「神風が吹いた」と…紀子さまのご懐妊報道と悠仁さまご誕生で“女性女系天皇容認”の議論が唐突に中断されるまで から続く

文藝春秋」2月号よりノンフィクション作家の石井妙子氏による「『愛子天皇への道』皇室の危機を考える」を一部公開します。(全2回の2回目/前編から続く)

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明治に起こった活発な“女帝議論”

 1875(明治8)年に明治天皇は「立憲政体を立つるの詔書」を発表。元老院も設置され、憲法を起草する動きが加速していく。全国で活発な議論が起こり、政府だけでなく各地で人々が憲法試案を作った。それらの中には「女帝を認める」としているものも数多くあった。

 後に立憲改進党の母体となる政治結社の嚶鳴社も憲法論議の中で「女帝を立つるの可否」という大討論会を1882年に開催。内容を「東京横浜毎日新聞」で発表した。

 女帝否定派が「女帝が配偶者を得た場合、婿が女帝に対して采配を振るい政治に関与するのではないか」と意見すれば、賛成派は、「婿が政治に干渉することは憲法で禁じればいい」と応じ、また否定派の「我が国の現状は男尊女卑なので天皇が女性だと婿のほうが天皇の上になってしまう」との主張に、賛成派は「男尊女卑の風潮はあるが、それは一般人民の話であり、皇室にあてはめるべきではない」と反論した。賛成派が8名、否定派が8名。明治において、これだけ女帝が支持されていたという事実は今日、あまり知られていない。

「皇位を継ぐ人は正嫡子」と学んだ伊藤博文

 政府側の立憲責任者であった伊藤博文1882年、各国の憲法事情を視察調査するため欧州に滞在していた。伊藤はオーストリアウィーン大学で国家学を教えるローレンツ・フォン・シュタイン教授に出会い、その教えに深く傾倒する。伊藤博文明治憲法成立の過程を長年、研究する国際日本文化研究センターの瀧井一博教授が語る。

伊藤博文はシュタインから『皇室の皇位継承は非常に重要で、しっかりしていないと国が乱れる原因になる。継承の順番は明確にルール化しなければいけない』と教えられます。憲法をつくるよりもまず先に、憲法とはわけて皇位継承を定めた法を作らなくてはならない、と。シュタインは『重要なのは血筋である。長子相続で男性に継がれることが望ましいが、適当な後継者がいなければ女性でもいい』と説きます。さらにシュタインが重視したのが、一夫一婦制と庶出の問題でした。『今の天皇も正式なお妃から生まれた方ではないと聞いているが、ヨーロッパでは考えられないことだ。皇位を継ぐ人は正嫡子でなければならない。この点は改めたほうがいい』と伊藤に言います。一夫多妻で庶子でも皇位につけることは、西洋人には生理的に受け入れられないことでした。伊藤もよくこの点は理解し、帰国後、憲法に反映しようとしました」

 しかし、母国日本においては、高貴な身分にある人々は天皇家でも武家でも一夫多妻が一般的であり、歴代天皇の約半数が側室を母に持つ庶出だという現実があった。また、何よりも日本の一般社会では男性を女性よりも上に見る男尊女卑価値観が徹底している。富国強兵を目指す時代でもあり、女帝の選択肢を残すことが日本の国づくりにおいては難しい状況でもあった。

 翌年に帰国した伊藤は、悩みながら憲法と皇室典範の作成に着手する。当初は「男系男子を基本としつつ、やむを得ない場合には女系で継ぐ」と考えていた。現に1886年頃に発表した皇室典範の草案「皇室制規」では女系を容認している。

「女帝を認めず男系男子に限定するべき」

 しかし、これに真っ向から異を唱えたのが、伊藤を補佐する立場にあった法制官僚の井上毅だった。彼は嚶鳴社の「女帝を立つるの可否」論争における反対派の意見を引用した反論文「謹具意見」を提出。「女帝を認めず男系男子に限定するべき」と強く主張した。熊本藩士の家に生まれ育った井上は儒教的な男性優位の伝統の中で育ち、そうした信条を彼自身も強く持っていた。

 この井上の反論に対して、伊藤は意外なほどあっさりと、これを聞き入れ、女帝容認という自説を手放し、「皇位継承は男系男子に限る」とする井上の意見を取り入れる。だが、その一方で、井上に折れず、自分の意見を押し通した箇所もあった。それが「天皇の譲位(生前退位)」である。江戸時代までは生存中に退位し、天皇の位を次代に譲ることが、当たり前に行なわれていた。井上はこの伝統を残すべきだと主張したが、伊藤は却下し、「天皇は崩御するまで終身、天皇であり続けなければならない」として、生前退位を否定する文言を皇室典範に入れる。生前退位をきっかけに皇統をめぐる争いが起こり、国が乱れることを危惧したからだろう。

伊藤が「女帝」と「生前退位」を封じた真の思惑

 瀧井教授が語る。

「伊藤は西洋の慣習を意識していましたが、同時にあまりにも国情から離れた憲法を作ったのでは国に定着せず、うまく運用できなくなる、ということもよく理解していた。だから日本の伝統的な考えを代表する井上の意見にも耳を傾け、折れるところは折れている。男系による万世一系こそ日本の伝統という井上の“発見”を聞いて、そのほうが国もまとまるし、日本の歴史を国際社会にアピールできると合理的な判断を下したのだと思います。井上は、伊藤に比べて非常に理詰めでものを考える人で、机に向かって国学や法律を勉強した熊本藩士の秀才です。

 伊藤の根本には、皇室が政治化することを避けたいという考えがあり、天皇はシンボル的な存在であることが望ましいと考えていた。つまり伊藤は今日の象徴天皇制を先取りしていたのです。大権を持った、優れた天皇が統治することを理想視した儒教的な徳治主義者の井上とは、そこも大きく違っていました。伊藤自身は法律そのものに興味があったわけではなく、法律をどう運用するか、どう機能させるかを考えていた。伊藤の中には大きな国家ビジョンがあり、井上のことは法律の文言を考えさせるために重用し、ある種、利用した。井上もそれを悟って死ぬ間際、『自分は伊藤のおかげで人生をし損なった』という言葉を残したのでしょう。

 伊藤は『世の中のものは全部、変わっていく。万物は流転する』とも言っています。それが彼の人生哲学でした。一方、井上は、『変わってはいけない不動のものがあるはずだ』と考える。非常に対照的なんです。そうした両者の落としどころが、明治の憲法であり、明治の皇室典範だったんです。あの時代にヨーロッパの文明国に仲間入りするためには、男系男子主義を取らざるを得なかったのだと思いますが、今はまた違った局面を迎えているのではないでしょうか。私は伝統というのはいろんな引き出しのある棚だと思っています。井上はあの時代に『男系』という引き出しを引いた。でも、今の時代に井上がいたなら別の引き出しを開けて、そこから理論を体系化するかもしれない」

 時代を見据え、その時代の制約の中で、「女帝」と「生前退位」という2つの伝統を伊藤は憲法と皇室典範において封じた。皇統を安定化させるという目的のために。

廃止できなかった側室制度

 その一方で、伊藤が廃止したくとも廃止できない伝統もあった。それが側室制度と庶出である。

 ノンフィクション作家の石井妙子氏による「『愛子天皇への道』皇室の危機を考える」の全文は、「文藝春秋2022年2月号と「文藝春秋digital」に掲載されています。

(石井 妙子/文藝春秋 2022年2月号)

2020年3月、宮中三殿を参拝するため、皇居に入られる愛子さま ©共同通信社