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つらいことがあるたびに寂聴さんに救われたという南果歩さん(写真:本人提供)

「その人の顔を見た瞬間、どんな言葉をかけてほしいか、私にはわかるの」、天台寺や京都寂庵での法話、インタビューなどで数々の名言を生み出してきた瀬戸内寂聴さん。言葉の達人であるだけではなく、心を癒す達人でもありました。

今回登場してもらったのは、いずれも寂聴さんと縁で結ばれていた人たち。それぞれの「私を救ってくれた寂聴さんの言葉」を教えてもらいましたーー。

■「苦しいことも含めて人生。すべてが栄養になります」ーー女優・南 果歩さん(57)

’21年12月に京都の寂庵に伺いました。何度もお邪魔した場所なのに、瀬戸内寂聴先生がいないと、とてもひっそりしていて……。でも不思議ですよね。最初は私も先生の遺影の前で泣いていたのに、寂庵のスタッフの方と思い出話をしているうちに、明るい先生の姿が浮かんできて、笑ってしまうこともありました。

逝去されてからも、私たちを笑顔にしてくださる先生は本当にすごい方です。先生からは『いまを悔いなく生きること、いまを切に生きること』と、繰り返し教えてもらいました。ご自身が作家として生き切ったからこそ、私たちもそんな気持ちになれるのだと思います。

先生と初めてお会いしたのは、女性自身さんの対談企画(’95年4月25日号)です。そのとき『もう(おなかのなかに赤ちゃんが)入ってんじゃないの? 私の勘は当たるんだから』と、おっしゃったのです。まだ公表していなかったのですが、本当に妊娠中でしたのでドキリとしましたね。それ以降、先生のお誕生日の5月15日ごろにご挨拶に伺うようになりました」

南果歩さんは2度の離婚を経験。また’16年には乳がんが発覚し、その後に手術を受けた。

「つらいことがあるたびに先生に救っていただきました。闘病のときには、『病気にならないに越したことはないけれど、病気をしたことで、これまでと違う物事の感じ方ができるようになる。別の人間になるチャンスを与えられたのよ』と。

確かに自分が苦しい思いをすれば、人の痛みがわかるようになりますし、人にも優しくなれますよね。そういう意味では病気になることは、悪い面だけではないと思えるようになりました。

そして2度目の離婚のときには、『いろいろな感情を味わいなさい。すべてが人生の栄養になりますよ。何かあるほうが人生に彩りを与えてくれる。苦しいことも含めて人生なのよ。一人になったのだから、これからは自由に生きられます』と。つらいことがあっても、何時間か先生と過ごすと、すごく心が軽くなって家に帰ることができるんです。

最後にお話ししたのは’21年5月15日、先生の99歳のお誕生日でした。足の血管を広げるカテーテル手術を受ける直前だったそうですが、小一時間ほど電話でおしゃべりしました。

『先生、100歳でアイドルになれる人は瀬戸内寂聴しかいないんだから、早く退院して元気になってくださいね』
『本当に長く生きたから、もういいと思ったけれど、それ(100歳のアイドル)も悪くないわね』

そんな話をして2人で笑い合ったのです」

南さんは2月4日に自伝エッセイ『乙女オバさん』(小学館)を出版する。2度の結婚・離婚や闘病などについて、また喪失から立ち直った経験などをつづったという。

「以前にもエッセイを2冊刊行したことがありましたが、先生からは『もっと日常的に文章を書きなさい』と、勧められていました。『演じることはあなたにとって必要なことだけれど、書くことも向いているから』って。本ができあがったら先生も喜んでくださるでしょうか。また寂庵にご報告へ行ってきます。

そういえば先生からは、『“瀬戸内寂聴物語”という企画が(映画やドラマで)あったら、あなたが晩年の私を演じなさい』とも言われていました。ぜひ剃髪してからの先生に挑戦してみたいです」

■「一隅を照らす、これ国宝なり」ーー天台寺責任役員・千葉康行さん(77)

「寂聴さん晋山(新しく住職になる者が初めてその寺に入ること、’87年5月)のときには毎日のように、京都から大量の荷物が浄法寺町(現・岩手県二戸市)の役場に届きました。

当時は車で天台寺まで登るのが容易ではなかったので、布団、仕事机、資料の書籍、立派な屛風、台所用品……、子供たちへのお土産の大きな白い象までが役場に山積みになって、職員たちが『まるで花嫁が来るみたいだ』と、目を丸くしてました。

当時の天台寺は、賽銭箱に入っているのは木の葉だけ。電気代が払えなくて止められていたような貧乏寺にあきれた寂聴さんが、1千万円もの大金を役場に寄付してくれたのには、たまげましたね。そのとき寂聴さんが、『見合いで仲人に騙されて、結納ももらわないのに、嫁入り道具と持参金を持ってきたようね』と、笑っておっしゃったのが、いまでも忘れられません」

天台寺の名前を全国に知らしめた青空法話。そのスタートから千葉康行さんは司会を務めた。

「晋山の1カ月後には青空法話の記念すべき第1回がありました。境内に大急ぎで玉砂利を入れ、28軒の檀家が当日の早朝から集まって、そこにゴザを敷き、お客さまを待ちました。

寂聴さんと私たちは『100人か200人来てくれればいいね』と息を呑んで待ち受けていました。そうしたら午前中から続々と善男善女が御山(天台寺の立つ山を地元の人々はそう呼びたたえる)に登ってきて、午後の会と合わせると1千人もの方がいらしてくださったのです。そして秋の例大祭法話には全国から貸切りバスで参拝者が集まりました。人口8千人の町に、なんとその数1万人!

