゃんのどこまでやるの!(欽どこ)』(’76~’86年・テレビ朝日系)、『欽ちゃんの週刊欽曜日』(’82~’85年・TBS系)を欠かさず見ていた。

「それで日曜は欽ちゃんが司会の『スター誕生!』(’71~’83年・日本テレビ系)。とにかく欽ちゃんが大好きで『週刊欽曜日』の欽ちゃんバンドオーディションにも応募しました。落ちてしまったんですが、そのことを後に欽ちゃんにお話しすると『それはよかったね』と(笑)。落ちたからこそ、女優として大きな経験となる朝ドラにつながったんだという、欽ちゃんならではの、やさしい表現でした」

オーディションには落ち続けたが、舞台に立ちたい思いは失われなかった。ただ、プロへのこだわりはそれほど持っておらず、ダメなら普通に就職して、社会人の演劇サークルに入ろうとも考えていたという。そんな藤田さんが大学時代、体育館で英語劇の稽古をしていたときのこと――。

「2人1組になり、1人が体育館の端から端まで向かっていき、もう1人がそれを阻止する。阻止されずに向かい側の端までたどり着けたら、夢がかなうという設定のゲームをしたんです。私は役者になりたいという夢を描いて向かい側を目指したんですが、結局、たどり着けず、くやしくて泣いてしまって。それを奈良橋さんは『いいよ』と褒めてくださいました。役者への思いがそれほど大きかったことに、気づかされた出来事でした」

ようやくオーディションで合格を射止めたのは、ミュージカルレ・ミゼラブル』。21歳のときだった。

「公演の1年前に決まって、それからは有名無名問わずカンパニー全員が集められ、絆を強めたり、作品への造詣を深めたり、発声練習をして、どのように声帯を動かすのが医学的によいかといったことまで学びました。斉藤由貴ちゃんと私がいちばん若くて、みんながすごくかわいがってくれました」

ミュージカル出演後、朝ドラ『ノンちゃんの夢』のヒロインに抜擢され、知名度は全国区に。

いえいえ、私自身はあんまり気づかれることもなかったんです。『愛しあってるかい!』では、陣内(孝則)さんや柳葉(敏郎)さん、キョンキョン小泉今日子)などすごい人たちが一緒だったので、京都のお土産屋さんでのロケなど、人が集まりすぎてしまったこともありました。危ないので、裏口からこっそり1人ずつ出たのですが、私が乗ったタクシーの運転手さんは私にまったく気づかず、『前のタクシーに小泉今日子が乗っているんだよ』なんて教えてくれたぐらい(笑)」

■レポーター業務に活きた語学力 英語で悪口を言う現地スタッフもお見通し

こうしたトレンディドラマの番宣で、開始当初からよく見ていたクイズ番組『なるほど!ザ・ワールド』への出演もかなった。

「司会の愛川(欽也)さんにくらいついて正解が出るまで何度も答えてしまったり、逆に愛川さんがヒントを出しすぎてしまったり(笑)。賞品が豪華だったので、みんな必死でした。愛川さんとは『渡る世間は鬼ばかり』(’90~’11年TBS系)でも共演しました。『なるほど!ザ・ワールド』は、いつも気にかけてくださる大事な先輩との、出会いの場ともなったのです」

90年代には、同番組のレポーターの仕事も、藤田さんの元に舞い込んだ。

「当時は女優さんが素を見せるのはタブーという考えが根強くて、レポーターの仕事を断っていた人もいっぱいいたそうです。私も悩んだんですが、ある先輩に『ダメならやめればいいし、とりあえずやってみたらいいんじゃないか』とアドバイスされて、挑戦してみることにしました」

ほかの番組の海外ロケと重なり、3週間で21回も飛行機に乗って、世界を巡った。現地では英語劇で学んだ語学が生かされたという。

飛行機の遅延、ロストゲージなどのトラブルに、スタッフと一緒に対応したり、英語がわからないと思って、私たちの悪口を言っている現地スタッフには『ちゃんとわかっているよ』と伝えたりもしました(笑)。女優とはまったく違う仕事でしたが、人間として成長できたというか、幅が広くなったと感じます。『なるほど!ザ・ワールド』は、“未経験でも、まずはやってみる”という、私の人生訓を与えてくれた番組でもあるんです」