急きょ大型バスの駐車場や休憩所を造ったら、県道と御山の間を流れる安比川に架かる橋が落ちてしまいました。コンクリート製の橋に架け替え、参道の石段を修復して、寂聴さんが京都から持ってきた紫陽花を植えて……、小さな町はもう大騒ぎです。私たち檀家は休むことなく勤労奉仕の日々が続きましたけれど、誰一人として不満はもらしませんでした。

法話の司会をさせていただいておりましたので天台寺での法話は30年近くすべて聴いています。そのなかに《一隅を照らす、これ国宝なり》という天台宗開祖・最澄の教えが何度も出てきました。表舞台ではない、一人ひとりが自分の置かれた地味な場所で自分のできることにベストを尽くす。

そういう人こそ国の宝だ、というような意味です。その言葉は私の生き方を変えたかもしれません。ほかの檀家衆も気持ちは同じです。寂聴さんが奇跡を呼び起こしたかのように立派に修理された天台寺を、私たちは新住職とともに末永くお守りしていこうと、意を新たにしています。

御山のなだらかな斜面に造った墓地に、寂聴さんのお墓もあります。花々が一斉に咲き競って極楽浄土のように美しくなる5月には納骨される予定です。そのときには、その天真爛漫さで寂聴さんの命を100歳近くまで燃やし続けてくれた秘書の瀬尾まなほさんなど、多くのゆかりの方々と再会できるのではと、白雪降る天台寺で関係者一同、首を長くしてお待ちしております」

■「辛抱していれば必ずいい時が巡ってきます」ーー京都寂庵の堂守・馬場君江さん

「私が先生にお仕えして、29年と7カ月になった日でした。早暁の4時ごろ、病院からの連絡が、秘書のまなほさんを通じてまわってきて、寂庵のスタッフ全員と、先生のお嬢さんとお孫さんが病室に駆けつけていました。

みんなで『先生!』と呼びかけると、目を開けてくださったのですけど……、間もなく目をつむり、スーッと眠りに入っていかれました。思わず手を握ると、いつもと変わらない柔らかな手で、お顔も本当にきれいで、穏やかでした。

最後にお話ししたのは10月末でした。先生が私を見て、『明日、退院するからね』と、いつになく弾んだ声でおっしゃって、私が『先生、待ってますよう』と、笑い返したのが最後でした。

もう先生はいらっしゃらないと思うと、何だか全身から力が抜けて、寂庵に通うのがつらくなってしまいました。でも亡くなった数日後、道場のご本尊・観世音菩薩の前にお骨が帰ってきたのです。

戒名にあたる法名は『(ひへんに華)文心院大僧正寂聴大法尼』、遺影は先生が気に入っていた、写真家の篠山紀信さんが撮ったものです。

天台寺にご自分で用意なさった墓所は、12月から翌年の春まで積雪が解けません。それまでお骨は道場に祭られていますから、それをお守りすることが堂守の私の役目かな、と思いいたりました。

いまは毎朝道場に通ってお花と線香を替え、精進料理のお供え膳を上げ下げしています。お味噌汁、野菜の煮物、漬け物、先生のお好きだったお豆などをお台所で用意していると、『いつもおいしいご飯を作ってくれてありがとう』という先生の声がどこからか聞こえてくるような気がして……、あとからあとからいろいろなことを思い出すのです。

あれは13年前の春でした。長年勤めていたスタッフ全員で相談して、『私たちを雇い続けるために先生が無理して働かなくてもいいように』と、退職願を出したのです。長引く不況のさなかに自分から辞めるなんて、ふつうは考えられません。スタッフはそれほど先生に感謝し、大好きだったのです。先生とお別れするのはつらいけど、私もそのつもりでした。

そうしたら先生に呼ばれて、『あなたはお寺(嵯峨野サンガ=道場)のことをしているから、寂庵に残ってね』と、言われました。

それからずっと堂守をしながら、道場での法話の会では、へたながら司会もさせていただくようになりました。そんな先生との長い生活の中で、ひとつ、印象に残っている言葉があります。

『どんなに苦しいことも、つらいことも、決していつまでも続かない。辛抱していれば必ずいい時が巡ってきます』という言葉です。

これから寂庵はどうなるのでしょうか……。あれこれ考えているとつらいし、そんな自分が悲しくなります。でも先生は、どんなに悲しいことも続かない、とおっしゃいました。

先生が満100歳のお誕生日を迎えるはずだった’22年5月で私が先生にお仕えして30年になります。少なくともそれまでは大事にお堂を守らせていただきたいと、いまはただ、そう思っています」